第3話



 東の空から、陽が登る。さぁ今日の始まりだ。朝食を作ろう。陽のあるうちは畑に行こう。陽が沈んでからは家族と過ごそう。その時に少しくらいは、甘いものを食べてもいいかもしれない。

 けれど、それらはあと。全てはあとの話。

 まず私達がすべきは、お祈りだ。何を置いてもお祈りだ。今日を安全に過ごせますようにと、南に向かって頭を下げる。善良な私達は真摯な心でひたすら祈るのだ。

 ただ、静かな祈りの最中、今日もまた歌が歌えたら良いのになと、頭の真ん中に近い場所でふと考えてしまう。そしてそうなれば、結局はあの人の元へと心が向かう。またあの人は、私の前で足を止めて下さるかしら。もしそうなら、こんなに素敵なことはないのに、と。

 けれどやっぱり、それはあと。全てはあとの話。

 さぁ、一日が始まる。そのためには、何を置いてもお祈りだ。

























 様々な家屋を廃都の広範囲に渡って調べ回り、見つけた紐文字の数は八十を超えた。どの建物の中にも、一つ以上は紐文字があり、そして、そのうちの一つは、最初に見つけたものと必ず同じ歌だった。


「やはり、あの神殿をかなり大事にしていたようですね」


 数時間の廃窟により、私達の体力は大いに奪われていた。ただ誰もいない廃屋を調べるのと廃窟ではわけが違う。常に「未知の恐怖」に警戒し、怯えながら進むことは、人間にとって正しいリズムではない。いかに廃窟士が好奇心の塊だろうと、扉を開けた先に死が待っているかもしれないと思うと、どうしても脚がすくむのだ。そんな精神状態での体力消費の激しさは、普通の運動の比ではない。


「そのようだ。歌の利点として、先程私とアラセ君がやったように、口頭だけで伝わり、旋律によってより良く記憶できると言うものがある。わざわざ歌詞と旋律を記録し、ばら撒きに近い要領で都市内に存在させていたことを考えると、更にその重要性がわかるね」


「他の紐文字には、なんて書いてあったのですか?」


「うむ。そのことについてなんだが、それほど重要なものはなかった。いや、紐文字を書いた彼ら彼女らにとっては重要ではあったのだが、何というか、私達の今回の廃窟にはあまり関係のない情報だったな」


「ふむ。して、その内容は?」


「いや、だから。関係ないんだって」


「関係ないのでしょう。なら教えてください」


「関係ないんだから教える必要ないだろう」


「情報共有は廃窟の基本では?」


「……いや。うむ」


「早く教えてください。さもないと今日の食事は貴女だけ抜きにしますよ」


「あぁ、もう! わかった! わかったから!」


 何をそんなに必死になって隠しているのかわからないが、やはり食を掴んでいると言うのは大きい。廃窟内で師匠が生き残るための最大の障害は、実は栄養補給だ。端的に言って、彼女は料理が一切できないのだ。廃窟内の食べ物にはどんな作用があるかはわからないから食べられないので、手を出すわけにはいかないし。ちなみに、師匠はかつて廃窟内にあった干し肉を食べて身長が五センチ縮んだらしい。それ以来、廃窟内の食料品がトラウマになっている。市場の調査を私とアラセさんに任せていた理由がそれだ。


「その、これらは、えっと……」


「何ですか、まどろっこしい。いつもは推理や発見の内容を聞きもしないのに語ってくるくせに」


「う、うるさいな。これはあれだ。その、その……恋文なんだよ」


「あら素敵」


 アラセさんの気の抜けた一言で、師匠が耳まで赤くした。よくもまぁ、その年齢になるまでそんな風に初心に生きてこられたものだ。廃窟士として人との関わりが多かった彼女は、恋愛なんていくつも見てきているだろうに。咳払い一つして、師匠が無理やり自分を落ち着けている。


「目に見える形として残したい最も大切な想いが、これだったらしい。この都市内での婚姻と言う概念における誓いの証明は、男性と女性が揃いの首飾りを付けることだったようだがね」


