偽古典

 同郷の雲吞という男は学術に長けた者であった。彼は故郷でも賢者と評判で、学業で身を立て、立派な家に住んでいた。

 以前、彼の家に赴いた折、なぜそれほどまでに賢いのかと問うた。彼が言うには、良き師に学んだとのことである。その師をどうか紹介して貰えないかと請うと、彼は頭を振って断った。それでも何度も請うと、彼は一巻の巻物を箱から出し、私に貸してくれた。

 家に帰って広げてみると、筆を持った学者が描かれていた。何故巻物を貸されたのかもわからぬまま、酒も入っていたので巻物を閉じて、眠ってしまった。夜中、ふと目が覚めると、何者かが己を見下ろしている。驚いて飛び起きると、そこに立っているのは絵に描かれていた学者であった。

 学者は我こそは都一の賢人であると名乗り、疑った私が二、三、質問をすると、すべて正しく、作る詩も戦術もこの世にこれ以上のものはないと思われるほどである。

 早速私は学者に教えを請い、彼もそれを承諾した。夜明けに近づくと彼は教鞭を執った見返りにと墨を求め、私の前で飲み干して見せた。

 毎夜学者に習ううちに、私は学業で身を立て、暮らしぶりは良くなり、どこか心満たされたように感じ、それ故に、いつまでも借りたままでいるのを悪いと感じ、雲吞に巻物を返そうと思い始めていた。

 その晩、同じように私は学者と対峙し、今日は易学のことを教わっていた。しかし、以前は興趣染みていた話であるのに、どうしてもつまらない気がしてならない。しかして、やはり巻物は返そうと決心した。彼にそのことを伝えようと思うが、どうにも言いづらく足踏みしてしまう。言おう言おうと口をもごもごしているうちに夜明けがやってきてしまった。

 学者はいつもと同じように墨を求め、その時良いことを思いついたのだった。

 いつも墨ばかりでは悪い。墨ではなく酒の一つでも贈って、今夜は別れ、そうすればきっと明日は機嫌よく現れるだろう。その時に言えば、思いのほか快く受け入れてくれるかもしれない。また、酒をもらったという欲目があるから、きっと引き留めはしないだろう。

 そうして、私は学者に渡す墨壺に酒を詰めて渡し、学者は飲み切って消えてしまった。

 翌日、改めて礼と別れを告げようと待っていたが、学者は一向に現れない。いつもは日が沈むとひとりでに巻物が開くのだが、その気配もない。

 しびれを切らして巻物を開いてみると、なんということか。柄の部分に水がしみて、ぼやぼやと、学者の姿は見る影もなくなっていた。驚き、顔の間近に近づけてみると、ほのかに酒の匂いがした。私はなんということをしでかしてしまったのだろうか。後悔しても、学者に二度と会うことはできなかったという。

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墨飲み秘抄 いろはに @irohani1682

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