第四回 秦瓊が御駕を救い 真主が臨凡する

 詩に曰く、


  天祐ある唐公には福が多く

  晋王はみずからあえて波風をおこす

  紫微星が李家に降臨し

  寺院にめでたき碧羅の光


 唐公李淵が矢を放つと、鳴弦と同時に人が馬から落ちました。埃が巻き上がっているほうをみれば、こちらは配下の部将たちです。李淵は李道宗に語りかけます。

「あの勇者のおかげでわれら一家の命が助かった。この恩はゆめゆめ忘るまいぞ」

 このように話していると、今度は数人の大男が、小作の農夫たちを連れてやってきました。彼らは李淵の馬に駆け寄り、泣いて訴えます。

「わたくしどもの主はどんな無礼を働いたのですか。なぜ主を殺したのですか」

 李淵、

「わしはそなたらの主人を殺したりはしておらぬ」

 男たちが申します。

「喉に刺さった矢を抜いたところ、大人さまの名が記されておりました」

 李淵ははたと思い当たりました。

「ああそうか、さきほど強盗どもと争いになったのだが、そのあとそなたらの主人が馬を駆ってやってきたので、強盗どもの仲間かと思いこみ、撃ってしまったのじゃ。そなたらの主人はいかなる名か。そなたらに白銀百両を与え、棺を買って故郷に帰らせよう。わしは太原に帰ったのち、神仏に寄進をし、そなたの主人の得度を祈ろう」

 男たちが言います。

「われわれの主人は潞州ろしゅう二賢荘にけんそう単道ぜんどうです。いま、長安に緞子を買いにきていたのですが、大人さまに撃たれてしまいました。銀子などいりません。帰って二の旦那さまにこのことを伝えます。二の旦那さまは単通ぜんつう、字は雄信ゆうしん。きっとあなたの命を狙うでしょう」

 李淵、

「死者は生き返らない。わしにはどうすることもできぬ」

 男たちはどうしようもなく、棺を買ってなきがらを納め、故郷へと帰りました。李淵もこの件でどうも気が晴れず心が落ち込みますが、配下のものたちを引き連れ、家族の車のところへ戻りました。竇夫人に声をかけます。

「驚かせたな。賊は逃げ散った。先を急ごう」

 かくして一同出発いたしました。竇夫人は襲撃の一件で驚いたせいか、にわかに陣痛がはじまりました。安静にしたいところですが、駅舎もありません。近くに承福寺しょうふくじという大きな寺院がありました。部下をやって話をさせ、部屋を借り受けます。この寺の住職は五空ごくうと申しました。いそぎ僧侶たちを集めて李淵を出迎えます。李淵は寺の奥の部屋を借り、家族を休ませるとともに、部将たちに巡回させ不慮の事態に備えさせ、自身は帯剣して本を読んでおりました。

 三更まよなかの時刻、にわかに不思議な香りが鼻をついたので、奇妙に思って外に出てみると、空中から楽器の音がしゃんしゃんと鳴り響くのが聞こえました。紫の霧がたちこめ、天には瑞雲がかかっています。この時刻、天上の紫微星が降臨したのでした。寺じゅうに瑞気のけむりが満ちあふれます。

 李淵びっくりしていると、小姓がやってきて報告いたしました。

「奥方さまが男の子をお生みになりました」

 李淵は大喜びです。

 翌朝、李淵が如来を拝みにまいりますと、僧侶たちがお祝いを申し上げました。李淵、

「分娩のために寺院を穢してしまったのです、お祝いを受ける資格もありません。ただ、妻は分娩したばかりで、おそらく旅の辛苦に耐えられますまい。もうしばらくのあいだ宝刹をお借りしたいと思うのですが、いかがですかな」

 五空和尚、

「貴人が生まれ、わがボロ寺に光が差したかのようです。どうして断ることができましょう」

 李淵、感謝を伝えます。配下のものたちに騒ぎをおこすなと命じるとともに、半月だけ寺に住まいを借り、夫人の健康が回復してから太原に戻ること、戻ったらお金を出して寺の堂宇を修繕することを決めました。