「おや、それは妙ですね。ならどうして恋文なんてものを残しているんです? これが結婚の証明品ではないのでしょう?」


「あー。うむ。アラセ君。一言どうぞ」


「ししょーってモテないでしょ」


「はい? どうして突然そのような話になるのです」


「いや、良い。そんなにはっきり言ってやるなアラセ君。彼はそう言う男だ」


「そうらしいですねぇ。軍都市の軍学校主席卒業者がこんなにも女性に見向きにされない理由がよーくわかりました」


 なんなのだ。女性陣から私に向けられるのは、どうしてか哀れみの視線だった。その生温さに言いようのない不快感と、若干の恐怖と焦燥感を感じてしまったが、二人の視線は早々に私から外された。まるで論外、とでも言いたげに。


「それにしても、本当に素敵ですねぇ。こんな文化があるなんて、可愛らしい良い都市じゃないですか」


「ま、まあ概ね同意かな」


「ししょーの師匠。内容を教えてくださいよ。私、また歌いますよ」


「え、いや! それはちょっと!」


「もー。なぁに恥ずかしがってるんですかぁ。ほら、イッキ! イッキ!」


「こ、こら! 君! ちょっとテンションおかしくないか! いつもはもっとドライでクールだろう!」


「せっかくのお泊まりですし、ガールズトークしましょうよ。ほらほら是非是非」


「アラセさんはともかく、師匠はガールズって歳でもないですよ」


「黙れ非モテ」


 いつになく強い口調の師匠に、私は素直に黙ってしまった。何となく先程の自分が盛大な失言をかましてしまったことは察した。ただ、アラセさんのテンションを下げる役割は果たせた。


「あー。その外見も、星の果実の力ってやつですか」


「うむ」


「えっと、ししょーの師匠が星の果実を食べたのが八歳の時、だったんですよね」


「……うむ」


「星の果実を食べた者の肉体の成長、老化の速度は五分の一になって、ししょーの師匠は今、肉体年齢がじゅうに……」


「よし寝よう!! 明日も早いぞ!! とっても忙しいぞ!!」


 きりきりと叫ぶ師匠は、食事も取らずに毛布に包まってしまった。お腹が空いて寝られるわけもないのに、一体何を考えているのか。


「あれ。ししょーの師匠。どうしたんですか。ちゃんと食べないと明日元気が出ませんよ」


「アラセさん。私も大概ですが、貴女もなかなかのものですね。これも若さというやつですか」


「はい?」


 まだ十五歳のアラセさんにはわからないものも多い。それがよくわかった瞬間だった。


「師匠。元気出してください。実は昨日の肉を持ってきているんです。鍋にして食べましょう」


「え、ちょっと待ってください。昼も思いましたけど、肉って何のことですか」


「宰相殿から頂いていたんですよ。昨日は前夜祭でした」


「えぇ! ちょっと! 何で私はそれを知らないんですか!!」


「だって、貴女に言うと私達の取り分が減るでしょう。何を当たり前のことを言ってるんですか」


「ウソ、だろう……」


 誰しもがわかりきったことを聞いて静かになる辺りも、アラセさんの若さの証かな。


「師匠。師匠。ほら、食べますよ」


 肉の空気に誘き出された師匠が、むっすりとした顔でひとりごちる。


「……どうして私の周りには意地悪しかいないのかね」


「類は友を呼ぶと言いますし」


「そう言うとこだぞ!」


 肉の匂いで死妖が寄ってくる可能性を考慮して、私達三人は巨大な毛布に包まって鍋を囲んだ。師匠もアラセさんもかなり美しい外見をしてはいるが、下からぼうっとした炎に照らされているとどうにも不気味で、肉の味が随分と落ちた気がした。

 結局、狭くて暑い密閉空間で手元の集中を疎かにした師匠が鍋をひっくり返し、アラセさんの胃袋に高級肉がおさまることはなかった。






















 ここに電話がかかってくるなんて思ってもいなかったが、受話器を取ってみて二度驚くことになった。相手は何と、つい先日から私の上官になったクレナイだった。六都市間に電話線は引かれていないため、彼も今は王都市にいることになる。


