第5話





 神殿の秘密については、まだ気付かれていない。実際、何から何まで嘘なわけではない。だが、彼を崇めるために作ったと説明したこの巨大神殿の本当の役割は、信仰とはまるで逆の意味を持つ。この神殿は、彼からその莫大な魔力を奪うために造られた。

 でも、大丈夫。奪うといっても、殺すつもりはない。彼はかつて、私達を助けてくれた友のような存在だったからだ。ほんの少し、ほんの少しの間を眠ってもらうだけ。この都市の民が、遠くの豊かな世界で新しい生活を始めるまで、ここで穏やかに眠ってもらうのだ。

 もう、この都市は限界だった。彼の突然の怒りに怯える暮らしに、私達は耐えられない。私達の祈りには、安らかな心などカケラもなく、ただひたすらの恐怖にのみ晒されている。

 森の神よ、優しき友よ。今まで本当にありがとう。私は、私達は君を忘れない。君が私達にもたらしてくれた豊かな暮らしを、絶対に忘れない。

 そして、この都市で生みだすことのできた、歌と言う素晴らしい文化を胸に、幸福を抱いて生きていく。

 あぁ、とても楽しみだ。この仕事が終われば、またあの子に会いに行ける。あの子の、心が楽しく踊るような歌を聴くことができる。











 ……いや、待て。何かがおかしい。何だそれは。その二つ目の木の実は何だ。何故、せっかく吸い上げ、閉じ込めていた彼の魔力を、再び外に出している。

 なに? 魔力を持ち出す? なにを、なにを考えているんだ君達は。この木の実が、一体どれだけの危うさで均衡を保っていると思っているんだ。そんなことをしたら、彼に気付かれる。いや、もしかしたら、君達の思念が宿った、より恐ろしい存在に。


 あぁ、もう、ダメだ。


 どうして、今更になってこんなことを思い出すのだろう。僕が手渡した想いは、彼女には届いていなかったと言うのに。

 彼女の目がとうの昔に見えなくなっていたことに気づけなかった僕は、本当にどうかしていた。

 この想いを、彼女に届けたかった。

 好きだと、伝えたかった。

















 正直、途方に暮れていた。目の前に存在する巨大な死妖に対し、私は軽く絶望していたからだ。


「師匠。アラセさん。起きてください」


 急ぐべきだとわかってはいるが、あまりそんな雰囲気を出すことができなかった。


「師匠。師匠。……師匠!」


「うわ! びっくりした!」


「いつまで寝てるんです。逃げますよ」


「うわ! なんだあれは!」


「今はそんな安っぽいリアクションはいらないですから……」


 腹を踏んづけたことは、師匠にはバレていない。百戦錬磨の師匠にとってすら、あの死妖は化け物なのだ。


「まるで、山のようだな。色も禍々しい。私の部屋の隅っこみたいだ」


 見上げる先にいる死妖は、私達がただ圧倒されるだけだった神殿よりも、さらに大きかった。黒い煙状の魔力のみで構成された輪郭は、腹部の大きい土偶に似ている。その腹から、木の枝を思わせる長くしなる腕が生えている。そして、大変気持ちの悪いことに、その腕の数は徐々に増えていっていた。


「まだ、こちらに気付いていないようだな。寝起きか?」


「何故、このタイミングで起きたのでしょう」


「わからん。私達があの部屋に入ったからではないか」


「最初から詰んでるじゃないですか」


 私は魔力に関しては疎いが、軽く見積もっただけでもA級廃都と同等のレベルを感じる。おそらく、あの死妖がこの廃都の魔力そのものだったのだろう。外から近づいた時に濃度が下がったのは、あの木の実に封じられていたのを私達が五感で感じたからに違いない。


「これは逃げの一手です。行きますよ。アラセさんは起きないので、私が背負います。師匠は自分で走ってくださいね」


「うむ。奴の寝起きがすこぶる悪いことを祈ろう」


 死妖が神殿を粉々に破壊してくれたおかげで、私達はまたあの道を帰る必要はなくなった。その代わりに地下に下りた分だけ上らなければならなかったが、奴の出現の際に魔力爆発が起こったおかげで、人が走って登れる程度の斜面にはなっている。


