第8話

 「もう少し強く押してくれるか?」


部活を退いた後は、剣道の道場に通いながら、相変わらず身体作りに励む俺。


冬に広い校庭を使ってる部はサッカーしかないので、1周200mのグラウンドを何十周も走り込み、最後に柔軟体操をする。


同じく部活を引退した西本も、平日は俺の練習に付き合って、自分のペースで15周ほど走り、柔軟体操は2人で一緒にやる。


日が陰るのがめっきり速くなった冬空に、俺達2人の吐く息が、白く立ち昇っていく。


やり直し以前の俺は、自分の吐く息が口から白く出るのが何となく嫌で、登校の際なんかは、できるだけ呼吸を我慢がまんしていた。


黒歴史の1つである。


「良いの?

痛くない?」


股関節を広げるために、大きく股を開いて座る俺の背中を、彼女に押して貰う。


「大丈夫。

寧ろ痛いくらいの方が良い」


「分った」


グイグイと、両腕を使って押してくれる彼女から、僅かに良い香りが漂ってくる。


走り込んだ後なので、体温の上昇と共に、石鹸か何かの残り香でもするのだろう。


「今度は私にやって」


交替し、俺が彼女の華奢きゃしゃな背中に両手を置く。


『ん?

・・これってもしかして』


ジャージ越しに伝わる、ブラひもの感触にびっくりする。


今の彼女の身長は、155㎝くらいしかないが、胸は結構大きい。


動揺をさとられないようにしながら、丁寧ていねいに背中を押す。


「・・気になる?」


「え、何が?」


「もう直ぐ中学生になるし、お母さんが『そろそろ付けた方が良いよ』って言うから・・。

この間、買って貰ったんだ」


紐に触れないよう、掌押しから指押しにしたのでバレたのか。


女の子って、そういう事には本当に鋭い。


「・・御免。

少し動揺してしまった。

失礼だったよな」


「ううん、別に気にしてないよ。

寧ろ、なんか新鮮だった」


「新鮮?」


「うん。

あなたでも、そういう事を気にするんだなって」


「ハハッ。

確かに僕は、普段から母の下着なんかを干したり畳んだりしてるけど、それは身内だから恥ずかしいと思わないだけだよ」


「私のは恥ずかしいの?」


「ノーコメント」


「フフッ、ほら、もっと強く、掌全体を使って押して」


まさか俺が、こんなラブコメみたいな場面に遭遇するとは思わなかった。


・・ありがとう。



 年が明け、小学校時代最後となる、郡の剣道大会が催される。


郡単位での大会は年に2回あり、初夏の大会でも俺は優勝している。


大会開始前、嫌な奴(例の指導員の1人)が俺に近付いて来て、『選手宣誓をお前がやれ』と言ってくる。


当日にいきなり聞かされ、何の準備もない俺に、当然のようにそう言ってくるのだ。


俺はまだ小学生なんだぞ?


その時間まで、あと10分もない。


だが以前、同じ目に遭っていた俺は、簡単ではあるが、既にそれを考えてある。


そしてこの大会こそが、俺が馬鹿らしくなって剣道をやめた理由でもある。


前回、1回戦で当たった相手が、面で1本を取って直ぐ離れようとした俺を、肘で殴ってきた。


当時、思慮の足りなかった俺はそれに怒って、竹刀で床を叩いたのだ。


そうしたら、先に殴った相手には何のお咎めもないのに、俺だけ審判の2人から怒られ、その内の1人が、『今の1本を取り消しましょう』と言った。


そいつは隣町にある道場の指導者で、今年の鏡開の際に行われた、うちの道場との親善試合で、誰も俺に勝てなかった事を根に持っていた。


人数が多いから、個人戦しかしないはずだったのに、わざわざ『団体戦もやりましょう』とか言って、その道場の№2も当ててきた程だ。


まあ、うちの道場は、俺以外は大して強くなかったので、きっと面白くなかったのだろう。


その後、その相手を怒りに任せて打倒うちたおし、決勝戦で、鏡開の際に負かした、そいつの道場の主将と当たる。


ここでの出来事が、俺にはずっと忘れられなかった。


歳を取っても偶に思い出し、後悔を繰り返していた。


そいつは、公平であるべき審判の1人なのに、試合直前、これ見よがしに自分の教え子の下へ行き、こちらを見ながら、堂々と助言を始めた。


もう1人の審判、俺の道場の指導員(例の嫌な奴とは別)は、それを見ても何も言わない。


・・そんなに、そこまでして俺に勝ちたいのか!?


