第38話 傲慢の金曜日

 昨夜、夢を見た。それはいつか私が見たのであろう光景だった。毎日使っているあの場所に少年がいた。その少年はまだ幼く、いつも見ているその場所にしてはやけに大きく感じた。そこには少年の頃の私と、私の手に繋がれた大きな手の人物がいた、おそらく母だろう。そして少しだけ離れたところにもうひと家族いた。小さな女の子がやたらと騒いでいる。歳はおそらく私と対して変わらない。私はその光景をなんの気もなしに傍観していた。まもなくして優しいメロディに包まれる。これも何度も聞いたことがある。そのメロディが流れた直後騒いでいた女の子が線路のほうに向かっていくのが見えた。その瞬間、私の体は彼女めがけて走り出していた。彼女の前に立ちはだかるように現れた私はそのまま彼女と衝突し、線路に落ちた。その瞬間、私の体はふわりと舞い上がったような感覚を覚え、私の体から離れて行った。俯瞰でその光景を見ていた。線路に落ちた少年と少年とぶつかって後方のフェンスにぶつかる少女、その少女のもとへ駆けつける家族、線路の方へと駆けつける少年の母であろう人物。まもなく電車がホームに入ってくるところで目が覚めた。

 昨日、彼女の残してくれた手紙に書いてあったことの顛末はこんな感じだったのだろう。夢で見てもさっぱり覚えていない。そう言えば私の家族は当時の私のことを何も話してくれたことはなかった。しばらく私がいなくなった時間のことをどう思っているのだろう。そもそも何も話してくれたことはなかった。知らないなんてことはないはずだが・・・そして一つ、一つだけ思い出したことがある。思い出したと言うかわかったこと、と言ったほうがいいか。今まで私は彼女の名前を気にしたことはなかった。気にしないと言うより、別に気にならなかった。彼女とそう言う話をしてもなんとなくはぐらかされてきたし積極的に話したいことではなかった。でも、夢の中ではっきりと聞こえた。彼女の家族がその名前を叫ぶ声が。

 彼女がいないとわかっていてもやはりこの場所に来るのはいつものことで、彼女がいない分、寒さや居心地の悪さが増したような気がした。私は、彼女と過ごした日々を思い返していた。初対面からやたら馴れ馴れしく、人のことを小馬鹿にしてきて、でも芯のある人物で、自分の言うこと、やることに曇りのない人で、おちゃらけているのかと思いきや、急に真面目なことを語り出して、ほんと掴み所のない人で、でもいつも真っ直ぐに私を見てくれる、私が初めて好きだと思えた人。彼女と出会えてことで自分が今まで知らなかったいろんな価値観を知ることができたし、知らない自分を知ることができた。何より、誰かのことを思うことがこんなに素敵で、苦しいものだと、感じることができた。私は彼女に感謝しなくてはならない。いや、しなくてはならない、なんて義務的なものではないな。素直に心から感謝しているんだ。彼女に出会えなかったら、こんな気持ちを知ることもできなかったし、あの頃のまま、くだらない生活をただ惰性に送っていただけだったろうから。だから、だから心から彼女に、君に伝えたい。


「ありがとう、茜さん」


 私がこぼした言葉は秋の終わりを、そして冬の到来を感じさせる冷たい風邪にさらわれてはるか高く、朱色の空に向かって運ばれいくように感じた。


「感謝の気持ちも、好きってことも、結局何一つ、伝えることは叶わなかったなあ・・・。私も死んだら、彼女のもとに行けるのだろうか・・・」


「な〜に言ってんのよ、少年!」


 振り返るとそこには、私が何度も思い出して、思い返して、思いを巡らせて、焦がれ憧れていた人が立っていた。


「え・・・なん、で」

「蘇ったの、私」

「え・・・は?」

「なんてね、そんなわけないでしょ。あんた、私の名前呼んだでしょ、茜って」

「え、あぁ」

「私たちがいる彼岸の世界の人間は基本的にはこちらの世界に来ることはできない。だけどね、此岸の世界の人間に名前を呼ばれたら、一度だけ、そっちの世界に行くことができるの。」

「え、じゃ、じゃあ名前くらい、教えておいてくれたらよかったのに」

「それはそうなんだけど・・・名前を教えちゃうと、忘れづらくなっちゃうような気がして・・・。私の名前を覚えてると私の名前を聞く度に思い出してしまうでしょ?茜なんて名前珍しくもないし、きっと何度も耳にするわ。その度に、私のことを思い出して、切なくさせたくなかったのよ」

「そんなことない!そんなこと、ないですよ!じ、自分はあなたのことを忘れたいなんて絶対に思わない!思うわけがない!こんなに忘れたくない記憶をたくさん植えつけてくれたのに、今更忘れるなんて、できるわけないじゃないですか・・・」

「そっか、忘れないでいてくれるんだ」

「それに、もし、名前なんて知らなくても、自分はあなたのことを一生忘れない。その柔和な物腰、時折見せる気丈な振る舞い、天真爛漫な性格、そして、その真っ直ぐな瞳。そんな、いろんな表情のあなたを自分は知ってます。そのどれもが、自分にとっては新鮮で、魅力的で・・・忘れられるわけないじゃないですか。」

