11.電話は妻の元へ

 ***


 スナキア邸の一階共用リビング。窓が大きな開放感のある空間。ジルーナのお気に入りの場所だ。


 近頃は足が遠のいていた。共用ということはミオとばったり遭遇なんてこともあるし、顔を合わせれば気まずい空気が流れていた。でももう大丈夫。ジルーナはソファーに深く腰掛け、窓から流れこむ風を感じながら伸びをした。お昼前に家事はあらかた終えたし、今日は特に用事もない。ここからは専業主婦の特権であるのんびりタイムである。


 そのとき、電話が鳴った。


 だがジルーナは気に留めなかった。この固定電話は夫の仕事用。それも無視しても構わないような政府関係者との連絡窓口になっている。基本的には留守電専用。重要なメッセージが来たときのみヴァンから掛け直すというシステムだ。


 ジルーナが使用人だった頃は電話番の仕事もしていた。だが妻となった今はお役御免となっている。別に使用人のフリは今でもできるし、妻を名乗ったとて声がバレるくらいで済むのに、過保護な夫には「出ないでいい」と少し強めに注文されていた。


 放置しているとやがて電話が繋がり、かけてきた相手がふき込んでいるメッセージがリアルタイムでスピーカーから流れる。


『も、もしもし。ヴァン・スナキア様のお宅でしょうか』


 若そうな女性の声。誰だろう。ガチガチに緊張しているようで声が上ずっている。


『ぷ、プラネスというレストランの者でして。シュリルワ・ジルバと申すです」


 ……ラクハ弁。ラクハといえば終末の雨で被害を受けた地域で……先日夫は被害者の遺族と……。これって、まさか?


『あの、先日ヴァン様がウチで、その、色々ありまして……。で、ですがご内密にとのことだったので……。え、えっと、どうしたら……、可能でしたらご本人か……う〜ん、万が一差し支えないのであれば奥様とお話できればと……』


 言葉を選びながら、それでも懸命に何かを伝えようとしていた。恐らく、例の子だ。でもどうして? ジルーナは慌てて受話器を手に取り、通常の通話に切り替える。


「もしもし?」

『へぇ⁉︎ も、もしもし!』


 突然のことに彼女の声は完全にひっくり返っていた。何か落っことしたかのような雑音も聞こえる。随分驚かせてしまったみたいだ。しかし彼女は必死で言葉を続けた。


『あ、あの、失礼ですがどのようなお立場の方です? 内密のお話ですので────』

「妻ですよ」

『ヒッ……⁉︎ そ、そう、ですか……!』


 また度肝を抜いてしまった。まさか本当に妻が出てくるとは思っていなかっただろうし、使用人だと当たりをつけていたのかもしれない。


「どうされました?」

『あ、あのですね、旦那様がその、アレを口に……。その後いかがお過ごしなのかと気になりまして……』

「あっ、その件でしたか!」


 彼はきのこを食べて帰ってきた。どうやら心配してくれたらしい。重要機密であることも把握しているようだし、忠実に秘密を守ってくれてもいる。強烈なアンチと聞いていたが、その気遣いは非常に有難い。


「もうすっかり元気ですよ。申し訳ありません、ご心配をおかけしまして」

『と、とんでもないです! こちらこそ大変申し訳ございませんでした!』


 電話なのに頭を何度も下げている気配を感じた。アレルギーの件は知らなかったのだろうし、ヴァンも言えなかったはず。今回は不慮の事故だ。


『ち、ちなみにこのお電話は携帯からお掛けしているですけど、け、決して旦那様と個人的にご連絡先を交換させていただいた訳ではないです! オルドリッジさんという旦那様のお知り合いの方を頼りまして!』