こんな、高が子供同士の試合で?


俺はこの時、これまでの事もあって、何もかもが馬鹿らしくなり、『棄権します』と告げて、さっさと面を外し、見に来ていた父親と一緒に家に帰ってしまった。


だが後になってから、あいつらの悪意ごと叩き潰してやれば良かったと思うようになる。


何で俺が折れる必要があった?


そう悔やむようになった。


だから今回、やり直しができるこの機会に、その無念を晴らす。


1回戦では、面を打たず、上段からの強烈な小手を打ち込み、痛みで竹刀を落とし、泣きそうになった相手を棄権させる。


本来なら、有段者以外は普通の構えしか許されないのかもしれないが、良くも悪くもいい加減なこの大会では、何処からも文句が出ない。


隣町の審判も、まさか小学生が上段に構えるとは思わなかったのだろう。


有段者向けの道場で、2年間、あちこちに青痣を作りながら頑張った甲斐がある。


今の俺は、2段くらいの相手なら、ほぼ対等に打ち合えるのだ(初段なら圧倒できる)。


2回戦、3回戦、準決勝を数秒で終わらせ、到頭、因縁いんねんの試合が始まる。


愚かな奴は、前回同様、自分の教え子に助言に行く。


俺はそれを冷静に見ながら、奴がこちらに視線を向けた際には微笑んでやる。


何段だか知らないが、俺がこれまで手加減してきた事にすら、気が付かないのかね。


相手の子には悪いが、ここだけは本気を出させて貰う。


俺はもう、これ以後は、剣道の試合に出ない。


だから、どうかそれで許してくれ。


5年生での開始以降、公式試合で無敗の俺の試合を見ようと、大勢の観客が集まる中、決勝戦が始まる。


「はーっ!」


腹の底から唸るような、俺の気合。


相手は、鏡開の親善試合で、俺に2本とも出小手で負けたからか、あるいはあの馬鹿な指導者にそう言われたからか、まるで小手を打ってこいと言わんばかりに、右手をヒクヒク動かす。


大方、俺が小手を打とうとした時、かさず竹刀を持ち上げて、面でも打つつもりなのだろう。


哀れな。


少し遠めの間合いから、相手が再度右手を動かした瞬間に、思い切り小手を打ち据える。


鈍い音がして、うずくまる相手。


「小手有り」


審判2人が小旗を上げながらそう宣言するが、打たれた相手はなかなか立ち上がれない。


暫くして、やっと身を起こして震えながら構えた相手に、俺は心の中で詫びる。


『本当に御免な』


「始め!」


審判の声と共に、俺は跳ぶ。


「メーンホーッ!」


強烈な面打ちと、続く体当たり。


相手が1mほど吹っ飛んで倒れ、その後、ピクリともしない。


「面有り、1本」


こちらが指定位置に戻っても、まだ起き上がらない相手。


どうやら、脳震盪のうしんとうを起こしたようだ。


俺は黙って相手に一礼し、大会終了後にさっさと賞状と盾を受け取ると、五月蠅い中学の勧誘を無視して直ぐに帰宅した。



 家に帰って間も無く、気分転換に風呂に入ろうとしたところで、西本が訪ねて来る。


「少し話さない?」


そう言われて、2人だけで俺の部屋に行く。


学校近くの借家ではない、国道を1つ隔てた場所にある俺の新しい家には、既に何度か、彼女達一家が食事などをしに来ている。


1km以上の道のりを、歩いてここまで来たらしく、少し寒そうな彼女に、暖房を付けながら、温かいミルクティーを用意する。


「試合見たよ?」


部屋に入り、湯気の立つミルクティーを美味しそうに飲みながら、彼女がポツリと口にする。


「気付かなかったよ。

声をかけてくれれば良かったのに」


彼女はこれまで、一度も剣道の試合を見に来た事はなかった。


「あなたが最後の試合だって言ってたから、一度くらいは見ようと思って。

思ったより、人が沢山いた」


「郡の大会だし、学年別で試合をするからね。

各中学の顧問の先生方も、参考に見に来るから」


「・・何かあったの?」


視線をカップに向けながら、西本がそう聴いてくる。


「ん、何で?」


「あなたが、いつもとは別人のように見えたから。

あんなに怖いあなたは、何時いつかのいじめをらしめた時以来。

優しいあなたがあんな風になるくらい、辛い事や嫌な事があったんじゃないの?」


「・・・」


視線を上げ、彼女が俺の目をじっと見てくる。


「責めてる訳じゃないよ?

