第10話
中学2年に進級した。
約4か月前のバレンタインデーでは、西本から『親愛を込めて』という言葉と共に、大きな箱入りのチョコレートを貰った。
『結構良いやつだよ。お母さんが奮発してくれたの』
そう言いながら渡してくれたその箱に、俺は見覚えがあった。
あと10年もすれば、日本でもかなりメジャーになる高級ブランド。
この箱だけで、5000円以上するはずだ。
まだパソコンがない時代だから、気軽に検索もできないし、分らないとでも思ったのだろう。
中学生が貰うにしては高価過ぎるチョコレートのお礼に、俺は頭を悩ませた。
ホワイトデーのお返しに、自分で何か作ろうとも考えたが、頂いたチョコに見合わないと考え直し、学校を休んで各停の電車に乗り、東京のとある場所までケーキを買いに行った。
当時、富裕層のご婦人方なら誰もが知っていたであろう、赤坂トップスのチーズケーキ。
濃厚なクリームチーズが堪らない
何十年か後、大人になって久し振りに食べた時、そのクリームの質が若干薄くなったような気がした記憶があるが、恐らく気のせいだろう。
それまでは1度に1本しか食べられなかったのに、3本も食べてしまった言い訳にしたかったのかもしれない。
ここはチョコレートケーキも有名なので(寧ろそちらが定番かな)、それも買う。
2つ買えば、往復の電車賃を入れて1万円近くかかるが、来る前に預金を少し下ろしたので、問題ない。
因みに、きちんと中学の制服を着て出かけた。
そうしないと、背の高い俺は、電車やバスを子供料金で乗れない(学生手帳も必須)。
各停だから、往復に5時間近くかかり、午前中の早い時間に出かけても、帰って来たのは午後4時近く。
ちょうど下校時間くらいだからとそのまま西本の家にケーキを届けに行ったら、彼女はまだ帰宅していなくて、その母親に捕まる。
俺が『これ、チョコレートのお返しです。若菜さんに渡して下さい』と言って差し出した袋を見て、彼女の表情が厳しいものになる。
『上がってお茶でも飲んでいきなさい』
有無を言わせずそう告げられて、リビングで大人しく待っていた俺に、彼女は
「知っていたのね」
「何をですか?」
「あのチョコレートのブランドよ。
まだこの辺りにはない物だからと油断していたわ。
しかも、ほぼ正確に値段まで分るのね」
「・・偶々、東京で見た事があったんです」
「頂いたケーキだって、まだ東京にしかないんじゃないかしら。
こう言っては失礼だけど、こんな田舎の中学生が、金額を抜きにしても、おいそれと買ってこれる物じゃない」
彼女が珈琲を口に含む。
「・・前から不思議だったの。
あなた、普通の子じゃないもの。
あんな小さな内から家事のほとんどをこなし、勉強もできて、スポーツも優秀。
おまけに、経済的な知識まで相当高いみたいだし。
・・この間、あなたのお母さんに証券会社で会ったわよ?
何でも、あなたに勧められて、とある株を買い続けているとか。
あの株は、私も目を付けている優良株。
経済新聞すら取っていないあなたが、どうやって、一体何処で知ったのかしらね」
じっと俺の目を見つめてくる彼女。
「町の図書館に行けば、経済誌くらい置いてありますし、母に勧めたのも偶然です。
不労所得が今後益々重要になるのは事実ですし」
珈琲を頂きながら、視線を逸らしてそう交わす。
「じゃあ、あなたのその大人顔負けの気配りは、どうやって身に付けた訳?
ご両親の顔色を
「・・・」
何て言い
「誤解しないでね。
私は責めている訳じゃないのよ?
寧ろ凄く喜んでるの。
娘の側に、あなたのような存在がいる事をね。
こんな田舎に、これ程の人材がいた事をね。
だから、今後ともあなたとは仲良くしていきたいの。
これまで私があなたに対して取ってきた態度は、決して嘘じゃないのよ?」
言い終えて、優しい笑顔を見せる彼女。
その厚意に応えるために、俺はどうにか言葉を
「・・詳しくは説明できないのですが、これだけは信じて下さい。
僕は、若菜さんの幸せしか考えていません。
彼女が喜び、笑い、元気に過ごしてくれるなら、他には何も望みません。
そのためなら、どんな努力も
ただもう少しだけ側にいて、ずっと彼女を見ていたいだけなんです」
「・・透君、あなた、大人になったら若菜と結婚してくれない?
