第37話 傲慢の木曜日

 頭が真っ白になるというのはきっと、こういうことなのだろう。昨日のあの瞬間、彼女が目の前からいなくなった瞬間から、何も考えられていない。よく無事に帰ることができたと言ってもいい。それからどのように夕食を済ませ、風呂に入り、就寝して、どうやって今日いつものように学校に来たのだろうか。全く覚えていない。これが習慣というやつか。恐ろしいな、全く。何も考えていなくても生活できるならもう何も考えずに一生を終えてもいいのではないか。思考するから我々人間はありとあらゆる選択に迫られその度に迷って悩んで、何度も立ち止まってしまう。それならいっそ、何も考えずにただぼーっと生きていたい。ロボットと同義の存在になってもいいや、もう。いや、生産性だとか、学習能力だとかを考えるとロボットの方が優秀で有能で有用だな。もはやロボット以下の価値しか私にはない。というか、いらない。昼休み、中庭の自販機で飲みたくもないコーヒーを買ってそのまま脇のベンチに力なく腰掛ける。

 何か考えようにも、考えどころがないのだ。何か前触れや原因になりそうな情報があれば少しでも考える余地があるというものだが、何もない。消えたのだ、文字通り。姿を消してしまった。にわかには信じがたいその現象をただただ眺めることしかできなかった。何もできなかったし何もわからなかったし何も言えなかった。そう、結局「好き」の一言も言えていない。しかし、もはや「好き」どころか言葉を交わすことさえも叶わないのではないだろうか。唯一の手がかりというか、わかっていることは彼女が最後に放った「もうこの場所には来れない」という言葉だ。彼女との唯一の逢瀬であったあの場所に、もう彼女は来ない。それは事実上の別れを意味する。事実上なんて回りくどい言葉を使わなくてもいいか。シンプルにお別れだ。もう会えないのだろう。彼女は虚言を吐かない真っ直ぐな人間だ。そんなことはもう散々わかっている。その彼女がもう来れない、と言ったのだ。そして私と彼女が会う可能性がある場所といえばあの階段の下のみ。こうもあっさり別れが来るなんて、なんなんだよ、いなくなるならいなくなると言ってからいなくなってくれ。それでも文句の一つも言ってやらないと気はすまないだろうが・・・。

 午後の授業も上の空で何も頭に入らず、そのまま放課後を迎えてしまった。あれだけ放課後が来るのが待ち遠しかったのに1日でこうも変わってしまうのだな。人生何が起こるかわからない、全くその通りだ。しかし振り返ってみると、彼女と過ごしたこの数週間、知らない女の子と知り合い、話をしていく、それだけでも私からしたら予想だにしなかったことで、私の人生を確実に豊にしてくれた、貴重な時間だったことは間違いない。学校にいても仕方がない、とりあえず帰ることにしよう。右足と左足を交互に機械的に出して前へ進む。時々思い出したように顔を上げてみるが、ため息をこぼし視線を落とす。失って初めてその大切さに気づくなんてことは何度も聞いたことがあったしわかっているつもりだったが、そんなものはなんの参考にもならない。自分で実際に経験してみるのとそうでないのとでは雲泥の差だ。これからまた、1人で電車を待つ時間に戻るのか。戻るといえばそれまでだが、彼女と出会う前の時間にすっかりそのまま戻れるかと言われると、それは到底無理だ。当時とは違い、今の私には彼女と過ごした時間がしっかりと海馬に刻み込まれている。忘れられるわけがないし、思い出さずにはいられない。彼女がいない日常に、いつか慣れるのだろうか。

 真っ直ぐに駅へ向かい、階段の下についた。この時間なら間違いなく彼女はいるはずだ。しかし。いない。あんなことを言っておきながら冗談でした、なんて展開をほんの少しでも期待したが、そんなことは起こらないようだ。彼女のいないこの場所はこんなにつまらない場所だったかな。いつもの「よ。少年」っていう気の抜けた声が聞きたい。それに私も「どうも」って、そう答えたい。そんなに難しいことを言っているだろうか。こんなことも叶わないなんて、私が何をしたというのだ。

 ふと視線を落とすと、フェンスの下に空いている穴に何か引っかかっているのに気づいた。紙切れのようだ。いつもなら見向きもしないが何故かこの時は拾わなければいけない気がした。拾ってみるとそれは手紙だった。最初の一行を読んで、誰の手紙かはすぐにわかった。


