第16話
「お前さ、監督の身内か何かなの?」
練習後、1人で居残り、体育館付属のトレーニングルームでダンベルを用いた筋トレをしていた俺に、同じ1年生部員の1人である矢島が、そう声をかけてくる。
てっきりもう皆帰ったと思っていたので、少し驚く。
「いや、違うよ」
トレーニングを続けながら、返事を返す。
「じゃあ何でお前だけ特別扱いなんだ?
1年で打撃練習してるの、お前だけじゃん。
・・まあ確かに、才能はあるみたいだけどよ」
「僕が去年から練習に参加していたからじゃないかな。
監督に無理を言って、中3の時から1日15分だけ練習に参加させて貰ってたんだ」
「成程。
だから先輩達とも顔馴染みなんだな?
でもさ、よく監督が受け入れてくれたな。
お前さ、中学時代は公式試合に出てないだろ?」
「ああ。
中2までは陸上やってたんだ。
○✕中と言えば分るか?」
「あそこか。
確かにあそこじゃ入る価値ないな。
郡の大会でさえ、いつも1回戦負けだもんな」
俺は苦笑で以て同意する。
「・・何でそんなに頑張るんだ?
ここ暫く見ていたが、お前の練習量は異常だ。
お前、特進クラスだろ?
勉強だって大変だろうに・・」
矢島が呆れたようにそう言ってくる。
「後悔したくないから。
あの時ああしておけば良かったなんて、もう二度と思いたくないんだ。
それに、精一杯やった自分の姿を、見て貰いたい人がいる」
「それって彼女か?」
「・・只の幼馴染だよ。
とても大切な、掛け替えの無い友人さ」
バスの時間が迫ってきたので、練習を切り上げて、後片付けを始める。
「そろそろ校門が閉まるぞ?」
彼にそう告げて、俺はさっさと体育館を後にした。
帰りの電車の中で、車窓に移る自分の顔を見る。
思った通り、冴えない表情をしている。
自分に嘘を吐いている時に現れる、非常に情けない顔だ。
本当に大切だとは言えるが、自分のものだとは言えない。
相手の好意に素直に応えられない。
その資格がないから。
『彼女』・・か。
もしそうであったなら、どれ程幸せなことだろう。
結局俺には、最後まで『彼女』はできないんだよな。
遅くなったけど、今日も西本の家に向かおう。
家の外から彼女の部屋の窓を眺めるくらいなら、俺にだって許されるだろうから。
夏になり、甲子園の予選が始まる。
俺は1年生で唯一人のレギュラーとして、4番、ファーストの位置を与えられた。
この学院の野球部初の、1年生で4番。
甲子園の常連校としてのプライドから、本来なら先輩達からの激しい批判に晒されそうなものだが、監督が敢えて釘を刺さなくても、他の部員達からそれらしい文句は出なかった。
俺の気配りのせいもある。
レギュラーだからといって、新入部員がするべき雑用を
それによって、部員達の赤点を阻止し、補習による練習不参加の事態を避けたのだ。
だが何と言っても、これまでの練習試合での実績が物を言った。
監督の絶妙な采配も効果的だった。
最初は代打で起用された。
その2打席で運良く2ホーマーを放ち、次は7番でスタメン入り。
そこでの2試合も、8打席4ホーマー、1ヒット、3四球。
その次は5番で2試合。
その結果は、9打席4ホーマー、5四球だった。
対戦相手は何れも地元の高校で、まだ名前の売れていない、無名の1年だと甘く見て貰えたせいもあるが、実績としては十分だったのだろう。
そしてある時を境に、練習後の俺の自主トレに、次第に参加者が現れるようになった。
その1人目は矢島で、黙って俺の隣でダンベルを持ち上げ、俺と同じメニューを必死にこなし始めた。
それは何時の間にか1年生部員の数名に伝わり、今では常に5、6人が集まってくる。
男子が集団で黙々と筋トレする姿は、他者が見れば異様に映ったであろう。