あの子も、絶対にあなたを選ぶから。
どう?
考えてくれる?」
思ってもみない事をいきなり言われて、少し動揺するが、何とか返事を返す。
「大変嬉しいお申し出ですが、今のお話、若菜さんにはしないでください。
彼女に要らぬ義務感を与えたくはないのです。
それに、
子供の頃に多少優秀でも、将来どうなるかは分りませんよ」
「フフフッ、益々あなたが好きになったわ」
『うちの経済状態を薄々知っていて、それでもそう言えるなんてね。
・・あ、まだ父の会社名は知らないのか。
まあ、知ったところで変わらないだろうしね』
「あの、1つだけお願いしても良いですか?」
「ん、なあに?」
「・・トイレを貸して下さい」
「あはははっ。
どうぞ、場所は分るでしょ?」
私はもう、娘の相手はこの子に決めた。
「久住先輩、今日は走り込みですか?
それとも幅跳びの方ですか?」
今年陸上部に入部した女子2人組が、軽いランニングなどの基礎練習を終えて、其々の専門へと分かれていく際、俺にそう聴いてくる。
まだ入りたての頃、専門種目に100mと幅跳びを選んだ彼女達に、俺が丁寧に練習法を教えた事が縁で、その後ずっと
2人とはやり直し前も面識があったが、当時はアホな先輩達のせいで俺の評判はあまり良くなく、気軽に近付いて来なかったし、俺も時代劇の再放送を見るためにちょくちょくサボっていたから、卒業までそれ程親しくならなかった。
「走る方だが、君達も一緒にやるか?」
「「はい」」
嬉しそうに2人が付いてくる。
「じゃあ
ちゃんと家でもやってるか?」
「やってますよう。
お風呂上りにじっくり伸ばしてます」
「私も。
結構開くようになってきました」
「スクワットは?」
「・・それはちょっとだけ」
「ここでの練習以外に、毎日20回を3セットはした方が良いぞ。
君達はまだそれ程背が高くないから、どうしてもストライドで上級生に負ける。
だからせめてバネと筋力を身に付けて対抗しないとな」
「分ってますけど、意外にきついんです。
最後の方は、ぜいぜい言ってます」
「きつくなければ訓練にならないだろう。
本当は、5セットくらいはして貰いたいんだが」
「えーっ、先輩は、私達を筋肉お化けにしたいんですか?」
「筋肉、
若い時の筋肉は重要だぞ?」
「足が太いと男子に持てません」
「選手の内は諦めろ。
それに、君達の体型では、そこまで太くはならないよ」
「最初の2本は軽く流そう。
いつも言ってるが、走り方には注意すること。
バタ足ではなく、弾けるように走るんだぞ?」
「「はい」」
「それから、腕を上手に使え。
両腕を力強く振る事で、1歩1歩のストライドをできるだけ伸ばすんだ」
専用のスパイクに履き替え、本格的に走り込む。
「・・お疲れさん。
クールダウンを忘れるなよ」
1時間ほど練習して、帰る準備に入る。
「お疲れ様です。
・・久住先輩、この後、少しお時間ありますか?」
2人組の内の1人、幅跳びの子が、躊躇いがちにそう尋ねてくる。
「何か話でもあるのか?
時間なら、まだ大丈夫だ」
「じゃあお願いできますか?
