第36話 傲慢の水曜日
「ずっと前から好きでした、付き合ってください」
告白の常套句といえばこのような言い回しになるのだろうが、いささかパッとしない。いや、そもそもこんなにはっきりとストレートに伝えることが出来るなら苦労しない。いかに気恥ずかしくないように、それでいてちゃんと自分の気持ちが伝わる言い方をしなければならない。だいたいどうして気持ちを伝えなくてはならない。わざわざ言わなくても、なんとなくある程度仲良くなったら相手のことがどれくらい好きなのかわかるような、そんな科学装置の一つや二つ、あってもおかしくないではないか。それでなんとなく仲良くなったら適当な言葉を並べて好意を伝えられたらそれでいいじゃないか。帰り道、夕陽に照らされてできた自分よりも少し背の高い影をボーッと眺めながら考えていた。影を眺めてしまうのは幼い頃からの癖みたいなものだ。いまだに変わっていない。幼い頃の記憶なんてあまりないが、昔から引っ込み思案な性格で単に舌を剥くことが多かったのだろう。小学生の頃もよく祖父にもっと胸を張って歩きなさいと言われたものだ。自分では普通に歩いているつもりなのに畑から見ると丸くなって見えるらしい。なんだってそうだ。自分が思っている自分と実際に他者が見ている自分は違っている。だからきっと、私がそれで良いと思っていることは周りの人から見ればみっともなくて、未完成で及第点にも程遠い、不細工なできになるのだろう。わかってる、そんな便利な装置がないこともそんな都合の良い適当な言葉なんてないことも。今までの人生でろくに告白なんてしてこなかったし受けたことももちろんない私がそんな言葉を選んでいる余裕があるのだろうか。どちらにしろうまくいかないのではないか。
いや違うな。きっと、うまくいくいかないにしろ、彼女との関係が変わってしまうのが怖いのだ。結局のところ、自分の気持ちを伝えるというのは通過点に過ぎない。その先で、私と彼女の関係に起こる変化がたまらなく怖いのだ。世の中の告白している人たちを心底尊敬する。さらにいえばそのまま交際を経て結婚している人たちなんてもはや神と同じような存在にすら感じる。そんなの心臓がいくつあっても足りない。何度も何度も気持ちや言葉を交わし、傷ついて傷つけられて、たくさんの思いを超えて関係を続けているのだろう。そう考えたら、途方もなく遠い道のような気がした。
まあいいか。あれこれ考えていても変わらないことだけは確かじゃないか。それは何度も自分に言い聞かせてきた。だから少しだけ、胸を張ってみようじゃないか。やっと自分の気持ちを伝えたくなるような人に出会えたんだ。今までの自分とは違った歩き方をしてみても良いじゃないか。それでも不細工な出来になってしまったなら、それまでだ。それで良い。胸を張って、前のめりに挑んでやろう。
私はこの数週間で彼女と多くの言葉を交わしてきた。多少毒舌だが真っ直ぐな物言い、天真爛漫な性格と裏腹にたまに見せる傍若無人にも見える堂々とした振る舞い。そのどれをとっても、私には魅力的にみえ、目を奪われ、離すことができなかった。そう、私は彼女をたくさんみてきたからわかる。彼女に曖昧な言葉や取り繕った都合の良い言葉なんて必要ない。そんなもの、かえって失礼だ。私は私らしく、伝えたらいい、それだけでいい。
ふと、交差点で顔を上げるとさっさと行けと言わんばかりに信号が青に変わった。なんだ、やっぱりいいやつじゃないか。久しぶりに見かけた駅員にもしっかり会釈をしていつもと変わらなぬ足取りで、階段の下へ向かった。
「やあ、少年」
「どうも」
この挨拶ももう幾度目だろうか。例えこの先私たちの関係がどうなろうと、この挨拶だけは交わし続けたい。
「今日はいい天気だねえ」
「そうですね」
本当に、いい天気だ。雲ひとつない、見事な快晴だ。やっぱりこの空は私の心なんて映していなかったようだ。今の私の心はきっと曇切っている。もはや雷雲だ。
「すっかり冬っぽくなってきちゃったね」
「えぇ、でも、冬はもっと寒いですよ」
「え〜、やだなあ、もう充分寒いのにねえ」
「そうですね、寒いのは嫌いですか?」
「う〜ん、あんまり好きじゃないかも」
「じゃあ、夏の方が好きですか?」
「ん〜、暑いのも好きじゃな〜い」
「では、春か秋ですね」
「ん〜、春って言ってもまだ肌寒いし、秋はすぐ寒くなるから結局一年通して過ごしやすい季節なんてなくな〜い?」
こんなどうしようもない会話に、これだけ幸せを感じる日が来るなんて、思いもしなかった。
「なんですか、それ、日本はまだマシな方ですよ。寒さも暑さも」
「え〜、でも・・・冬のイベントは好きかな。クリスマスとか、お正月とか、バレンタインとかさ」
「あ〜、そうですね、確かにイベントは多いかもしれませんね。自分は特に思い出はないですけど」
「私もそんなにある方じゃないけど、でも冬の方が好きかなあ」
「そうなんですね」
「というより、夏が嫌いなんだ」
そういう彼女の顔はらしくないくらい影って見えた。気のせいだろうか。
「そうですか、自分も暑いのはあまり好きではないですけど」
「そっか、そうだよね・・・夏に嫌なイメージはない?」
「え。えぇ、そうですね。暑さは嫌ですけどこれといってきらいというわけでは・・・」
「そっか」
いつもの彼女に戻った、のか。それより、どういう運びで気持ちを伝えよう。やはり言葉を選んでいる余裕なんてないか、真っ直ぐに、伝えるに限るか。
私は彼女のことを知っているつもりだった。そんな彼女に惹かれたのだと、そう信じて疑わなかった。
「あ、あの」
「私さ」
「はい?」
「もう、この場所には来れないんだ」
彼女はそう伝え、次の瞬間姿を消した。歩いて立ち去ったわけではない、文字通り、姿を消したのだ。
「・・・は?」
後には長く伸びた私の影と階段下に出来上がった陰影が重なって歪な模様だけが残されていた。
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