 ある日の李淵、寺のなかで暇をつぶしていたところ、塀に対聯がかけられているのに気づきました。


宝塔は雲をつき、江山をみわたせば万里清浄

灯火は月に代わる、悠閑なるかな天地世界


 横に「汾陽ふんよう柴紹さいしょう 手をきよめて題す」と書いてあります。

 李淵、雄偉な筆致とことばに感銘をうけ、五空和尚に尋ねます。

「この柴紹というのはいかなる御仁ですかな」

「この方は汾陽の柴だんなさまの公子で、わが寺院で勉強されております。これは気まぐれに書かれたものですね」

 李淵はいたく興味を惹かれ、

「お引き合わせ願えますかな?」

 かくて五空和尚、李淵を柴紹の書斎へ案内いたします。中庭には松の緑が映え、竹は青々として、柏は天をつく高さ。李淵はしきりにたたえます。五空和尚、

「あちらの柳の下の建物、竹の扉のところが、柴紹どのの書斎です」

 李淵が入口のそばまでやってくると、たえなる琴の音が聞こえてきました。五空和尚が門をたたこうとするのを止めて、

「いましばらく琴を聞いていましょう」

 ややあって演奏は終わりました。五空和尚が門をたたくと、手習いの少年が出てきて「どなたですか」と尋ねます。

 五空、

「こちらは太原の唐公李淵さま。お会いになりたいとのことです」

 柴紹、李淵と聞いて慌てて出迎え、書斎に招じ入れます。拝礼して言うことには、

「ご老公のお出ましとは知らず、出迎えもしないで失礼いたしました」

「お若いかた、あまりかしこまらぬよう」

 李淵、柴紹に座をすすめ、しばし閑談いたします。李淵、柴紹の風貌をうかがうに、まことにりりしき青年。眉がこめかみに届くほど長く、眼はおおきく弧をえがき、瞳はきらきら。鼻は高く、弁舌はまことにさわやかで、気概にあふれています。闊達にして文武にすぐれ、英俊のますらおと見えます。

 この柴紹なる人物は字を嗣昌といい、天界の金府星君が降臨した者、のちに唐の駙馬ふばとなり、護国公の位につくことになります。

 李淵、柴紹がまだ独身であると知り、このようにもちかけます。

「わしにはひとり娘がいて、髪にこうがいをさす年ごろになったが、いまだ婿を迎えておらぬ。ここで和尚をなかだちとして君に娶せたいと思うのだが、いかが思われるかな」

 柴紹、

「わたしはとるに足らぬ貧乏学生にすぎません。ご老公に目をかけていただけるのに従わぬ道理がありましょうか」

 李淵は大喜び、茶を一服してからいったん柴紹と別れました。もどってきて竇夫人にこのことを伝え、五空和尚を媒酌人とし、吉日を選んで婿に迎えました。

 光陰矢のごとし、いつしか半月が経過し、竇夫人の身体の具合もようやく良くなったので、準備を整え進発いたします。五空和尚からこのことを聞かされた柴紹、家来を実家にやって李家の婿になったむねを伝えさせ、自身は李淵に従って太原へ去っていきました。これぞまさに、


  雲は蛟を擁して高みへとのぼり 風は虎をしたがえ高らかに響く

  天は唐に帝業を成し遂げさせんがため 英傑を婿として送った


 李淵たちが太原へ戻った話についてはひとまず措いておきます。

 さて話を秦叔宝に戻します。ただひとり、馬を駆りたてて八、九里を進んだのち、ようやく一息つきました。旅籠にいる樊虎を見かけ、先日の件をひととおり話します。次の日、朝食を終えると、荷物をとりわけ、おのおの担当の罪人を連れて、別れて出発いたしました。