「この子にはまた助けられたな」


「正直、その魔道具が無ければ三人とも元気に消し飛んでました」


 師匠が胸元からペンダントを取り出す。A級魔道具「身代わりのペンダント」だ。これの近くにいる者は、確率で死亡や怪我を免れる。使用回数を重ねるたびに確率は低くなっているため、そろそろ危ない。


「そのペンダント、今何パーセントでしたっけ?」


「だいたい60パーセントだな」


「あまり頼りたくない数値になってきてますね」


 アラセさんを背負い、師匠の手を引く。何とか登り切った瞬間、色々と考えさせられた。私達が入ってきたこの廃都の出口までは、かなり遠い。そして、なんと一本道だ。死妖の視線から隠れる遮蔽物がない。少し周り道しない限りは、地獄にランニングするようなものだった。


「ひゃ!?」


「あ、起きましたね。脚が動くなら自分で走ってもらいたいのですが」


 アラセさんが目覚めた理由は、巨大死妖の遠吠えだった。ひょっとしたら欠伸かもしれない。


「何ですかあれは!?」


「この都市が木材を使うことの出来なかった、外敵だよ」


「あれを敵と認識出来る人、この世に何人います!?」


「どうでしょう。まぁ、うちの宰相殿辺りなら普通に敵認定するでしょうね」


 あとはクレナイとか。全く。私の周囲にはイカれた人間が多すぎる。


「うむ。わかったぞ」


「なにがです。私達の脱出経路ですか」


「いや、あの歌の謎だ。あの歌は南に向かって祈りを捧げよとあった。たまたま私達が最初にあの歌を見つけた場所から、神殿と太陽が重なって見えた。だから勝手にあの神殿に祈りを捧げることだと思っていたが、どうやらあれは、神殿の奥の奥、都市の壁の向こうの森に捧げるものだったらしい。うん。それなら全ての辻褄が合う」


「そいつは良いですね! 考えながら走るのは結構ですが、転ばないでくださいよ!」


 こんな時にも自分の疑問に真摯に向き合える師匠は、本当に根っからの廃窟士だ。私の周りにはイカれた人間しかいない。


「そもそも、もっと早くに気づくべきだった。どの家屋にもあった紐文字が、全て南に祈りを捧げよとあった。家屋の位置によっては、必ずしも神殿は南方向にない」


「ですが、森は絶対に南にありますからね! 良いから走ってください!」


「ししょー! 私走るの辛いので飛んで良いですか!」


「もちろん良いですよ! むしろ何で今まで走ってたんです!」


 妙に落ち着いている師匠と、妙にテンパっているアラセさん。そして、どうも完全に目を覚ましたらしい死妖。脚が震えて転んでしまいそうなほど重く悍ましい視線を背中に感じる。どう考えても私達に向けられたとしか思えない叫び声まで追加されて、私はとうとう観念した。

 ここから出口まで、アラセさんが師匠を担いで全力で飛べば、ギリギリ30分で行けるはず。


「アラセさん。私はここでアレと闘います。師匠を連れて先に逃げてください」


「はいぃっ!?」


 征道を全身に巡らせ、練り上げる。良し。今日は体調が良い。これなら100パーセントで闘える。


「倒せるのか!?」


 師匠の質問に、嘘で答えるわけにはいかない。


「完全装備の対死妖撃滅特殊部隊なら、何とかするでしょう」


「君一人なら?」


「30分は時間を稼いでみせます」


「それはそれで化け物だが、その結果、君の命はどうなる?」


「時間を稼ぐことが目的です。そこに私の命の行方は関係ありません」


 背を向けて逃げるだけだった私達が、自分に向き合った。その内の一人は戦闘態勢に入っている。死妖は自身の魔力を一層強め、私に対して剥き出しの殺意を向けてきた。どうしてそんなに怒っているのか。もっと穏やかにいてほしいものです。例えば、さっきのとても嫋やかな淑女シャドウ・レディのように。