最後の人は可哀想ではあったけど、武道の試合だもん、ああいう事もあるよね。

ただ、あなたなら手加減くらいはできたと思うの。

それをしなかったという事は、きっと何かあるんだよね?」


「・・西本は、日記をつけてるか?」


「ううん、先生にはそう勧められたけど、自分の気持ちを正直につづるのは、何だか恥ずかしくて」


「あと数年後、そうだな、高校卒業後くらいに、僕が今つけている日記を読ませてやるよ。

毎日はつけていないけど、大事な事は全部そこに書いておく。

それで許してくれないか?」


「その言い方、少し嫌。

まるであなたが、何処か遠くに行ってしまうような言い方じゃない。

うちも新しく建てたんだし、もう引っ越したりしないよね?」


不安げに自分を見てくる彼女に、俺は静かに告げる。


「大丈夫。

もう何処にも引っ越したりしないよ。

死ぬまでずっと君の側に居る。

君が許してくれる限りはね」


「約束だからね。

破ったら、暫く口をきいてあげないんだから。

・・でも、日記を見せてくれるなんて、それってもしかして・・ううん、何でもない」


『遠回しな告白なの?』、そう言いそうになって、あわてて口を噤む。


いては事を為損しそんじる』だ。


「そろそろ送っていくよ。

じきに暗くなる」


「ありがとう。

・・それはそうと、相変わらず、この部屋何もないね」


8畳くらいの部屋に、エアコンを除けば、ベッドと机に椅子、本棚が2つしかない。


座る場所が他にないから、私はいつも、ベッドに腰かけてる。


棚にずらりと並んだ大学用の参考書は、趣味で集めてると言ってたっけ。


「買ってもどうせ直ぐに必要なくなるから。

君の部屋は、さぞかしにぎやかなんだろうね」


「うん。

今度入れてあげるね」



 「ねえ、中学は別々になるけど、お休みの日は、こうして2人で会えるよね?」


西本を家まで送る道すがら、彼女がそんな事を聴いてくる。


探るように、手袋をめた手を繋いでもくる。


「君に予定がなければね。

僕は大体、祝日や日曜は暇だから」


中学でも部活に入るが、土曜はともかく、日曜や祝日まで(自主トレ以外で)練習するつもりはない。


やり直しの目的は、悔いを晴らす意味も大きいが、可能な限り、西本と一緒に過ごすためなのだから。


「私、中学でもソフト部に入るつもりだけど、もし日曜まで練習するならやめようかな。

学生時代を、そればかりで過ごしたくないし・・」


繋いでいる手に、彼女が少し力を入れる。


「学校のレベル次第なんじゃないかな。

大して強くもないのに、ろくな練習もしないのに、時間ばかり拘束するような部活は嫌だよね」


俺が通うことになる中学の野球部が、まさにそれだった。


顧問の教師も凄くいい加減で、指導はおろか、練習を見にも来ない。


それにその中学は、町に2つある中での、所謂落ちこぼれ的存在。


西本が行く中学に比べて、学力も低く、教師の質も劣る。


その中学が唯一、に誇れるのは、陸上が全国レベルであるという事だけだ。


「あなたが同じ中学なら良かったのに。

・・寂しいな」


この時代には、携帯もスマホもない。


他の場所に居ながら、気軽にチャットもできないし、メールも送れない。


親に隠れて、部屋からこっそり電話すらできないのだ。


「そう言って貰えて嬉しいよ。

僕で良ければ、幾らでも頼って欲しい。

本当に、できる限り君の側にいるから」


以前では考えられなかった時間が、温もりが、今の俺を満たす。


幸せだ。


心から、そう思う。

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