「大丈夫なのですか。こんな一般回線で電話なんて。盗聴されていたら一発でアウトですよ」


「お前が気にすることではない。そちらの生活はどうだ」


 部隊のトップから直々に任務について聞かれることなんて初めての経験だ。そう言えば、私はクレナイ以外の特殊工作隊員に会ったことがない。今更な話だが、随分と胡散臭い組織に身を置いたらしい。


「えぇ。よくやれてると思いますよ。模擬演習の銃撃音が聞こえてこないだけで、こんなにも心地良く眠れるものなのですね」


 王都市にも騎士と呼ばれる戦闘集団があるにはあるが、遠目から見た限りでは外見だけのままごと集団だった。そんな連中が熱心に戦闘訓練を行なっているわけがなく、この王都市は民草の生活音以外は聞こえてこない、何とも間延びした世界だった。


「それにしても、驚きましたよ。まさか貴方の知り合いがあの宰相殿だったとは」


「古い馴染みだ」


 王都市の実質的最高権力者と古い馴染みか。ますますこのクレナイと言う男の経歴がわからない。宰相殿は確か五十過ぎの年齢だった。クレナイとは十以上の歳の開きがあるはずだが。


「先代を毒殺したとか、幼王を操り人形にして裏で王都市を牛耳っているとか、色々と黒い噂の絶えない人ですが、会ってみると以外に気さくな良いおじさんでしたね」


「奴は信用できるぞ。あれは根っからの悪党だ」


「でしょうね。なんかネチネチしてましたし」


 スパイである私に一対一で会うと言う信じられない行動の裏には、私のような若造では測りようのない悪意があった。


「奴と知恵比べしたところで無駄だ。気の良い親戚のおじさん程度に思っておけ。おっと失礼。君に親戚はいないのだったかな」


 そしてこのクレナイと言う男も、本当に気の良いおじさんらしい。二人の善良な人間に囲まれた私は、他人に自慢したいくらい幸せ者だった。


「よし。では今ここで星の巫女についての報告をしろ」


「はい」


 星の巫女、シャルロット・クリューの元にやってきて一週間。多少はわかったことがある。


「実年齢と比べて、精神年齢は多少幼い部分が見受けられます。外見が十を超えたばかりの少女であることに、内面がかなり引き摺られているのが原因かと思われます」


 私の表向きの立場は、宰相殿の紹介で彼女の身の回りの世話をしにきた使用人兼弟子と言うことになっている。ここらに住む者達にはその理由で通した。そしてシャルロット・クリュー本人には、自分は星の果実の情報を狙う他国勢力から貴女を守るために派遣された軍都市出身者だと説明している。


「初めはかなり警戒され、まともな会話すらできませんでしたが、食事を作れば簡単に靡きました。信頼を得ているとまでは言い切れませんが、悪人ではないとは思われているでしょう」


「ふむ。それは上々だ」


「なので優秀なクレナイ殿にはわかって頂けると思いますが、特別に報告するようなことはまだ何も掴めていません。せいぜいが彼女はこの共同家屋のキッチンの位置すら把握していなかったとか、部屋の掃除を二年間やっていなかったとか、その程度です」


 食事を作りたいからキッチンの使い方を教えてくれと頼んだ時にされた、非常にばつの悪そうな顔は今でも思い出せる。そんな顔をするくらいなら自分の住んでいる家のことくらいは把握しておけよと思ったし、実際言った。


「では、二週間後の全く同じ時間に電話をかける。そこでより良い報告を聞くとしよう」


「わかりました。来週辺りには私の方が師匠になっているかもしれませんがね」


「もし本当にそうなったのなら、美味いスクランブルエッグの作り方でも教えてやるんだな」


 笑えない冗談を最後に電話は切られた。何となくクレナイの放つ距離感が近くなった気がする。あの手の軍人にしては珍しく、以外と冗談のわかる人間らしい。もし次に会う機会があれば、銃口を突きつけてみようか。


