第10話 怠惰の火曜日

 人間万事塞翁が馬、人生山あり谷あり、止まない雨は無い、要するに同じ状況はずっとは続かないということだ。良いことにも悪いことにもいつか終わりは訪れる。向かい風の時は辛くてどうしようもないことだってあるだろう。追い風の時は調子に乗って傲ってしまう時があるだろう。だがそれも永遠ではないのだ。だからその時々を蔑ろにしないで愚直に今と向き合って生きていくことが寛容であるとされている。確かに、それはそうなんだと思う。だが人間そう簡単に割り切れるのものではない。特に向かい風の時はどうしたって希望を見出せずに足を止めてしまいそうになる。このまま進んでいっても暗闇のままなんじゃないか、本当に夜明けが来るのかと、消えることのない不安が常に纏わりついている状態に陥る。今がまさにその状態なのだ。いや、そんなに大袈裟なものではないな、うん。

 今日も帰るのが遅れてしまった。なんなのだ、掃除1つでここまで頭を抱えないといけないのか。今日1日なんとか早く掃除を終わらせる方法を模索していたがこれは予想以上に難しい。正直舐めていた。どれくらい舐めていたかというとカタツムリと徒競走ををするのに出来もしない逆立ちで挑もうとしていたくらい舐めていた、嘘だ、そこまでではない。掃除の手順は至ってシンプルだ。実質声を出しているのはおよそ10人くらいしかいない悲しい別れの挨拶を教室で済ませると皆一斉に椅子を机に上げて教室の後ろに追いやる。あれがまたプレッシャーなのだ。1番後ろの席の人は否応なしに早く後ろに退げることを求められる。そう、後ろに誰もいないからだ。少しでも手間取ってしまった日には早く部活に行きたくてしょうがないのか、鋭い眼光でこちらを睨んでくる前の席の小柳の無言の圧にやや後退り気味で机に手をかけることになる。後ろの席もいいことばかりではない、全国の後ろの席に座っている人は是非とも気をつけて欲しい。しまった、また話が逸れてしまった。机を後ろに退け終え、掃除当番以外の生徒を廊下に追いやったら掃除が始まる。これもまた簡単ではないのだ。別れの挨拶の後は掃除をするということはもはや空が青いのと同じくらい当たり前の話なのに教室に居座って喋り続けているあの人種はなんなのだ。同じ人間とは思えない。黒板の前で課題の確認をしながら愚痴をこぼさないでほしい。こぼしたいのはこっちなのだ。誰とは言わないがやめてほしい、特に飯田と冴島だ。

 掃除のメンバーは昨日言った通り5人いる。担当は特に決まっていないが掃き掃除1人、机運び及び整頓が2人、黒板掃除が1人、教室中のゴミを集めて捨てにいくのが1人と、ざっくりいえばそんな具合になっている。そして大半の人間が掃き掃除か黒板掃除をしようとする。それもそのはず、その2つが比較的簡単なのだ。逆に1番やりたがらないのが机運びだ。確かに机運びはちと辛い。机とその上に乗っている椅子だけならまだいい。問題は机の中だ。厄介な机の中について2パターン紹介しておこう。まずは置き勉をしているやつだ。ひどいやつは全教科置いて帰っているんじゃないかと思うほど中身が詰まっている。これはシンプルに重い。教科書や参考書をこれでもかと置いて帰って一体家でどうやって勉強しているんだ。ノートは綺麗に持って帰っているから誰かのを丸写しだろう。実際授業で当てられて理由を聞かれると答えられていないから写してきましたと顔に書いてあるようなものだ。それゆえにそういう奴はたいてい成績が悪い。ちなみに私は課題のある教科は持って帰っている。そもそも教室の後ろに1人ひとつずつロッカーがあるのだからそこに置いておけばいいものを、これも誰とは言わないが佐藤と鈴木がひどい。メジャーな名字だからといって調子に乗っているんじゃないか、流石に違うか。もう1パターンが単純に汚いやつだ。いつのテストかもわからない紙クズやまだ中身が入っているパンの袋など、机の中をゴミ箱と勘違いしている不逞な奴がいる。無論ゴミが大半を占めているから重くはない。ただそういう机はもはや机の中からはみ出してきているため運ぶと一定確率で落ちてくるのだ。そのパーセンテージたるや某RPGの復活の呪文とおおよそ同じだ。机を運び終えた後にわざわざゴミを拾って机の中に戻してやる労力ほど無駄なものはない。いっそ捨ててやろうかと何度思ったことか、捨ててもきっと気づかないだろうが。本当にどうにかしろよ、佐々木。そんな理由も相まってとにかく机運びをやる生徒は少ない。皆流れでホウキを取りに行くか、ふら〜っと黒板の前に集まってくる。黒板が唯一モテる時間だ。1日1回モテ期が来るなんて、よかったな黒板よ、ただ黒いだけじゃなくなったな。そんなことはどうでもいい。そんな中、私が何を選択するかというとゴミ集めだ。ゴミ集めは文字通り教室に2ヶ所あるゴミ箱の中身をまとめて掃き掃除が終わった後にまとめて捨てに行くのだ。この捨てに行く作業は一見面倒くさいように見えるが捨てに行っている時間は1人になれるから私にとっては好都合だ。ゴミ袋を持った自分の影を見ながら焼却炉まで行くのは私の中ではトップレベルに好きな時間だ。しかし今回はそんな悠長なことをしている場合ではないため机運びを選択した。机運びを進んでやるやつなんていない。激しい担当競争に敗れたものが渋々やっている。ゆえに遅いのだ。チンタラやっている。だから今回は私がさっさと終わらせてやろうと思ったのだ。しかしそううまくもいかない。机運びと掃き掃除はある程度の連携を要する。机を早く運んでしまうと掃き掃除が追いつかないのだ、掃いている人に「そこまだ掃いてないんだけど」と言いたげな怪訝な顔をされてしまう。だから阿吽の呼吸が必要なのだ。だが今日はその掃く人間が遅かった。やつだ、小柳だ。こいつ、自分が掃除当番じゃない時は信じられないくらい急かしてくるのに自分が掃除の時はナマケモノにでも生まれ変わったかのように遅い。部活に早く行くことを諦めているのだ。おそらく掃除時間を加味するとお目当てのものを得ることはできないのだろう。小柳はテニス部だ、コートを何者かより先に占領したいとか、そんなところだろう。この小柳がホウキを持ってしまったため今日はどう頑張っても早く進めることはできなかった。じゃあどうすればいい、明日は私が掃き掃除をすればいいのか、いや、それも容易ではない。大前提として机運びと違って競争が発生してしまう。それを勝ち取れる自信が私には到底ないのだ。それに仮に掃き掃除になったとしても机運びが遅ければおそらく変わらないだろう。机を運んでくれないと後ろの方は永遠に掃けない。さっきも言ったが阿吽の呼吸が必要なのだ。