「ふぅ。全く。君という奴は」


「何をしているんです。二人とも、早く逃げてください」


 死妖の注意が完全に私のみに向いている今なら、二人が逃げることは出来るかもしれない。それなのに、


「早く! 逃げなさい! アラセさん!」


 二人は一向に動こうとしなかった。


「嫌だね。そんなの絶対に嫌だ」


「はい!?」


「私も嫌です。ふざけるな、死ねよ非モテ野郎って思ってます」


「それはいくら何でも言い過ぎでは!?」


 アラセさんの言う非モテ野郎は、師匠の倍キツい。比較的年代が近いからだろうと個人的には分析している。


「君は本当にダメな弟子だな。私が何故、君の世話が必要になったのか知らないわけではあるまいに」


「それは貴女が自堕落だからで……」


「違う。仲間を失ったからだ」


 師匠のその言葉は、何よりも私に効いた。初めて師匠に会った時の、あの目を知っているから。


「あんな思いは、もう二度とごめんだ。それなのに、君は私に、君を見捨てて逃げろと言うのか?」


「……」


「私は言うぞ。嫌だと、何度でも。私は逃げるよ。あんなのと闘うつもりはない。だが、逃げるなら君と一緒だ。アラセ君とも一緒だ」


 死妖の魔力が、天を割りそうな段階にまで高まった。あの長く悍ましい腕を、私達目掛けて振り下ろす気だ。あんなことをされたら、正直どこにも逃げ場はない。


「ししょー。私もししょーの師匠と同じ気持ちです。私だけ生き残ったって、何の意味もありません。そんなことをするくらいなら、私はここでししょーと一緒にあの死妖と闘います。例え、それで命を落としたとしても、後悔はありません」


「こらこら。死なないでくれと私が言ったばかりだろう」


「大丈夫です。死体は三つで計算しています」


「……近頃の若者って、みんなこうなの? あの死妖と恐怖感が大して変わらないんだが」


 私も正直、怖かった。だが、おかげで少し、気が楽になった。何の解決策にもなっていないが。


「よし。わかりました。三人で闘いながら逃げましょう。具体的な作戦は……」


 この死妖は、どうも空気が読めないらしい。私達が笑顔で頷きあったそのタイミングで、腕を振り下ろしてきた。直撃だ。






















 亜人への差別はまだまだ、いいや、全く消えてない。亜人が都市を作ったのは、人間に認めてもらえたからでも、認めてもらうためでもない。ただただ、あそこは私達の避難場所だった。私達は、いつまで経っても弱い立場のままだった。

 だから、私達は行動を起こした。


「よし。ここならバレないでしょう。最も裕福な王都市。その秘密を探って、亜人の都市に持ち帰る」


 あの時の私は、希望の炎に胸を焼かれていた。何の根拠もなかったにも関わらず、私にはできると思いこんでいた。この翼があれば、いつでも逃げられると思っていたのだ。しかし、それは大きな間違いだった。


「くそが! ガキのくせに手間かけさせやがって!」


「兄貴、急ぎましょう。例の場所に近いです。あの男が来たら、何されるかわかりません」


「わかってるよ! だからさっさと布でくるんじまえ。ほら、こいつをあの親父に突き出せば俺たちは大金持ちだ。こんなドブみたいな暮らしからはおさらばだぜ!」


「いえーい! 亜人狩り最高!」


 ある日突然、よくわからない三人組に襲われて、路地裏に連れ込まれて、ボコボコにされた。そうそうに翼を掴まれ折られ、飛ぶことを出来なくされた。そうなってしまえば、私はただの非力な子供だった。

 殺される。そう思うと、怖くて声も出なかった。自分の無能さを後悔する暇さえなかった。そんな時、


「何をしているのです」


 神様が現れた。その人は、私を痛めつけた三人組を瞬く間に倒し、私を助け、傷を治療してくれた。亜人の私に、王都市に忍び込んでいる私に、何も聞いてこなかった。そしてそれは、神様と一緒に暮らしている女の子もまた同じだった。二人は私の怪我が治るまで付きっきりで看病してくれて、私が歩けるようになると、安全な門から私を逃がしてくれた。