 秦叔宝、一日もしないうちに潞州ろしゅうへ到着いたします。宿所に選んだのは王小二おうしょうじの旅籠でした。罪人たちを役所へ連れて行き、報告書を書きます。獄吏は罪人たちを収監しました。潞州の長官の蔡建徳は李淵の息子の誕生祝いのため太原へ出かけており、戻ってきてからでないと劉刺史への返書はもらえないとのこと。秦叔宝はやむなく旅籠に帰って待つことにいたします。

 なんせ秦叔宝というひとは大食漢で、三度の飯には一斗の米を食べてしまいます。王小二にはいささか多めにお金を渡していましたが、馬といっしょに二十日あまりも滞在すると、その金のぶんはみんな食べつくしてしまいました。

 王小二、妻の柳氏と相談します。

「あの秦のだんなはまったく疫病神だぜ。あのひとが来てからほかの客が来なくなっちまったし、宿代もみんなあのひとの胃の中に消えしまった。このごろじゃあ店先に灯篭も出せなくなっちまったぞ。あと数日したら誰も寄りつかなくなっちまうぜ。どうしたもんかね。秦のだんなに話をして、怒らせてもまずいしな。知恵を貸してくれよ」

 柳氏、

「あなたは面目ってものを心得るべきよ。あの秦のだんなは山東では名前の知れた豪傑なの。宿代を踏み倒すなんてあるものですか。知事さまがお戻りになって、返書を手に入れたら、きっちり支払ってくれますよ」

 さらに数日が過ぎると、王小二は待ちきれなくなり、愛想笑いを浮かべながら秦叔宝に申します。

「秦のだんな、ちょっとお話があるんですがね。怒らずに聞いていただけますかね」

 秦叔宝、

「おまえは宿の主人でわたしは客だ。話があるなら話せばいい。なにを怒ることがある」

 王小二、

「ウチもあんまり余裕があるわけじゃないんで、最初にお預かりしたお金だけじゃ、おかずも用意できなくなりそうです。ついては数両ばかし追加の銀子を出していただきたいんですがね」

 秦叔宝、

「わかった、そんなに気を遣わなくてもいい。むしろ追加の銀子を出さなかったのはわたしの粗忽だった。最初にわたした宿代だけで足りるわけがないな。ちょっと待っててくれ。取ってきて渡す」

 これを聞いた王小二は欣喜雀躍のていで部屋を出ていきました。秦叔宝は荷物箱の底をさぐってみましたが、あっとびっくり。何をびっくりしたと思われます?

 出発のときに与えられた路銀はひとまず全て樊虎が預かっておりました。臨潼関で荷物を分けたとき、いそいでいたものだから、路銀を分配するのをうっかり忘れていたのです。書類などは丁寧に分別してあったのですが……内心ひどく慌てましたが、ふと母へのお土産に潞州の織物を買って帰ろうと、十両の銀子を持って来たのを思い出しました。うれしいことに、その銀子は荷物にしっかり入っていました。ひとまずしのげそうです。この重量を取り出して王小二に与えました。

「この十両をわたすから、帳簿につけておいてくれ」

 王小二は受け取りました。秦叔宝はそれ以上なにも言いませんでしたが、内心たいそうあせっています。

 それから数日して、蔡刺史がやっと戻ってきました。潞州の役人たちはそろって城を出て迎えにゆき、秦叔宝も列にくわわります。蔡刺史は道中しんどかったというので、かごに乗ってゆるゆる進みます。秦叔宝、路銀がこころもとないので心中じりじり。

(刺史が役所に戻ってきても、事務で多忙になり、しばらくお会いできないかもしれん。ならば路上でお目通りするにかぎる)

 そう考えると、街道上にひざまずいて声をかけます。

「それがしは山東の済南より罪人の護送にまいったものです。閣下の返書を受け取りとうございます」

 蔡刺史は轎の中でうつらうつら、返事などできません。従者たちがしかりつけます。

「なぜ役所の中ではなく、こんな場所で報告しようとするのか。さっさと帰れ!」

 言い終わると、轎かきたちに命じてさっさと行ってしまいました。

 秦叔宝、立ち上がってひと思案いたします。

(一日よぶんに長居をすれば、一日よぶんに金がかかる。刺史さまは疲れているようだから、数日は役所に出てこないかもしれぬ。そうなってはこまる)