「ふぅ」


 一つ溜息をつくと、暗くて冷やっこい廊下に沈黙が広がった。この共同家屋は王都市の端っこに位置しており、ほとんど人が寄り付かない。周囲に住んでいる人間も、何やら怪しげな者たちばかりだった。馴れ合いが無いのは私にとっては良いことだが、普通の人間が暮らすにはなかなかにハードルの高い場所だろう。そんなところにポツンと建っている七人用の共同家屋に、たった一人で住む少女。彼女が部屋から出てこない理由の断片が見えた気がした。

 つまるところ、この共同家屋は、彼女が所属していた廃窟隊の仲間達と共に暮らしていた場所だったのだろう。一人、また一人と順を追って消えていったのか、それとも一瞬で消えたのかまではわからないが、こうして人の息遣いが途絶えのは確かだった。


「……」


 上の階から大きな音がした。またゴミでも踏み付けて転んだのだろう。べそをかいている光景が目に浮かぶ。


「仕方ない。甘い物でも作ってあげますかね」


 初めて同じ食卓を囲んだ昨晩、甘い物は好きだと言っていた。

























 六時間の睡眠を挟んだ廃窟二日目、私達は新たな発見をした。


「川ですね」


「面白いな。川なのに水が止まっている」


「都市の外から流れてきて、都市内部を通ってまた外へと出て行っていたのでしょうが、今はその『外』がありませんからね。異様に細長い池だと認識する方が適当でしょう」


 廃都の端、外敵の侵入を阻む壁の近くにその川はあった。この廃都は円ではなく、星のようないくつもの出っ張りのある壁で外と内とを隔てている。あえて出っ張りや凹みを作ることで上から敵を迎撃しやすくしているのだ。


「水質は良さそうだ。魚もいるな」


「固まってますがね」


「海藻の生え方を見るに、上流は向こうだな。下流でここまで水質が良いとなると、生活排水を捨てていたわけでは無いだろう」


「今のところ井戸は見つかってません。おそらくは飲水用でしょうね。そもそもこの廃都には上下水道の設備はありません」


「飲水用か……」


 水は人間の生活に必要不可欠だ。それを効率よく手に入れるための川が近くにあるのはごく普通のこと。人間の文明は川とともに栄えてきたのだから。

 だが、師匠はどうにも気になることがあるらしい。


「ししょーの師匠! 見てきましたよー!」


「おぉ、お疲れ様。ありがとう」


 私の隣にアラセさんが着地した。この川を見つけた師匠が、すぐにアラセさんに何かを確認しに上空に行かせたのだ。アラセさんが廃窟隊に加わってくれたことで、情報収集の速度と精度が飛躍的に跳ね上がった。これがタダで手に入ったのだから、ししょー呼びも安いものだ。


「我が弟子が何か悪いことを考えていそうだが、今は放っておこう。それで、どうだった?」


「ありましたよー。神殿の向こうに大きな池が。パッと見た感じ、かなり綺麗そうでした。位置的には都市のほぼ端、やや中央よりってところです」


「気泡のようなものは?」


「あー。あ。うん。ありました。ぷくぷくと。魚ですかね」


「いや、おそらく君が見つけたのは池と言うよりは巨大な湧水地だろう」


 それはつまり、飲料水はそちらで確保していたと言うことだ。しかし、仮にそうだとしたら、この川はなんだ?


「湧き水が枯れた時用の予備でしょうか」


「都市を広げていくうちに区画内に入ってしまったとかもあり得る気がします。私なら多分そうなります」


「いいや。この川が予備だと言うなら、こんな壁の近くにあるのは解せないな。壁の強度が落ちるし、もしこちら側から敵に攻められた時には使えなくなる。むしろ防衛の邪魔まである」


「それは確かに」


 実際、この都市の水源はきちんと都市の中央部分にある。神殿のそばにあることを考えても、そこが一番安全な場所なのだろう。水を守ることの大切さを理解していたこの都市の民達が、「予備」をこんな扱いにするとは考えづらい。