「よくやった!」


 故郷に帰った私を出迎えた父が最初に言ったのは、そんな言葉だった。


「お前が接触したのは、星の巫女だ! この世にたった一人しかいない貴重な存在だ。おまけの男も良い。何故かはわからないが、軍都市の出身者だ。上手くいけば、奴らの征道を扱えるようになるかもしれない!」


 最初は褒められたのだと思って嬉しかったが、よくよく聞いてみると、父は私のことなど気にしていなかった。ただ、亜人が人間に勝つにはもっと技術が必要だとか、情報が必要だとか、暑苦しい剣幕で捲し立てていた。そして、


「あの二人のところにもう一度入り込め! 大丈夫だ。あの様子なら、しつこく頼み込めば何とでもなる!」


 そんなことを言ってきた。この人は、私がこの数週間、どんな風に看病されていたかを知っていた。この人は、私があの三人組にどんな風に襲われているのかを、黙って見ていたのだ。


「わかりました、お父さん」


 この日以来、私は亜人の都市に帰っていない。ただ、師匠達の側にいたかった。助けてくれた恩を返したかった。亜人だとか人間だとか、そんなものは関係ないと教えてくれた二人のために、生きたかった。

 巨大な死妖の腕が振り下ろされる中、私はそんなことを考えていた。今もまた、己の無能さを後悔する暇さえなかった。



















 身体に痛みが無いのは、私が死んだからか。気が緩んだ瞬間だったから、受け身を取ることも、二人を庇うことも出来なかった。腹が立つ。自分の無力さに心底腹が立つ。無念で無念で仕方なかった。

 私は、そっと目を開けた。目を開けることができる驚きを感じる前に、飛び込んできた景色があった。そこには、青白い光があった。


「……な、に」


『〜ー〜ー〜ー〜ー〜ー〜ー』


 空を覆い隠すほど巨大な腕を、美しい淑女が空中で受け止めていた。彼女は、額に亀裂の入った笑顔で私を見つめている。


『逃げて』


 そんな声が聞こえた気がした。師匠とアラセさんは、隣で気絶している。


『逃げて。早く』


 美しい淑女の身体は、徐々に、だが確実にひび割れていく。私は、それを見てすぐに態勢を立て直した。小柄な師匠を脇に抱え、アラセさんを背負う。いつもより、二人を軽く感じた。


「ありがとうございます!」


 そう叫んでいた。よくわからないまま。後ろを振り返ることはしなかった。何となく、彼女は自分の姿を見て欲しく無さそうだったから。


『いいえ。私の方こそ、ありがとう。私の歌を聴いてくれて』


 何故か、あの淑女の言っていることがわかった。わかった気になっているだけでは、絶対にない。


『逃げて。逃げて。どうか、人の欲に負けないように。誰かを大切にする心を、失わないように』


 あぁ、きっとそうします。普段は屁理屈ばかりの私が、この時だけは素直にそう思えた。あの淑女の言葉には、不思議と同意することができた。


『あぁ、本当に良かった。最後に貴方達に会えて。まるで、あの人にもう一度会ったみたい』


 私が大通りを走り抜ける間、淑女は歌を歌っていた。美しい声は光となって死妖の視界を塞ぎ、風となって私の背を押してくれた。あの時の歌だと、すぐにわかった。だが、何故かもう、その意味はわからなかった。

 出口の手前、最後に、振り返ってしまった。淑女とはもう、目を合わせられる距離ではなかった。だが、彼女の首元に目が吸い寄せられた。そこに、紐文字がかけられていたからだ。当然、私にその内容はわからない。

 私が廃都の外に飛び出した直後、神殿の廃都は蜃気楼となって消滅した。






















 あの瞬間のことが、今も頭から離れない。神殿の廃都から脱出して三日目の朝、私達三人は、共同家屋の食堂に自然と集まっていた。何をするわけでもなく、ただ黙って座っている。