 そこで走って追いかけ、再度報告しようといたしました。秦叔宝は急ぎすぎていたこともあり、怪力の持ち主だったこともあって、轎をつかんだとたんに六人の轎かきたちは支えきれなくなり、派手に傾いてしまいました。蔡刺史は中で姿勢を崩して寝ていたからいいようなものの、もし端座していたなら転び出てしまったことでしょう。当然、怒り出しました。

「なんたる無礼! わしを何と心得るか。役人ども、こやつを打ち据えろ!」

 秦叔宝、さすがに自分に非があると思い、大人しく背中を差し出して板で十回打たれました。それから王小二の店に帰って、夕食もとらずに一晩休み、翌朝になってから痛みをこらえつつ書類をたばさみ役所へ赴きました。これぞまことに、


  他人の軒下を通るなら、頭を下げろぶつけるぞ


 かの蔡刺史はなかなか有能な人物で、帰ってきた翌日には役所に出てきて、溜まっていた仕事をいたって明快に解決していきます。秦叔宝、裁判などの公務が終わるのを待ち、ようやく出て行ってひざまずき、報告します。

「それがしは済南の劉大人に派遣された者です。長官さまの返書を受け取りたくまいりました」

 ここでわざわざ劉刺史の名前を出したのは、蔡刺史と同年合格の親友だったからで、機嫌を直してもらおうと思ってのことでした。はたして蔡刺史、嬉しそうに答えます。

「おまえは劉大人の部下であったか。昨日はあんまり乱暴だったから打たせたのだ」

 そこで報告書に目を通して捺印するとともに、出納係に銀三両を取り出させ、秦叔宝に与えました。

「本官はおまえの上官の劉どのとは同年合格のよしみがある。道中苦労があったろう、この銀子をあたえるので旅費にあてるがよい」

 秦叔宝、叩頭してお礼を言い、返書と銀子を受け取って退庁いたしました。

 王小二はカウンターで宿代の計算をしておりましたが、秦叔宝が書類をもって戻ってきたのを見て、ニタニタ笑いながら出迎えます。

「秦のだんな、宿代と食事代はまだいささか足りませんが、どうしたもんですかね」

「支払うとも」

「お仕事が片付いたなら、ここらでご精算といきましょうかい」

「わかった、帳簿を持ってきてくれ」

「秦のだんながおいでになったのは八月十六日ですな。今日が九月十八日なんで、全部で三十二日。まぁ最初と最後の日はサービスということにして三十日。一日に六銭で計算しますと、銀子十八両になります。このまえ十両いただきましたから、残りは八両になりますな」

「これは長官さまからいただいた三両だ。おまえにわたそう」

「はい、三両ですな。まだ五両足りませんのでお願いしますぜ」

「そうあわてるな、わたしはまだ出発しない」

「お仕事はもう終わったんじゃないんで?」

「朋輩が沢州のほうに行っているんだが、銀子はみんなそいつが持って行ってしまったんだ。そいつがこっちへやってきたら払おう」

 王小二、これを聞いて顔色を変え、

「ウチは旅籠です。泊まりたいってんなら一年だって泊まってってくださいや。ただ、ウチもあんまり手元に余裕があるわけじゃないんで。だんなのお友達とやら、もしだんなに似たうっかりさんで、そのまま山東の済州まで帰ってしまった場合はどうしなさるんです?」

 このように話しながら、ひそかに考えます。

(この人は荷物もさほど多くなく、立派な馬もいる。馬に水を飲ませるとか口実をつけて、そのまま逃げられたらどうする? 済州まで追っかけるわけにもいかない。書類を預かっておけば確実にひきとめられるだろう)