あまり人に聞かれたくないので、あっちで」
そう言って、校庭に隣接した、小さな林を指差す。
「分った。
荷物を取って来る」
それから数分後、俺達3人は、薄暗い林の入り口にいた。
「それで、話とは何だ?」
その場に腰を下ろしながらそう聴いたが、実は俺にはその内容が何となく分っていた。
この2人の内の1人、話を切り出した子とは別の、100mを専門にした子は、前回学校でいじめに遭っていた。
中々可愛らしい子だったが、物事をはっきり言い過ぎるせいで、同学年の女子達から無視されていたと、当時耳にした。
あまり陰湿なものではなかったので(同じいじめでも、この学校には級友に万引きを促すものまであったのだ)、自殺するような事はなかったが、時々寂しそうな表情をしながら、1人だけ離れた場所に座っていた事を思い出す。
俺がこの2人を同時に教えたのも、その子に、1人でも良いから同学年の味方を作ってやりたかったからだ。
「・・これから話す事は、絶対に秘密にしてください。
・・麻衣の事なんですけど、この子、どうやらいじめに遭ってるらしくて」
「・・最初は、『気のせいかな』と思ってたんですが、最近、クラスの皆から無視されるんです。
初めは女子だけだったんですけど、次第に面白半分で、男子もそれに同調するようになって・・。
今はまだクラス内だけですが、その内他にも広がったらと思うと、不安で・・」
幅跳びの子、佐藤ひろみに促されて、橘が渋々口を開く。
「無視以外に、勝手に私物を捨てられるとかの実害はあるのか?」
「まだそこまではないです」
「担任はそれに気付いてる?」
「いえ、多分知りません。
言ったところで、状況が変わるとは思えませんが」
まあ、普通はそう考えるよな。
何せあいつらだもんなー。
「今から話す事は、あくまで僕自身の考え方だから、参考程度に聞き流してくれ」
「はい」
林の奥の方に目を遣りながら、口を開く。
「・・僕はさ、基本的に、どうでも良い奴の事なんか、いちいち考えないんだ。
気にしないし、視界にも入れないし、実害が及ばない限り、放っておく。
だってそうだろう?
図に乗る奴ってのは、こちらが
過去に見聞きした、様々な事件、出来事を思い出しながら、
「もしその相手が、自分がどうしても仲良くなりたい、必要だと思える者ならば、こちらも誠心誠意、思いを伝える。
最大限に歩み寄る。
だけど、居ても居なくても同じような人物なら、時間の無駄だし、無意味でしかない。
人生として与えられた時間は有限だ。
様々な経験を通して成長する人もいるけど、中には経験するだけ無駄な事も沢山ある。
子供の内は、今居る場所こそが、世界の全てなんだと考えてしまいがちだ。
でも大人になって、自らの足で歩けるようになった時、実は世界はこんなに広かったんだと驚かされる。
たとえ今、クラスで誰にも相手にされなくても、次の学校に進めば、社会に出れば、きっと君を必要とする者が出始める。
大切なのは、その時にまで心を閉ざさないこと。
差し伸べてくれる相手の手を、勇気を出して握ること。
今現在辛いなら、その時は逃げても
それこそ学校なんて来なくても良い。
ここが君の全てではない。
未来には、もっと楽しい場所が必ず見つかるはずだから」
スポーツバックから、常備してあるドリンクを出して、一口飲む。
「因みに、もし橘が不登校になっても、勉強くらい、僕が教えてやる。
中学の内容なんて、高が知れてるからな。
陸上だって、放課後の練習なら、不登校になった君が出ても、僕がいる間は誰にも文句を言わせないから」
『君達も飲むか?』
そう聴こうとして、新たな紙コップを用意しながら、(語り出してから)初めて彼女らの方を向くと、2人とも何故か泣いている。
え、何で?
もしかして言い過ぎた?
「・・御免、少し言葉がきつかったかな?」
「先輩、大好きです」
佐藤が変な事を口走る。
「は?」
「・・久住先輩、ありがとうございます。
私、まだ頑張れそうです」
橘が、目を潤ませながら微笑んでくる。
「・・まあ、君達を傷つけたのでなければ、それで良いが。
それからさ、実は僕、去年の定期テストの問題を、全て持ってるんだよね。
テストで良い点取って、そいつらを見返してやろうぜ?
良かったら、昼休みにでも勉強見てやろうか?
教室まで迎えに行くよ」
この後暫くして、橘に対するいじめが
2人は俺のお陰だと言うが、相変わらずよく分らない。
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