珈琲があるから、会話劇。

宮郷 雪亜

第1話

窓から差し込む朱色が部屋を照らす。長い日も傾きかけるような時間になってしまったらしい。立ち上げていた表計算ソフトを閉じ、パソコンをスリープさせて伸びをする。程よく疲れた僕は2時間ほど前から同じ体制で本を読み続けている隣人を一瞥し、立ち上がった。今日は真夏日だったらしく、日中は日が照っていて外など歩こうものなら汗が滝のように流れシャワーを浴びなければならなくなっていた事だろう。しかし夕方ともなれば気温も落ち着き散歩にはもってこい。この時間を待つために課題をやっていたと言っても過言ではない。僕が動き出しても尚こちらを見向きもしない彼に行ってきますを言うか悩んで辞める。彼の横を通り抜け玄関へ向かおうとすると、Tシャツの右裾を掴まれた。


「右裾を掴まれたら、どうする?」


イタズラな笑みを隠した表情で、こちらを覗き込む。その瞳は隠しきれていない感情が見え隠れする。


「左裾も差し出せばいいのか?」


僕の適当な返事は気に食わなかったのかため息をつかれた。


「ご存知だろうけれど、あいにく俺は浅学な上に無神論者でね。そんな返しをされても困る。」


「無神論を出してくる時点でわかってる癖に。じゃあ、なんて返せば満足なんだ?」


呆れながら単純な疑問を投げかければ、さも当たり前かのようにこいつにしては当たり前のことを言ってきた。むしろなんでさっきはそうしなかったのかと問いかけるように答える声。


「なんで掴んだのかを尋ねてくれればいいだろう?それとも気にならないのかい?俺は話をするまで離す気は無いけれど。」


「はいはい、聞けば満足なんだろ。で、なんだ?」


幼子を相手にするかのように受け流す。


「ここ数日君を観察していた訳だが。学にも乏しく、一芸にも秀でていない俺だが、しかし君より得意なことを見つけたんだ。どうだい、気になるだろう?」


「文武両道と呼ばれる僕よりお前が得意なこと?」


「そう。文武不道の俺が、論文を書けば賞を取り、音楽も運動も芸術の範疇でさえ何でも人並み以上にこなす君より得意なこと。どうだい、興味が無いかな?」


いやらしい笑みを浮かべて面白そうに尋ねる彼。


「ヒントをくれないかな?」


「そうやってすぐ人に頼ろうとするのは悪い癖だと思うが?少しはその優秀な頭をひねってくれ給えよ。」


「お前、他人のことが言える立場なの?」


「俺は常にヒントではなく答えを教えて貰うからな。」


「もっと酷い。じゃあ僕にも答えを教えてくれない?」


「自分の欠点が知りたいって言ってたじゃないか。気がつく機会をあげたんだ、感謝して享受してくれ。」


横暴な言い回しに呆れ半分で問とも言えないもので問いかける。


「ゲームへの集中力とか?」


「残念。俺はゲームだって本だって直ぐに飽きる。」


堂々というようなことでは無いと思うが。


「2時間も読んでいたのにか?それは散歩しながら考えてもいい?」


「ほとんど君を見ていたよ。観察していたと言っただろう。別に構わないが、君は負けた気持ちになるだろうね。」


「それはどういう意味かな?」


「君の欲しがっていたヒントだ。」


僕が腕を組んで顎に手を当て考えに耽けり始めると彼は満足そうに立ち上がりキッチンへと足を運んだ。


「珈琲くらいならいれてあげるからそこにでも腰かけるといい。」


そう言いながら彼はコーヒーメーカーのスイッチを押す。ジュゴゴゴーというミルクを泡立てる音と共にカプチーノが2杯あっという間に用意される。そう言えばこのコーヒーメーカーは彼の知り合いからの貰い物って言ってたっけ。妙な所に交友関係のある奴である。これが導入された当時の僕はドリップ派だったためにだいぶ揉めたような記憶がある。彼と僕とでは気にかけるところが正反対なのだ。僕は数年繰り返してきたドリップで淹れるという行動そのものに意味を持たせ始める。その点彼はドリップとメーカーふたつの味を気分で楽しめると喜ぶタイプだ。変化を嫌がるよねぇ君は、と彼はそんな僕を揶揄ったような。