「私、そんなに立派な人間じゃないわよ?」

「そんなこと言っても、あなたがそう思っても、自分にとっては素敵に見えるんですから、仕方ないじゃないですか」

「あんた、結構傲慢なのね」

「それはお互い様では?」

「言うようになったわね、少年」

「少年じゃないです、自分にだって名前はあります」

「えぇ、知ってるわ、哲(あきら)でしょ」

「え、なんで」

「そりゃ、知ってるわよ、あの日、あなたのお母さんが叫んでいたもの、何度も何度もそ、それに私と同じ”あ”からはじまってたからすぐに覚えちゃったわ」

「そうだ、そうですよ、母は、当時のことを何も言ってきたことはないのですが、どう思ってるんでしょうか」

「あぁ、それなら多分、何も言わないんじゃなくてほんとに何も覚えてないのよ」

「え?」

「当時、あなたが向こうの世界に行ってしまったことはあなたの家族にとっては耐えがたい出来事だったと思うから、私があなたと入れ替わるときにその時の記憶は全て消してもらったの。私の世界の主人にね」

「そ、そんなことが」

「話したかったら話してもいいわよ」

「いえ、やめておきます。忘れてるとは言え、その瞬間は相当ショックだったでしょうし、母は今何事もなく暮らしていけてるので、十分です」

「そう、ね」


「あの、茜さん」

「ん?」

「好きです」

「・・・」

「本当は、あなたがいなくなる前に伝えるつもりだったんですけど、どうしても勇気が出なくて、でもいなくなって身に染みました。伝えたいことは口に出したいときに出さなきゃ、伝わるもんも伝わらないって。もしもう一度会うことができたら、絶対に伝えようと思ってました。伝えないほうがいいなんて思ってたこともありましたが、伝えないほうが100倍後悔するし、辛いことを知りました。なので伝えます。茜さん、あなたが好きです」

「も、もう!ほんの少ししか離れていなかったのに別人みたいになって・・・そんなに真っ直ぐに伝えられたら、照れるじゃん・・・でも、ありがとう。すっごく嬉しい。」

「返事とかそう言うのが聞きたいわけじゃないので、自分がただ伝えたかっただけなので、ただ、それだけなので」

「ううん、私もちゃんと言うわ。あんたは私が真っ直ぐだって言ってくれたけど、1番伝えたいことは言えてなかった。私は全然真っ直ぐな人間じゃないわ。あなたへの後ろめたさとか、家族への申し訳なさとか、自分の情けなさとか、いろんなどうしようもない感情と日々葛藤してきた。めちゃくちゃにひん曲がった、弱い人間なのよ。でもここであんたと話してると、なんだかんだ私の話を聞いてくれたり、誰かのことを考えて必死に悩んだり、答えを出そうとしているあんたを見て、元気をもらってたの。あんたは自分には何もないとか言ってたけど私からしたらあんたこそ、真っ直ぐで、純粋で、人間的で、そんな綺麗なあんたに私はずっと救われてきたの。あの日からずっとあんたは私のヒーローだったのよ。そんなあんたが、私はずっと大好き。」


 なんだ、私はまた罪を犯すのか。これまで散々彼女と関わる中で大罪を犯してきた。暴食、怠惰、強欲、憤怒、色欲、嫉妬、と。私は彼女のことをわかったつもりでいた。彼女のことを知った上で、彼女の魅力もわかった上で、彼女が素敵な女性だと認識して、好きだと思っていた。それは間違いではなかった。ただ、不十分だった。私の知らない彼女がまだたくさんいて、彼女を知っているなんて言うことはこれまでの私には到底できるものではなかったのだ。そうだな、私が最後に犯した罪は傲慢だ。だがそれでいい。きっと、知らないことがあるほうが魅力的に思える、そんな気がする。だから私は、この大罪を、犯し続けることにする。何度も知った気になって、そして知らない彼女をまた知って、より好きになろう。その果てに、好きとか、そう言う感情を超えた、感情を知ることができるのだろう。そのときにまた彼女に気持ちを伝えよう。今度は迷わずに、真っ直ぐ伝えられるだろう。


「それじゃあ、私はそろそろ行くわね」

「はい」

「また、会えますかね」

「さあ、どうだろうね、住んでる世界が違うからね」

「そうとは思えないですけどね・・・死んだら」

「死んだらあえるか、とか、考えちゃだめよ」

「え」

「あんたには生きてもらわなきゃ、生きてて欲しいの、お願い。」

「はい、わかりました」

「どうしても私に会いたくなったらこの場所に来るといいわ。こんなふうに面と向かって話はできないでしょうけど、何か感じ取れるものがあるはずよ」

「そうですね、必ず、きますよ。ていうか、少なくとも高校卒業するまでは毎日通うんですから」

「それもそうね」

「茜さん」

「ん?」

「あなたさっき、後ろめたさがあるって言ってましたけど、そんなこと考えなくていいですから。茜さんを助けて一度そっちの世界に行ったこと、これっぽっちも後悔してないですから。それよりも、自分にたくさんのことを教えてくれて、感謝してます。本当に、ありがとうございました」

「あんた、変わったね、なんか、大きくなった気がする」

「だとしたら、あなたのおかげですよ」

「ねえ、最後にさ・・・ダメ?」

「えぇ、わかりました」


 私たちの間を冷たい風が通り抜ける。その間を埋めるように、私たちは抱きしめ合った。もしお互い生きていたらこれから何度もできただろう。そんなことを考えてしまうのは、やはりまだ彼女と離れることを受け入れることができていないのか。そりゃそうだろう、受け入れたいわけない、これからだって何度も何度も、何度だって、こうして抱きしめたかった。その日、私たちの距離が初めてゼロになった。


「よし、じゃあ、またね」

「え・・・ふっ、はい、また」


 優しいメロディがホームを包み込む。彼女と初めて会った頃から何も変わらないメロディ。しかし私の気持ちは日々変わっていく。いつか、きっと、このメロディをまた違う気持ちで聴くことができるのだろう。そう思い、私は彼女の真っ直ぐな瞳に別れを告げた。

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