 また、川と言うのは常に氾濫の危険が付き纏う。それを都市内部に引き入れるのは大変なリスクだ。都市を作った後に川を引いたのだとしても、生活排水を捨てていたわけでもない、飲料水にしていたわけでもない、こんな無意味な引き方をするだろうか。


「気にはなるな」


「議会場はどうします。また後に回しますか」


「でも、川を調べるなら上流、中流、下流を見る必要がありませんか。かなり手間になりますよ。重要度なら議会場が先だと思います」


「ふむ。それもそうだな。どうしたアラセ君。君もなかなかわかってきたじゃないか」


「ぶぃ」


 褒められてちょっとだけ嬉しそうなアラセさん。


「一応、三手に別れる選択肢もあるにはありますが」


「ねぇ、ししょー。私がせっかく良い意見を出したのですから、横から口出しするのは良くないですよ」


「判断材料を提供しているだけです」


 パンチを繰り出してきたアラセさんを片手で受け流しつつ、師匠の最終判断を待つ。


「議会場に行こう。この都市の構造に関わる情報があるかもしれない。ピースの揃わないパズルをしても、無駄に時間を食われるだけだ」


「わかりました。アラセさん。それらしき建物はありましたか」


「なんか仰々しげな奴が」


「それです。案内をお願いします」


「うけたま」


「……」


 この子、軍都市で生まれていたら相当苦労しただろうな。この返事を真剣そうな顔で言ってるのだ。おそらくふざけているのでは無い。


「っと。すまない。先に行っててくれ」


「師匠?」


「すぐ追いつく」


「川に落ちないでくださいね」


 フラグになってしまうだろうか。まぁ、師匠は運動音痴の世界大会覇者ではあるが、あれでそこそこ泳げる。川も非常に浅かったし、溺死はないだろう。


「大丈夫ですか、ししょー。ししょーの師匠、溺れ死にません?」


「やめなさい。言霊になりますよ」


「それに、こんな簡単に単独行動させていいんですか。ししょーの師匠はししょーと違って、格闘能力も無いんでしょう」


 どうやら、アラセさんは師匠の身の危険を案じているらしい。当然の反応だ。師匠だからと言うわけではない。アラセさんも何度かの経験で廃窟の恐ろしさと言うものを身に染みてわかっている。だが、


「大丈夫です。師匠は普段は確かにあんなんですが、単独での廃都踏破の数はぶっちぎりでトップです」


 星の巫女うんぬんを前に、彼女は廃窟士として類稀なる才能を持っているのだ。


「あぁ。ですが、もちろん貴女の単独行動はダメですからね。私や師匠が安全を確認した時か、よほどの緊急時以外は、常に私か師匠の隣にいてください。わかっていますね」


「……わかってますよー。何度も言われてるんですから」


「よろしい。……何を笑っているんです」


 高級肉よりも希少なアラセさんの笑顔が見えたその時、


「止まってください」


「え。わ! あ! あれって……!」


「静かに」


 道の向こう、大きな建物の影になっている場所に、一体の死妖がいた。距離にして10メートル。安全な間合いとは言い難い。


「な、なんですか、あの死妖。人型?」


とても嫋やかな淑女シャドウ・レディです。美しい見かけに騙されてはいけません。強い魔力を持った危険な死妖です」


 とても嫋やかな淑女シャドウ・レディ。人のいない場所に発生する女性の姿をした死妖。基本的に発生した場所から動くことはなく、こちらから接近しなければ無害だ。だが、もし目をつけられてしまうと突然襲い掛かられる。


「運悪く曲がり角などで接触してしまった廃窟士が、毎年二十人近く殺されています」


「何ですかそれ。全然嫋やかじゃないじゃないですか」


「魔力で作られた身体に打撃技は通用しません。目をつけられる前に立ち去りましょう。この距離で見つけられたのは幸運でした」


 そしてこの発見は同時に、この都市にはただの一人の生き残りもいないことを私に確信させた。とても嫋やかな淑女シャドウ・レディは「空間の仕切り内にいる人間」に反応する。屋内にいた場合は、その建物内に人間がいないと言うことになる。今の彼女がいるのは、道の端とは言え屋外だ。あの場所が含まれる仕切りとは、この廃都そのもののことを指すだろう。