 特に息苦しくもない空気の中、最初に口を開いたのはアラセさんだった。


「何だか、不思議な記憶があるのです」


「ほう。どう言うものです?」


「よく、覚えてはいないのですが、あのとても嫋やかな淑女シャドウ・レディが、歌を歌っている光景です」


「それは何とも奇妙だね。私も似たようなものが記憶に残っているんだよ」


「でも、やはりおかしいのです。あの廃都で聴いたあの人の歌は、私には意味がわからなかった。でも、記憶の中では、何と歌っているかわかるのです」


 実は、私も同じような記憶がある。ただ、私にはあの歌の意味はわからなかった。ただただ、綺麗だったとしか覚えていない。いや、感じられないと言うのが正しいか。


「三人が、同じ夢を見たと言うことでしょうか」


 私らしくもない、えらく乙女なことを口走ってしまった。笑われてもおかしくないと思ったが、師匠もアラセさんもそんなことはしなかった。


「あり得ると思うよ。気絶した私とアラセ君を運んで逃げてくれた君の話から考えても、決して荒唐無稽なことじゃないさ」


「死妖であるとても嫋やかな淑女シャドウ・レディが喋ったことも、私達を庇ってくれたこともですか? 私が外で待機していた人に話したら、鼻で笑われましたよ」


 そしてそのあと、廃窟でよほど怖い目にあったのだろうと同情された。飴をいくつかもらった。


「まぁ、実際に体験したものにしかわからないことと言うのはある。どうだ、アラセ君。君は、君のししょーの話を嘘だと思うかい?」


「いいえ。ちっとも。ししょーはたまに嘘をつきますが、今回ばかりは本当でしょう」


「信じてもらえるのは嬉しいですが、その根拠は?」


 そんな私の問いに、アラセさんはこう答えた。


「それは多分、私達だからわかることですよ」


 とても珍しいアラセさんの笑顔を、また見ることができた。彼女の説明にはまるで納得ができなかったが、そんな笑顔を見せられたら、まぁ良いかと思ってしまう。ただ、どうしても残念なのは、私にあの淑女の歌の意味がわからなかったこと。


「では、二人が聴いたと言う淑女の歌は、一体どんな内容だったのですか?」


 真剣な質問だった。それなのに、今度こそ師匠とアラセさんは何だか面白そうに笑い合った。どうも、二人だけの世界に入り込んでいる気がする。疎外感があった。


「おそらく、今の君では、説明されてもわからないさ」


「そーでしょーねー」


「はい? 何ですかそれは。変な意地悪しないで教えてくださいよ」


「ダメダメ。君はもっと女心を勉強しないと」


「ですねぇ。ししょーには十年早いですよ」


 いかにも楽しそうに笑う二人には、かなりの不満を覚えた。何だか、馬鹿にされているような気がしたからだ。これはこのままにしてはおけないと、私がもう一度聞こうとした時、


「さて、二人とも、付いてきてくれ。お出かけだ」


 師匠が立ち上がった。この人が自ら家の外に出ようとするなんて、明日は槍の雨が降るかもしれない。


「それは構いませんが、どこに行くんです?」


「報告さ。宰相殿が短い首を長くして待っている」


「報告ですか? でも、今回の廃窟では私達は何も持って帰ってませんよ?」


「チッチッチ」


 師匠がキザな仕草で指を振るう。幼い少女がやってもまるで格好がつかない。


「だから君たちはまだまだひよっこなのさ。ほら、これを見たまえよ!」


「な!」


「あぁ!?」


 師匠が服のポケットから取り出したもの。それは、二つの木の実だった。


「いつの間に……」


「あの死妖が出てくる瞬間に、ちょろっとね。魔力が解放されてしまえば、あとはただの空っぽの木の実だと思ったんだが、大当たりだ。この三日間、この子達はとても無害に過ごしてくれているよ」