「ここは僕の家でもあるんだけど。」


彼が座っていた向かいのソファへ腰かける。


「俺はこれから今、34個目の趣味にすることにしたキッシュ作りを始めるからゆっくりと考えるといい。答えは逃げないからね。」


むしろ、舞い込んでくるような、ここにこそあるようなものだと珈琲を差し出しながら彼は付け加えた。カップを持ち上げると芳ばしい香りが鼻腔をくすぐる。口をつける直前に思いつきで口を挟む。


「これを飲んだら後悔するかな?」


「君を観察していたとはいえ知ったような口をきくつもりは無いけれど…そうだね、俺はそんな事は無いんじゃあないかと愚考するよ。」


途中、いつも飄々と言葉で遊ぶ彼にしては濁すような大きめの空白が挟まれた。


「材料なんかあるのか?」


外出自粛の報道が世界中どこにいても追ってくる様になったせいで、しばらく前に日用品とともに買い込んだがそんな洒落たものを作る余裕はあっただろうか?


「いい質問だね。君が昨日の夕方の散歩で二丁目の中村さんから貰ったトマトとズッキーニ、一昨日の散歩で三丁目の荒木さんから貰った産みたての卵があるじゃあないか。」


「勝手に使うつもりだったのか?」


「君の口にも入るのだからいいだろう?」


それはそうだけれども。 こいつに常識をとくのは時間の無駄か。

しばらく部屋はまな板の音や卵の香りに支配される。心地よい静寂を破ったのは僕。


「さっき熱心に読んでいたのは料理本だったの?」


机の上に放置された本を眺めながら。綺麗なブックカバー丁寧に装丁されているためなんの本か気になってはいたのだ。


「いやまさか。ただの小説だよ。」


こんな文庫本サイズの料理本は見づらいから買わないよと。


「見てもいい?」


「もちろん。」


彼が先程まで熱心に、では無いと本人は言っていたけれどとにかく手にしてた小説を手に取る。パラパラと捲ると途中に挟まれていた帯を落としてしまった。読みかけのページにでも挟んでいたのだろうか。後で謝っておこう。さして熱心に読んでいなかったと言うし、彼ならきっと適当なページからまた読み始めるなどする筈だ。とにかく机の下に滑り込んでしまった帯を拾い上げると宣伝用の短い文字列が目に入る。本屋で流しみをしていても目に留まるように作られているのだから、嫌でも情報が汲めてしまう。なるほど、確かにこれは僕の方が苦手だ。


「キッシュが焼けた。味は保証しないけれど座るといい。」


「お前はそんなに料理が下手ではないから大丈夫さ。」


彼は6ピースに切り分けたキッシュと小皿を持って気がつけば隣にいた。美味しそうな香りが部屋に広がる。


「お前は1つだけ選択肢を間違えた。だから辿り着くのにこんなに時間がかかった、なんて言うと負け惜しみみたいだから言わないけれど。」


「やっぱり後悔したかい?」


分かりきっていたかのように言葉を被せてくる。不満げに頷き、なんでと短く問う。


「そりゃあ、せっかく淹れた珈琲を飲まないなんて勿体ないからに決まっているだろ?」


さもそれが当然かのように。

そうだ。彼は自分が無能であるかのように振る舞うことも目標の前でなら平然とこなすような奴だ。言い淀んだのは振る舞いに対する疑念というより、この僕の発言への危惧、僕へのクイズへの偽のヒントを出すことを躊躇っただけに過ぎない。もう1つ彼より苦手なことを見つけてしまった。これは仕返し用に取っておいてもいいかもしれないし、癪だから言わないかもしれない。


「さてこのキッシュもヒントの一環だった訳だけれど、もう答えにはたどり着いたんだろう?名推理をお茶でもしながら聞こうじゃあないか。」


その前に本から帯を抜き取ってしまった旨を伝えると、本と一緒に適当に置いておいてくれと頼まれたので本の上に重ねる。


「直に暗くなる。明かりもつけてくれ。」


いつの間にか夕日も落ちてしまい、部屋は暗くなっていた。LED照明が『おうち時間を楽しむ本』と書かれた帯を明るみに晒した。

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珈琲があるから、会話劇。 宮郷 雪亜 @yukia_11

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