-----よ!少年。結局こんな形になってしまって、ごめんなさい。あんたといる時間が思ったよりも楽しくてさ、大事なことを言う前にタイムリミットが来ちゃったみたい。結論から言うとね、私はあんたと同じ世界の人間じゃないの。もっと言うと、私は生きている人間じゃない、もう死んでるんだ。じゃあ、私がいる世界は死後の世界かって?ちょっと違うんだなあ。私がいる世界は彼岸の世界。お彼岸とかって聞いたことない?無駄に物知りなあんたなら聞いたことくらいあるでしょ?春と秋のある期間のことやその期間の行事だったり、他にも生死を超越したものだけが辿り着ける境地なんて言われ方することもあるみたいだけど、私がいるのはそんな素敵な世界じゃない。私は生死を超越なんてしてないし、いまだに自分が死んだことを認められずにいる、半端な人間なんだ。なんでそんな私があんたと話せたか?そもそもなんであんたに会ってたか、気になる?


「いやいや、ちょっと待て、いきなりなんてことを暴露しやがるんだこの人は。さすがに頭が追いつけない、てかなんだ、え、死んでる?いや、そんな馬鹿馬鹿しい話を信じるわけが・・・」

 待てよ。そういえば彼女はいつも電車が来ても電車には乗っていなかった。正確には私とは同じ車両には乗っていなかった。電車の中でも話したいと思ったことはあったが彼女が「今日はここまで」と言うから特に理由は聞かずにその場で別れていた。私が車両に乗っていくのを見届けてから彼女も別の車両に乗っているのだと思っていたが、違うのか、彼女はこの場所に残って自分の世界に帰っていたのか・・・

「だとしたら、彼女はこの場所でしか私に会えないのではなく、そもそもこっちの世界ではこの場所にしかいられなかったのか。でもなんで・・・」


-----その前にまず、私とあんたの関係を話しておく必要があるわよね。あんたは数週間前、初めて私と出会ったと思ってるんでしょうが、それは違うわ。私とあんたは10年前に会ってる。


「な、なんだと・・・」


-----でも、その一回でお別れしちゃったから覚えてなくても無理もないわね。て言うか、忘れたかったんじゃないかな、当時のあんたは。

 あれは10年前の今くらいの季節だった。私は両親とこの駅で電車を待ってたわ。元々私はこの街に住んでて、その日は隣町、そう、あんたが住んでる街に出かけようとしていたの。そこにあんたもいたのよ。あんたは母親と2人で私たちと同じように電車を待ってたわ。なんであんたがいたのかは私もわからないけど。私は出かけるのが楽しくてついはしゃいでしまってた。それで、電車が到着するベルが鳴ったの。そのベルで電車が来ると思った私はますます調子に乗って線路のほうに駆けて行ったの。今考えても愚の誇張よね。そんなことするなんて、本当どうかしてるわ。その時、飛び出した私の前に突然小さな男の子が両手を大きく広げて飛び出してきたの。そう、あんたよ。その直後、あんたは線路に落ちて、私はフェンスに後頭部を思いっきり打ちつけたらしいわ。そこからの記憶が曖昧なの。ただ、あとで聞いた話だと、線路に落ちたあんたは電車が来る直前に消えたらしいわ。頭を強くうった私は気を失った。一命をとりとめたのだけど、それから頻繁に変な夢を見るようになったの。駅のフェンスに穴が開いていて、その穴から人が出入りしている様子を近くですっと見ている夢よ。それで、気になって駅に実際行ってみたの。そしたら、フェンスに穴が開いていて、見つめてたら、気づいたらこっちの世界に来てた。どう?驚いたでしょ?