「さっすが。ししょーの師匠は抜け目がない」


「ふふん。周囲の魔力をあれだけ大量に吸収する木の実と、それをさらに外に放出する木の実だ。上手く使うことができれば、必ず何かの役に立つ」


 それは正しくその通りだ。こんな魔道具は見たことがない。しかし。


「師匠。それはおそらく不完全品です。貴女が期待するような効果は……」


 あの死妖の暴走を実際に体験した後だ。この魔道具が良いものとはとても思えない。アラセさんなんか、さっきからビビりまくって壁の角にくっついてしまっている。


「大丈夫。ちゃんとわかっているさ。君の言う通り、これは完全では無い。最高議会にかけられても、大した評価は得られないだろう。せいぜいがC評価だな。少しは研究の対象にされるかもしれないが、まぁ十中八九、保管庫行きだ」


「では、どうして危険をおかしてまで回収してきたんですか?」


「それは当然、こちらをいただくためのカモフラージュ、目眩しさ」


 師匠が胸ポケットから大切そうに取り出したものを見て、私は強く納得した。思わず微笑んでしまったほどに。


「……なるほど。確かに、それは良いものですね」


 机に置かれたそれは、紐だった。赤や藍や黒の糸で練り上げられた、ただの紐。何の魔力も効力も宿っていない、どこにでもあるただの紐。

 だが、その紐には、A級魔道具などとはまるで違う、もっと尊いものが宿っている。


「おや、良い表情だね。今の君になら、あの歌の内容がわかるかもしれないな」


 私達三人が死ぬ思いをして廃都から持ち帰ったのは、金になる魔道具でも、最高の思い出でもない。どこにでもありそうな、ただの単なる紐だった。

 いつかどこかの、遠い遠い過去の世界、人々が生きた証は確かにあった。どこかの確かが、どこかの誰かに向けて紡いだ紐。それをきっと、私達は恋心と呼ぶのだろう。




 

















 

 



「いやぁ、今回もお疲れ様。また面白い体験はできたかな?」


「それはもう。なんなら夜通し語って聞かせましょうか?」


 小太り中年男が、ラッパのように高い声で笑っている。頭頂に存在しない毛髪、荒れた肌。たるんだ顎。誰がどう見ても、冴えないモテない中年男性だ。だが。


「いいや、今回は遠慮させてもらうよ」


 この男より危ない存在に、私は出会ったことがない。下手をすれば、あの廃都の死妖よりもずっとずっと恐ろしいと思ってしまう。


「それにしても、君は凄い男だなぁ。君の働きには本当に感謝しているんだよ。あのシャルロットちゃんを、まさかあんなに元気にさせるなんてね。彼女は王都市には無くてはならない存在だから、君には頭が上がらないなぁ」


 これはこの男の本心だ。この男、バルター・ドゥーリエ王都市宰相は、心の底から私に感謝している。本気で師匠の身を案じている。

 しかし、それら全ての感情は、この男自身の目的に向かってのみ使われている。


「さて、僕はそろそろ帰るよ。あの紐文字は、君たちが持っていて良いからね。旅行にお土産無しなんてつまらないもんな」


 中年に背を向けられて、額の脂汗が少し引いた。


「ありがとうございます」


 その心の隙を、槍のごとき鋭さで突かれた。それも、たっぷりの毒を染み込ませた穂先で。


「アラセ君については、今のところは見逃してあげるよ」


「っ!」


「いけないなぁ。別の都市のスパイだとわかって面倒見ちゃうなんて。重々承知だと思うけど、シャルロットちゃんは大切な存在なんだよ? もし何かあったらどうするつもりなんだい? 君のことだってそうさ。軍都市ご自慢の征道が亜人に伝わっちゃったら、君たちの立場は一気に危うくなるんだよ?」


「それは……」


 ここで言葉を濁すのは、どう考えても悪手だ。だが、中年男の禍々しい威圧に耐えられなかった。

 気がつくと、脂っぽい顔が私の鼻先1センチのところにあった。大きな瞳に身体ごと覗き込まれて、指が震える。


「一つ、面白いことを教えてあげる。アラセ君の本当の名前は、ピアーネ・アルス。んー? あれれー? なんだか聞いたことがあるなぁ?」


「そ、れは……」


「うーん。不思議とよく思い出せないんだけど、いくつか前の王様のお友達に、似た名前の人がいた気がするよぉ」


 アラセさんの本名は、ピアーネ。アラセが偽名なことくらいはわかっていたが、本名までは分からなかった。ましてや家名なんて。


「思いもよらないまさかまさかのファインプレーな気がするねぇ。いやぁ、良かったなぁ。これで僕はアラセ君やその家族を優しい心で見守っていられるよ。ふふふ。嬉しいね。これからも、そのつよーい運を活かして頑張ってちょうだいよ。それじゃあね。君が頑張ってくれる限り、僕はずっと、君たちの味方だからね」