一度だけ、矢島に聴かれた。
『何で筋トレなんだ?』と。
その時、俺はこう答えた。
『これからの甲子園は、投低打高の傾向になる。
150km以上の球を投げる投手と雖も、それだけでは、強力な打線の前には長くは持たない。
だから今の内から、ここでパワーを付けておくんだ。
素振りと走り込みなら、他でもできるからな』
その後、『プロテインは何を飲んでる?』などの質問を時々受けながら、彼との自主練はずっと続くのであった。
「風が気持ち良いね」
隣にいる西本が、目を僅かに細めながらそう口にする。
俺達は今、北海道に居た。
今年の甲子園は、去年と同じ、3回戦で敗退した。
俺は1年生ながら3試合でホームランを4本打ち、かなり注目を集めたが、3回戦の投手にまともに勝負して貰えず、最初の打席で2塁打を打った後は、全てあからさまな四球だった。
うちのエースも精一杯投げたのだが、最後は1点差で涙を飲んだ。
甲子園から帰って来ると、監督が部員達に1週間の休みをくれた。
それを耳にした早紀さんが、『頑張ったご褒美よ』と言って、旅行を手配してくれたのだ。
直前だから旅行会社を通さず、かなり割高であっただろうに、札幌、函館、富良野の4泊5日に同行させてくれた。
西本の父親は仕事があるので、今回は3人だ。
札幌では美味しいジンギスカンとステーキを食べ、函館では本タラバガニの塩ゆでをお腹一杯ご馳走になる。
生後3か月くらいの、ハーブしか食べていないラムの肉(アイスランド産が有名かな)は、変な臭みも無く、とても柔らかい。
本タラバガニは、これでもかというくらいに身がぎっしりと詰まっており、それを俺は1人で1匹食べた(冬の方が身が詰まっているので、恐らく冷凍もの)。
因みに、観光地でやっているカニの食べ放題や、新聞紙上などで大々的に宣伝されているタラバガニは、十中八九、本タラバではない(法規制ができたようだから、昔ほど酷くはないだろうが)。
アブラタラバと呼ばれる、別物だ。
味が全然違う。
もし先に、食べ放題などでアブラタラバを食べたなら、中には『もうカニはいいや』と思う人さえいるだろう。
そのくらい微妙である(個人的に)。
見分けるコツは、甲羅の突起の数を数えれば良いのだが(本タラバは6つ)、勿論そういう場所では脚しか出てこない。
まあ、1人3、4000円(やり直し当時の値段)で、本タラバが食べ放題だと考える方が悪いのだろう。
富良野では、大自然の中に在る一軒家のホテルに泊まり、併設の牧場で育てている家畜の肉や乳製品と、専用農場の採れたての野菜を用いた食事を堪能する。
朝食のパンに付けるハスカップのジャムがとても美味しく、朝から何個も食べてしまった。
見渡す限り自然しかないこの場所では、散歩や読書、昼寝くらいしかする事がなく、現にこうして、西本と2人だけで散歩している。
早紀さんは、シエスタの真っ最中だ。
「ここに住んでる人達は大変だろうな。
この空気や景色と引き換えに、生活面でかなりの労力を必要とする」
学校や商店が近くにないのは仕方ないとしても、病院すら見当たらないから、おちおち風邪もひけない。
最寄りの街まで、車で40分近くかかるのだ。
しかもこの当時は、便利なアマゾンすら存在しない。
「もう、ムードないなー。
女の子と2人きりなんだから、もっと他に言う事あるでしょ?」
西本がそっと手を繋いでくる。
「君、少し背が伸びたよね。
今は160くらい?」
「・・161㎝。
そうじゃなくて、ほら、あるでしょう?」
じっと俺の顔を見つめてくる。
「あ、分った。
化粧をしてるんだね?」
形の良い唇が、リップか何かで艶を帯びている。
「~ッ。
甲子園でホームランを打ったあなた、とてもカッコ良かったよ?