 そこで笑みを作って申しました。

「秦のだんな、まだ出発なさらないというなら、大事な書類はわたしがお預かりして金庫にしまっておきましょう。そうすりゃ安心して寝泊まりできますよ」

 秦叔宝、これを真に受けて書類を渡してしまいました。これより毎日街道へおもむいて樊虎を待ち受けましたが、いつまでたってもやってきません。役人の姿をした大柄な男がやってきた、と思っても、近くへ行ったら別人ということばかり。あせりのあまり目から火花が飛び散ります。昔から、来るのはいやなやつばかり、待ち人は来たらずと申します。

 いつしか秋の風が暑気を払い、紅葉が舞い散る季節になりました。ただぼんやり待ちぼうけ、樊建威は影すら見えず。食事の質はずいぶん落とされ、夕方になれば王小二がさんざん嫌味を言いにくるので、うんざりするばかり。ある日の夕暮れ、旅籠に戻ってくると、部屋に明かりがついています。

(帰ってくる前から明かりがついてるなんて、なぜ今日にかぎって気配りしてくれたのだろう)

 近づいて様子を見ると、中では人々がゲームをして酒を飲んでおりました。王小二が駆け寄ってきます。

「秦のだんな、いやぁ申し訳ない。今日は宝石や骨董を商う方々がお客にみえましてね。その人たちが秦のだんなの部屋が良いって言って。鍵がかかってなかったもんだから、だんなの荷物を運び出しちゃったんです。三、四日で出ていくとおっしゃってますがね。わたしもだんなの荷物をなくしちゃいけないと思ったんで、後ろの小部屋に運び込んでおきました。ちょっとのあいだそっちへ移ってもらえますかね。あの人たちが出て行ったら、戻ってもらいますから」

 秦叔宝、お金がないものだからすっかり参っていて、言うなりになります。

「おまえの宿なんだから好きにしたらいい。そんな話はしなくても。わたしは寝るところさえあればそれで十分だ」

 王小二、灯火をたずさえ、ぐねぐね曲がって奥へと案内いたします。そこはひどいあばら家で、床からは草が生え、例の荷物も草の上にポイと置かれています。壁はこわれて風が吹き込み、灯火をかけるところもございません。王小二、

「秦のだんな、とりあえず仮住まいってことで。あの人たちが帰ったら前の部屋に戻ってもらいますんで」

 明らかに心のこもってない言葉に、秦叔宝は返事もしません。王小二が出ていくと、秦叔宝は草のしとねに座り、金鐗を膝に乗せ、指でつつきながら歌います。


あばらやには風また雨

たすけてくれる友もなく

わが鐗の腕前など誰も知らぬこと

長いためいきつくほかなし


 歌っていたところ、不意に足音が聞こえ、門を閉じる音がいたしました。秦叔宝は言います。

「こんちくしょうめ、この秦瓊はきれいにやって来てきれいに立ち去るのだ。よくそんな辱めができるもんだな。それに書類を預けているんだ。逃げようったって逃げられはせぬわ」

 外から声が聞こえます。

「秦のだんなさま、大声を出さないでください。わたしは王小二の妻の柳氏です」

「あんたは立派な奥さんだと聞いている。夜中にこんなところへ来るとあらぬ誤解を受けることになるぞ」

「うちの夫はあのとおりの小人で、いささか銀子が足りないからって無体なことばかり言っておりますが、秦のだんなさまのご海容を祈るばかりですわ。夫はもう寝ましたのでお夕飯をお届けにまいりましたの。それに針と糸も。もう秋だというのにまだ夏服をお召しですね。背中の布が破れていますよ、ご自身でつくろってくださいませ。それと、いささかの小銭をお持ちしましたので、これでおかずなりおやつなりお求めください」

 秦叔宝、聞いて思わず涙がこぼれます。

「ありがたい、あなたは韓信に食事を与えた漂母ひょうぼのような方ですね。わたしには韓信のように千金をもって報いることはできませんが、後日幸運がおとずれたならば、きっと手厚くお礼をしましょう」