 ニタリとした脂っぽい笑みを残して、中年男は消えた。音もなく。冷たい汗がいつまでも止まらない。


「お前は、本当にスパイに向いていないな」


「……居たんだったら声をかけてくれたらよかったのに。酷いと思いません? 私、ついさっきまで脂まみれの中年男に至近距離でベタベタされていたんですよ。どうせなら貴方も混じってくれれば、少しくらいは楽しめたかもしれないのに」


「そうだな。君たちがあまりにも楽しそうだったから、つい遠慮してしまったよ。もし次の機会があれば、誘ってくれ。オーケーするかどうかはわからないがね」


 柱の影から、クレナイが出てきた。ここは王都市の最も警護が厚い場所、王宮の最奥だと言うのに。驚きすぎて、今は逆に口が回る。


「それにしても、向いてないとは随分酷い言い草ですね。私をスカウトしたのは貴方でしょう?」


「そうだ。向いてないから選んだ」


「……なるほど」


 嫌な評価だったが、腑に落ちた。確かに、あの師匠の警戒を緩めるには、スパイ向きの性格の人間では無理だ。そう考えると良い評価なのかもしれない。


「褒め言葉と受け取って良いですね?」


「もちろん。善人は好きだよ。操りやすいからな」


 クレナイもまた趣味の悪いセリフを残してから消えていきやがった。好き放題喋って消えるおっさんばかりで嫌になる。逆に突然現れるようになったらどうしよう。風呂で鉢合わせなんてしようものならその場で吐いてしまいそうだ。化け物どもめ。


「……良いさ。せいぜい私を操っていると良い」


 私は貴方達と知恵比べなどできないし、するつもりもない。ただ、自分の目的の為に突き進むだけ。それが例え、貴方達の手の平の上だろうとも。


「師匠もアラセさんも、貴方達の好きにはさせませんよ」


 そして、いつか必ず、あの人の死の真相を突き止めて見せるのだ。

 私は静かに気合を入れて、王宮を後にした。次の廃窟は、すぐそこに迫っている。











































 世界が終わる時、私はあの方のことを思い出していた。あの方が手渡してくれたこの想いを、両手でギュッと握りしめていた。これさえあれば、私が生きた証が残る。これさえあれば、私があの方に恋をしていたことを、いつか誰かに知ってもらえる。そう思えば、ちっとも怖くなかった。

 ただ、ほんの少しだけ残念な想いは残る。あの方は私の歌を好きだと言ってくれた。けれど、結局最後まで、私を好きだとは言ってくれなかった。

 ねぇ、どうか教えて。この想いは、一体なに? あなたは私に、何を伝えたかったの?





 気がつくと、私は青白い光を放つよくわからない何かになっていた。わからない。わからない。何もわからない。私は何。ここはどこ。

 本当に何もわからない。だが、それなのに、首にかかっている紐に込められた意味を、目で見て感じることができた。その瞬間から、涙が溢れて止まらなくなった。

 すぐにわかった。たとえ思い出すことができなくとも、確かにその想いは私の胸に残っていたからだ。

 そうだ。私は誰かを愛していたのだ。そして、とてもとても幸運なことに、その誰かも私を愛してくれていた。この紐は、その証だった。


「あぁ、歌いたい」


 この柔らかな、春の温もりのような幸福な気持ちを、歌にして誰かに伝えたい。もし叶うなら、この紐を贈ってくれた人のような、優しい心を持った誰かに届けたい。

 私は、静かに待った。待って、待って、待ち続けて、もう何もかもを忘れてしまった頃。

 あの子達に出会うことができた。

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