用事があって見に行けなかったけど、テレビで見て感動しちゃった。
学校が始まったら、きっと凄く持てるんだろうね」
下を向きつつ、ぼそぼそとそう言ってくる。
「それはどうかなー。
野球だと、エースの方がずっと映えるんじゃないかな」
「・・私達、出会ってからもう何年経つ?」
「8年だろ」
「今の私達の関係って何かな?」
「幼馴染か親友」
「それで良いの?」
「え?」
「このままで良いのかと聴いてるの」
「・・・」
「もっと先に進みたくない?」
「じゃあある・・」
「ここで『歩こう』なんてボケたら、1か月間絶交ね」
「・・・」
「何で言ってくれないの?
言ってくれさえしたら、・・私、絶対に断らないよ?
何でもしてあげるよ?
だからほら、早く言ってよ」
繋いでいる西本の手に、強い力が加わる。
「・・これから僕が言う事を、とりあえず最後まで聴いてくれるか?」
「うん」
「僕は、西本のことが好きだ」
手を通して、彼女の身体の震えが伝わってくる。
「大好きだ。
本当に、心から愛しい。
これまで懸命に努力してきたその半分以上は、君だけの為だよ。
けれど、大切に、大事にしたいと思うその一方で、情けない事に、強い肉欲も存在するんだ。
想いを打ち明け、君に受け入れて貰えたら、僕はきっとそれに溺れてしまう。
盛りのついた猿みたいに、暫くは君を求め続けるだろう。
そう思ったから、これまで何とかごまかしてきたんだ。
今日君に追い詰められなかったなら、高校を卒業するまでは口にしなかった」
相変わらず下を向いたまま、俺は言葉を続ける。
「こんな事を言うと、優しい君は、無理をしてでも僕の欲望に応えようとするかもしれない。
まだ心と身体の準備が完全に整っていないのに、それに応える事が優しさだと勘違いしてしまう恐れもある。
もしかしたら、応じないと僕の心が離れていくなんて、余計な心配までするかもしれなかった」
俺の、暗くなりかけた思考を吹き払うかのように、爽やかな風が吹き抜ける。
「男女交際、とりわけ、僕達くらいの年齢での、本当に好きな相手との付き合いは、日々真剣勝負だ。
狂おしいまでの想いと、相手の為に自己を高め、磨いてゆく真摯な過程とを天秤にかけ、そのバランスを保ち続けなければならない。
どちらかに傾き過ぎれば、(望まぬ妊娠などで)女性の身体に大きな負担をかけたり、『心変わりしたのかな』なんて、要らぬ不安を抱かせる結果に繋がる」
繋いでいる手を放し、両手で西本の両肩をそっと摑んで、自分と向き合わせる。
表情の見えない彼女に、努めて穏やかに語り掛ける。
「僕は今、やらねばならない事が沢山あって、結構ぎりぎりの状態なんだ。
君という存在を支えに、日々できる限りの事をしようと
だから、
じっと俺を見つめる、彼女の瞳に嫌悪感はない。
だが、改めて彼女が口を開くまでの数秒が、俺には随分長く感じられた。
「本格的なお付き合いって、どんなの?」
「それはほら、何でもありみたいな・・」
「キスもそこに含まれるの?」
「ああ。
それを除いてしまうと、
「頬へのキスは?」
「それはセーフ」
「・・あなた、もしかしてロリコンなの?」
「何でそうなる?」
「だって随分前から我慢してきたんでしょう?
まさか、以前あげた水着写真、変な事に使ってるの?」
「使ってない!」
「フフフッ、冗談よ。
やっと言葉にしてくれたから、その条件で手を打つわ。
でもその分、大学生になってからは覚悟してね。
女性にだって、そういう欲求はあるんだよ?」
「・・・」
「それから、後れ
心から愛してます。
これからも、ずっと一緒にいようね!」
そう言い終えた彼女は、俺を力一杯抱き締めてくる。
『本当にごめんな』
凄く嬉しいはずなのに、夢にまで見た瞬間なのに、隠し事をしている負い目のせいで心から喜べない俺は、せめてもの罪滅ぼしとばかりに、きつく彼女を抱き返したのだった。
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