私だって最初はわけがわからなかったわよ。


「はあ、本当に何を言ってるんだこの人は。どう?じゃないですよ。もう何が何だか、でも、確かに幼少期の頃の記憶が曖昧なところがある。ある時期の記憶がポッカリ抜けているような感じだ。子供の頃の私が彼女を助けようとしたと言うのか・・・それで線路に落ちて・・・そういえば、線路に落ちて消えた私はどうなんたんだ」


-----こっちの世界に初めて来た時、主様、こっちの世界の長みたいな人がいるんだけどね、その人に言われたの。とある少年があの事故からこっちの世界にいるって。その少年があんただったの。あんたは眠ってたわ、落ち着いた表情で、まるで死んでるのか生きてるのかもわからないくらい。それで言われたの、この少年を助けることができるのは君だけだって。あんたは私の愚行のせいでこっちの世界に来てしまった。こっちの世界に来るとそっちの世界には完全に戻ることはできないんだって。普通は。でも、そっちの世界の人が身代わりになってこっちの世界に来るならそっちの世界に戻すことができるって言われたの。それも誰でもできるわけじゃなくて事故があったときにもっとも近くにいた人間で、本気で救いたいと思っている人間だけだって言われて・・・それで、私、即決したの。私があんたの代わりにこっちの世界にいようって、元々あんたは私のせいでこっちの世界にいたようなもんだから、贖罪はしないとね、まあ、そんなことで許されると思ってないんだけどね。


「ちょっと待て・・・と言うことは私は一度死の淵に立たされて彼岸の世界に行ってしまってたのか、それを彼女が身代わりになったと言うのか・・・そんな、そんなことしなくても、よかったのに・・・」


-----きっとあんたのことだからそんなこと望んでないとか思ってるんでしょうけど、お生憎様、私がそうしたかったからそうしてるだけ。意識がなかったあんたが悪いのよ。でも、どうやったってあんたの失われた時間が戻ってくるわけじゃない。だから、今更何言っても何がどうなるわけでもないんだけどさ・・・。ごめんね。あんたの、大切な時間、奪っちゃって、ごめんなさい。


 あぁ、そうか。私は彼女に出会うもっともっと前から、彼女に救われていたのだ。彼女に出会ってからの数週間、いろんな自分を知って嫌いになりそうになったり、迷ったり悩んだりする度に、彼女に救われてきた。でも、もっと根本的に私は彼女に救われていたんだ。生かされていたんだ。


-----こっちの世界にいる人間は基本的にはそっちの世界、此岸の世界にはいけない。でも、10年に一度、秋分の日を境に7週間だけ、此岸の世界にいくことができるの。でもそれは彼岸と此岸と結ぶ風穴がある場所だけ、そして時間もその人によって決められている。私の場合はその時間のその場所だった。あんたが高校に通うのにこの駅を使ってるのは知ってたし、使う時間もこっちで調整すれば合わせられたから、都合よかったのよね。私はどうしてももう一度あんたに会いたかった。会って、ちゃんと謝りたかった。けどダメだった。ごめんね、どうもあんたを目の前にすると気恥ずかしくて言いたいことが言えなかったの。本当に言いたいことは言えないまま、時間ばかりが過ぎていったわ。結局こんな形で伝えることになってしまったけど、ゴメンね。あんたと過ごした時間は、とても心地良くて温かくて、とっても穏やかで、あと楽しかった!ほんとに!楽しかった!あれ以上いたら、そっちの世界に未練ができそうだから、ちょうどよかったわ。ほんとに、ちょうど・・・よかった。


「何がちょうどよかっただ、悔いが残るようなこと散々書き残していきやがって。あなたが良くても、こっちは全然よくねえんだよ!どこまでも勝手な人だ・・・全く。それにあなただって未練たらたらじゃないですか。こんなに手紙びしょびしょにして・・・彼岸の世界にいても涙は出るんですね・・・」


-----短い間だったけど、ありがとうね、また会えたらなんて願ってもしょうがないんだけど、もしもう一度会えたら、その時は、私の正直な気持ち、伝えられたらいいな。じゃあね。


 正直な気持ち・・・。彼女はいつだって真っ直ぐで素直で思ったことをはっきりと言う人だと思っていたが、そんなことはなかった。どこにでもいる、普通の女の子じゃないか。なんだよ、偉そうな物言いでいつも苦言を呈してきてたくせに、最後の最後でこれかよ。でも、彼女も私と同じような弱い部分がある、普通の女の子だと知った途端、なおさら、たまらなく・・・

「好きが止まらなくなったじゃないですか・・・」


 電車の到着ベルが鳴った。私は電車が来ても紙切れを握り締めたままフェンスにもたれかかり、どうしようもなく溢れてくる涙をただただ流すことしかできなかった。






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