「おや、どうしたんだ君たち。そんなにくっついて」


「師匠。とても嫋やかな淑女シャドウ・レディです。迂回しましょ……って。……やっぱり落ちたんですか」


「え、いや? 落ちてないけど?」


「嘘になってませんよ。そもそも嘘をつく意味は何ですか」


 こちらの状況も知らず呑気な声で現れた師匠は、全身ずぶ濡れだった。ちょっと濡れてしまったとかのレベルではない。これは完全に頭から落ちたな。あんなに丁寧に整えられていた川縁から落ちられる人間がいるのだな。これはもはや芸術の域だ。


とても嫋やかな淑女シャドウ・レディ? どれどれ。本当だな。……むむ。随分とお洒落な服を着ているな。ドレスか?」


「あ、それ私も思ってました。なんか深層の令嬢って感じです。でも、時代背景と全く合ってなくないですか」


「死妖に我々の常識は通用しません。二人して呑気なこと言ってないで、さっさと離れますよ」


 闘って倒せないことはない。が、避けられる戦闘なら避けた方が良いに決まっている。あの死妖がいつこちらに関心を持つかはわからないのだ。


「いやぁ、これは運が良い。へぃ! そこのレディ!」


「は、はぁ!?」


 その時、一体全体何を考えているのか、師匠はとっても気さくな挨拶をしながら、とても嫋やかな淑女シャドウ・レディの元へテクテクと歩いて行った。


「ちょ、何を!」


 その陽気さは初めてのご飯屋さんで店員に注文を取る時に発揮しろ。絶対に今じゃない。


「いやぁ、良い天気だね。レディ、君はこんな所に座って、一体何をしていたのかな」


「ししょー! ししょーの師匠が! あの阿呆が!」


「アラセさんは離れていなさい!」


 拳に力を込め、征道を呼び起こす。死妖が上品に伏せていた目を開き、声の方に顔を上げる。全ての動きがゆっくりに感じる。まるで幽霊のような青白い色のみで描かれた死妖が、師匠の顔を見た。とても嫋やかな淑女シャドウ・レディが、人間に興味を持ってしまった。殺し合いになる。そう思った。だが、


「な……」


 恐るべき怪物である死妖は、人の良さそうな優雅な唇で、柔らかく微笑んだ。それはまるで、心優しい淑女のように。

 予想したものとあまりにも異なる状況に、私の右拳は停止した。淑女の頬を激しく殴りつけるまで、あと一センチのところだ。


「こら。レディに対して何てことをするんだ」


 庇う私の左腕を取った師匠が、そのまま私の耳元で囁いた。


「そのまま無言でゆっくり離れたまえ。 とても嫋やかな淑女シャドウ・レディの注意を私に向ける」


「……」


 私は音を立てずに拳を引き、静かに師匠の背後に立った。師匠がもう一度微笑む。


「さぁ、聞かせてくれ。君はここで何をしていたんだ?」


  とても嫋やかな淑女シャドウ・レディの目に光が宿る。その輝きは、何か楽しいことを見つけた子供のようだった。笑顔の淑女が、ゆっくりと口を開く。


『〜ー〜ー〜ー〜ー〜ー〜ー〜ー』


「っ!」


「静かに。レディが話しているよ」


『〜ー〜ー〜ー〜ー〜ー〜ー〜ー〜ー〜ー〜』


 それは、言葉と呼ぶには到底不可能なくらい歪な音の集合体だった。鼓膜を手で撫でられたみたいな嫌悪感を感じる音。それがこの美しい淑女から放たれていると言う強烈な違和感。今すぐにでもここから離れたくなる状況だった。


