墨飲み秘抄
八京間
墨飲み
墨飲み秘抄
梅平川の下流域周辺は赤提灯立ち並ぶ旧式の飲み屋街として少しだけ有名である。
絢爛な街道を折れ、陰惨な陋巷に入ると背中の曲がった婆さんが営む寂れた万頭屋がある。万頭というのは中国式の具無し蒸し
先月、ぜひとも部屋を貸してほしいという物好きが現れ、空の襤褸部屋は待望の住人を得た。畑中というその男は三食のほとんどを一階で買ってきた万頭で済ませているようで、それ以外はほとんど出かける様子もない。その異様な様子を心配した婆さんが障子を叩けど返事もない。まさか死んでいやしないかと、急ぎ障子を開けてみれば、床には無数の書き損じがほうぼうに散らばっている。
どうやら、物好きは物書きであった。
「ちょうどよかった。婆さん、黒インクを分けてもらえませんか」
「黒インク、ですか。墨汁ならありましたが」
「それで構いません。良かった、助かりました」
此の如く言う彼の手元には一瓶、おおよそ七分目ぐらいまで残ったインクがあった。それにも関わらず、墨を求める彼の言動を不可解に想いながらも、万頭屋の婆さんは一階から墨を持ってきて、彼に渡したのであった。
その日の晩のことである。川沿いの柳が妙にざわざわと揺れるものだから、どれ一つ様子を見ておこうと婆さんが外に出てみると、二階の襤褸窓の縁に男が腰掛けているではないか。これは困った、もしや彼が日中万年床に広げていたのは原稿ではなく遺書の書き損じだったのではないか。ただでさえ襤褸の安下宿、曰く付きとなってしまっては、いよいよ借り手がいなくなる。それ見ろ、今に落ちるぞ。戦々恐々老婆が目を細めると、どうやら男は畑中ではないように思える。それどころか男ですらないのかもしれぬ。男とも女ともつかないが、路地の幽暗でも照り輝く白肌の腕を組み、物憂げな顔をこちらに向けている。眼が合った。にっこりと薄ら微笑んで部屋の方に向き直り、突然空を仰いだかと思えば、何かを飲んでいるようだった。
「昨日夜遅くにいらしていたお客様は、とても美しい方でしたね」
翌日、朝早くに戸を叩く音が聞こえたので、寝起きの正体なき頭で畑中が出迎えると、そこには店の万頭をいくつか皿にのせた婆さんが立っていた。昨夜の美人の仔細を聞き出そうと朝食引っ提げ参った次第である。ところが畑中は知らぬの一点張りで、ろくろく老婆の話を聞こうとしない。
「昨日は疲れていたので早くに寝てしまいまして。隣の部屋ではありませんか」
「そんなことはありません。他の二部屋は知っての通り空室ですから。家主がいなけりゃ客も来ないでしょう」
無精髭を撫で、畑中は皿から万頭一つ取って齧った。生地に練りこまれたバターの香が鼻腔を通って肺の中を泳いだ。
「それでは物の怪の類でも見たのではないですか」
そういわれるとそのような気がしないでもない。にわかに恐ろしくなって、老婆は万頭の載った皿を畑中に押し付けると騒々しく階下に消えた。
「意地の悪い方でいらっしゃいますなぁ」
軋む階段の音と入れ替わり、部屋の奥にいた者が話し出した。中性的な見目にそぐわぬ、老木を撫でた様な低くざらついた声である。胡坐をかいて座っている向かいに腰を下ろすと、擦り切れた畳のとげとげした感触が足の甲に燻ぶった。
「しょうがないでしょう、説明しようにもなかなか難しい。……食べますか?」
バター風味の万頭を差し出してみるが、小さく鼻を蠢かして片眉潜めると、右の手のひらを薬師如来のように差し向けて__含意は慈悲でもなんでもなく、単にいらんという意思表示である__首を横に振った。
「驚くのをわかっていて言ったでしょう。意地の悪い」
「そう何度も意地悪意地悪言わんでくださいよ、私は誤魔化すのが上手くない。だいたい、いつまでいるつもりですか。古典の通りなら、朝にはいったん消えてるはずでしょう?」
畑中は改めて、眼前にたたずむ中国風の装いの男を見やった。糸の様な髪をちょっと畳に広げて、くつくつと笑っている。髪に艶はない。とうに乾いた墨にすぎないからだ。
「日本と中国じゃ時差があるからなぁ。それに何もお教えしていないのでね」
「私は何も教えてもらわなくて結構ですから、さっさと消えてくださいよ」
「巻物を開いたからには誰だろうがワタシの門下ですからねぇ、これが教えずに消えられるものか」
とある筋から”面白いもんだからあげるよ”と渡され、はじめは断っていたのだが、酒で調子が良かったのと計画性という物がまるでなかったので、早朝、起きてみれば枕元に奇妙な巻物が転がっている。記憶も意識も曖昧なままとりあえず開いてみれば、この男がうわん、と目の前に現れたのだった。目やにで開きにくい目を擦り、呆然と眺めていると、間抜けた面はよせ、あなたは誰です、私はこれこれこういうものだ。と、例のでたらめなおとぎ話を聞かされたわけである。寝起きの頭に、許容外の情報を詰め込むのは良くない。
話を聞く限り、絵の人物が顕現するのだから、画霊や付喪神の類ではないかと思う。どちらにせよ、毎晩遅くまで教える教える教えてしんぜよう、というのはご勘弁願いたく、ついついため息一つぼやいた。
「全く厄介なものをもらったもんだ」
「聞こえていますよ」
どきりとして男をみると、やはりくつくつ笑っていた。
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