 柳氏、

「わたしはそんな者ではありませんわ。高望みもいたしません」

 言い終わるや、門のカギを開け、弁当箱を置いて去っていきました。これぞまことに、


  ぺらぺらの財布にもう小銭もなく 窮乏ぶりを気にしてくれる人もない

  韓信に名をなさしめたは一碗の飯 英雄を知ること婦女子にしかず


 秦叔宝、夫人がおいていった包みを拾ってみると、青い布につつまれた銭が三百文と、裁縫用具一式、肉入りのスープ一碗でした。すばらしき秋の宵、月は浩々、どうにも眠れません。服を脱ぐと月の明かりをたよりにとりあえず縫い合わせ、明け方になってからそれを着て出かけました。これぞまことに、


  龍袍を縫いなおすは稀なことなれど ボロ着はつぎはぎだらけなもの

  針をとってうち眺めればそこに母の糸 英雄とて涙し衣を濡らす


 三百文を手に入れた秦叔宝、また毎日樊虎を待ちましたがやってこない。数日が過ぎて、柳氏から受け取った三百文も使い果たしてしまいました。あいかわらず王小二からは皮肉を浴びせられます。ふと考えました。

「換金できるようなものとしては、金装の双鐗のほかにはない。これを売って宿代に変え、はやく山東に戻ろう」

 かくて王小二にこのことを伝えます。

「どうも友人は来そうにない。この金装の双鐗を売ってきてくれ」

 王小二はいらぬ心配をして、

(いまになって金装の鐗があるなんて言い出すなんて変だな。預かったらろくなことにならんかもしれんぞ)

 そして言います。

「秦のだんな、手放したら取り戻せなくなりますぜ。それより三義坊の質屋に行ってそいつを預け、当座の銀子を借りてくるほうがいいでしょう。沢州のご友人がやってきたら、その人から銀子を受け取って質屋に支払い、鐗を取り戻したらいい」

 秦叔宝は好意で忠告してくれたものと思い込み、さっそく鐗を手に三義坊へと向かいました。これぞまさしく、


  追い詰められれば友もわからず、迷ったさきには薄情者


 秦叔宝の双鐗といえばそれなりに知れたものでもあり、祖先伝来の家宝でもある、と思って質屋にやってきたのですが、あにはからんや、鐗をカウンターに置いて見積もりを頼んだところ、質屋が申しますには、

「武器は取り扱いできません。つぶして銅の塊にしてしまうなら買い取りましょう」

 秦叔宝、ただちに銀子が必要でもあり、質屋はとりつくしまもなさそうなので、いたしかたなく、

「じゃあつぶしてしまってくれ」

 質屋は秤をもってきます。

「二本の鐗は重さ百二十八斤。加工の過程で四分の一斤が失われると仮定して、銀子五両。それ以上は出せませんな」

 秦叔宝、ひそかに考えます。

(四両や五両もらったところで、当座の胃袋は満たせても、故郷に帰るにはとても足りぬ)

 やむなく「安すぎて売れない」と告げ、そのまま立ち去りました。戻ってきた秦叔宝に、王小二は命でもかかっているかのように迫りながら、

「武器を売って金を支払うと言ってたのに、なんで持ち帰ってきたんです?」

 秦叔宝、いささか気まずいながらも、

「質屋が言うには、武器は取り扱いできないらしい」

「なら、ほかに何か値打ちのあるものを売ることですな」

「小二兄貴、無理を言わないでくれ。わたしは公務の途中なんだ。武器のほかには値打ちのあるものなんて持ち歩いちゃいない」

「わたしはだんなを心配してんですぜ。なのにだんなはわたしに飢えろとおっしゃる」

 これぞまことに、


  浅瀬の龍は蛇にあなどられ、平地の虎は犬にも負ける


 秦叔宝いかに切り抜けるか、それは次回で。

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