「ふむふむ。店番をしていたのか。それは偉い。朝からずっとかな」


『〜ー〜ー〜ー』


「なるほど。君は働き者なんだね」


  とても嫋やかな淑女シャドウ・レディは、実に楽しそうだった。手を胸にあて、大切な家族に語りかけるような仕草で師匠に何かを話している。


「……ししょーには、わかりますか」


「離れていろと言ったでしょう」


「でも」


「……私にはさっぱりわかりません。ですが、師匠にはわかっているようです。さぁ、静かに」


「はい」


 アラセさんを私の背に隠しつつ、師匠と淑女の会話を見守る。


「それで、一つお願いがあるのだが、この都市について君の知っていることを教えてくれないか。何でも良いからね」


『〜ー〜ー〜』


「もちろん」


『〜ー〜ー〜ー〜ー〜ー〜ー〜』


「それは」


『〜ー〜ー〜』


「なるほど。ありがとう。それではまた」


 死妖がまた笑った。ただの優しいお姉さんに見えてきたのが何より恐ろしい。


「師匠。 とても嫋やかな淑女シャドウ・レディは何と?」


「いや、先に離れよう。急いだ方が良さそうだ」


 師匠の顔つきが変わっている。その頬に張り付いている緑色の葉っぱが無ければ、もっと緊迫感が出ているのに、本当に残念だ。


『〜ー〜ー』


「ん? ほぅ。なに、構わないよ。是非聴かせてくれ」


「何、何と言っているのですか」


「彼女は歌を聴いて欲しいらしい。……少し辛いだろうが、楽しそうに聴くんだよ。……さぁレディ。歌ってくれたまえ!」


 そこからとても嫋やかな淑女シャドウ・レディによって披露された歌は、地獄に落とされた亡者達の叫声にしか聴こえないような音だった。私や師匠はまだともかくとして、五感が人間より遥かに鋭敏なアラセさんには、相当にキツい時間だったはずだ。


「素晴らしい歌声だったよ、レディ!」


 歌い終わったら必ず拍手をしろと師匠に言われたので、私は耳を掻きむしりたいのを死ぬほど我慢して、何度も手を打った。私達三人の拍手を見て、とても嫋やかな淑女シャドウ・レディはとても嬉しそうにしている。

 そして、すぅっと空間に溶けるように消えていった。


「これが昇天ってやつですか」


 不覚にも、私もアラセさんと同じ発想だった。


「いや、眠っただけだ。あの子はかなり穏やかな個体だったが、次は二曲聴かされるかもしれない。流石にそれは勘弁なので、行こうか」


「それは……そうですね。アラセさん、大丈夫でしたか」


「あ、えぇ。まぁ」


 そそくさと離れていく師匠を見る限り、やはり彼女も相当に辛かったらしい。


「本当に? 無理をしていると死にますよ」


「いえ、本当に大丈夫なんです。確かに音自体は酷かったんですが、その、悪意が全く感じられない、むしろ優しい心のようなものを感じたので」


「それは、確かにそうですね」


 とても嫋やかな淑女シャドウ・レディは恐ろしい死妖だ。その認識は変わらない。彼女の口から発せられるあの音に、生命との圧倒的な隔絶を感じずにはいられなかった。

 だが、不思議とあの死妖が、淑女が、悪い存在だとは思えなかった。私達のそんな反応を面白く思ったのか、師匠が得意げに振り返る。


「確かに、とても嫋やかな淑女シャドウ・レディはとても攻撃的だ。だがそれは、自分の話を聞いてくれないことに怒るからなんだ。普通に接していられれば、彼女はとても嫋やかな淑女なのさ」


「話を聞かないと殺しにくる相手を嫋やかと表現するのは無理があると思います」


「否定はしない」


 とても嫋やかな淑女シャドウ・レディの習性を知らない限りは、あの声に我慢できないだろう。初見の人間では絶対に不可能だ。


「さて、レディはとても良いことを教えてくれた」


「彼女が何を言っていたのか、わかったんですか」


「あぁ。ここだけの話、私は結構、一人で廃窟していた時は彼女達に助けてもらっていたのだよ」


 初めて話した時は、全く何を言っているのか分からなかったがね。そう言って笑う師匠は、やはり師匠なのだと思えた。

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