 そんなこんなで今日も先週より遅い時間にこの場所に来てしまった。いつも通りこいつは私の前で真っ赤な顔をして私を見下してくる。もう今日は何も言う気力もない。好きなだけ見下してくれ。さすがに察したのか青くなってくれたためとぼとぼ歩き始める。さらに、今日は駅員さんがいなかった。ついに飛ばされたか、いや以前までは2日に1回これだったのだ。気にすることはない。しかし、今日はあの駅員の声が聞きたかった。

 重い足取りで彼女のもとへ向かう。

「昨日よりは早かったじゃん、あれ?なんか疲れてるね」

「ええ、まあ、そうですね、早く掃除を終わらせようとしたんですが、なかなか思った通りにならなくて」

「ふ〜ん、まあそれはそうよね。そう簡単に思った通りになったらつまらないし」

「まあ、そうですけど」

 正しいことを言っているのだろうが今日は素直に受け入れられない。いや、彼女は関係ない、私の心の小ささだ。

「でも、何かやろうとしたんでしょ、考えたんでしょ」

「は、はい」

「その1歩が大事なのよきっと、今まで考えもしなかったでしょ、掃除のことなんんて」

「そうですね、言われてみると」

 待てよ、そもそも私はどうして早く掃除を終わらせていと思っていたのだ。早く終わらせて早くここに来るためか、しかし早く来なくても彼女に咎められることはおそらくもうない。それなら、急いで来なくてもいいのでは

「でも、ありがとう」

「・・・え?何がですか」

「だって、早く掃除を終わらせようとしたってことは早くここに来ようとしたってことでしょ?」

「はい、そうなりますね」

「ってことは私に会いたかったってことでしょ」

 そうか、私は彼女に会いたいがために頑張っていたのか。考えてみれば今までこれだけ何か1つの目標のために本気で考えて悩んでいることはなかったかもしれない。考えていることは実にくだらないかもしれないが、これは私にとって初の試みなのだ。

「なるほど、そういうことか」

「なるほどって・・・無自覚かい、大丈夫?あんた」

 いつもは少しばかり怒りを覚えるが今日は何も言い返せない。確かに変だった自覚はある。

「自分、どうにかして、早く掃除を終わらせる方法を見つけます」

「え?あぁ、うん」

「だから、待っててくださいね」

 彼女は一瞬驚いた表情を浮かべていたがすぐにいつもの綺麗な瞳とそれを包み込む笑顔に戻った。

「うん、待ってる!」

「そういえば、今週は何も食べてないんですね」

「ん〜、そうね」

「なんでですか?」

「ただの気まぐれよ、初めて会った週だって食べてなかったでしょ」

「そういえばそうですね」

 こんな他愛のない会話を心待ちにする時が来るなんて思わなかった。この時間のために、私は立ち向かう、掃除という強大な敵に。

「聞きたいことがあったんだけど、やめておこうかな」

「え?なんでですか?」

「楽しみがあった方が頑張れるでしょ」

 人参をぶら下げられた馬か、私は。しかし確かに、ないよりましだ。

「わかりました、聞かせてくださいね、聞きに来るので」

「うん、待ってる」

 この綺麗な瞳に嘘はつけない、そう感じ、早速作戦を考えることにした。そのおかげか、その日は到着メロディが耳に入らなかった。

 

 

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