「……?」


 聞き覚えのない名前だ。まあ夫が番号を伝えているくらいの人なら仕事関係なんだろう。……というか、この子は何をそんなに焦っているんだろうか。


『も、もう二度とご連絡は控えますので! 奥様がお気を悪くされたら本当に申し訳ないです!』

「えぇ? あ、そ、そういうことですか! 全然気にしてませんよ?」


 知らない女から自宅に電話がかかってくる。場合によっては大問題だ。しかしこの件は仕方ない。


『電話番号は覚えてないです! で、でも念のため頭を打ちつけて記憶を飛ばすです!』

「ちょ、ちょっと! やめてくださいね! 本当に気にしてませんから!」


 パニック気味の彼女をどうにか宥め、早く解放してあげようという気持ちでさっさと話を切り上げた。


 ジルーナは受話器を置いてホッと一息。……なんだかこちらも釣られて緊張してしまった。


「……どうしたのぉ?」

「!」


 気づけば背後にミオが立っていた。背中で手を組み、不思議そうに首を傾げている。


「電話出ちゃったのぉ? ヴァンさんまたキーキー騒ぐんじゃない?」

「そうなんだけどさ、ちょっと気になって。例の子からだったから」

「え……⁉︎」


 途端にミオが表情を曇らせた。


「ぐ、グイグイ来てる感じぃ……?」

「ううん、全然。むしろ逆かも。よその女が電話なんかしちゃってごめんなさいって感じがひしひしと……」


 ちょっと気の毒になるくらい気を遣ってくれていた。全力で妻を立てようとしてくれる姿勢はむしろ好感を抱いた。本当に頭をぶつけたりしていないといいのだが。


「ヴァンさん全然脈なしなのねぇ……。そ、それはそれで複雑じゃない? ウチの夫あんなに可愛いのにぃ」

「も、もう何言ってんの。あの子どうすりゃいいのさ」


 ミオの狼狽っぷりはなかなかの域に達していた。むしろ彼女からの電話は潔白の証明に等しかったというのに。ヴァンは彼女と連絡先も交換していなかったのだから。


「それで用件はぁ?」

「きのこの件だって。心配してくれたみたい。ちゃんと肝心な部分は隠してくれてたよ」

「あら賢い子。盗聴とか聴覚強化の魔法とかあるからねぇ。……あ、でも一応細かい文言まで教えてくれない?」

「えっと、最初の方は録音できてるかも」


 日頃は冷静で頭の回るお姉さんである。ヴァンの弱点が露呈する危険性がないかチェックしてもらおう。ミオは電話を操作して録音を再生した。しかしジルーナが受話器を取った以降の記録は残っておらず、彼女が名前と勤務先を口にしたくだりと、「内密だから」と言い淀んでいる部分しか聞けなかった。


「ここまでは問題なさそうだけどぉ……」

「多分、この先も平気だったと思うよ。きのこって言葉は出てきてないしさ」


 ミオはそれならまあと小さく頷いた。必死で読み解こうとしてもヴァンには食べられない物があるという情報までで止まる。しかしミオの表情は依然として険しい。まだ何かを考え込んでいるようだった。


「ラクハのプラネスってお店の子なのねぇ……」


 彼女はそう呟いたあと、壁掛け時計に視線を送った。


「ちょっと遅いランチってとこかしら」

「……え?」


 まさか、行くつもり? 今から?


「み、見に行くだけ! ジルも行かない? 別に文句言うわけじゃないしぃ、ご迷惑はかけないようにするからぁ」

「見てどうするのさ? まだ何ともない人だよ?」

「これからあるかもしれないじゃない……」


 ミオは神妙な面持ちで落ち着きなく部屋の中を歩き回る。彼女がこんなに取り乱す姿を初めて見た。確かにジルーナだってヴァンがミオと接近したときは困惑したり泣いたりもした。でもシュリルワという子は明確にヴァンとの間に線を引いている。


 大体、ラクハまではこの家から九十分ほどかかる。「ちょっと見るだけ」なんて理由で気軽に訪ねられる距離ではない。夫に送り迎えを頼むのも無理だ。彼は何もズルいことはしていないのにまるで浮気を疑っているみたいだ。


「……ミオ、やめとこ?」

「じ、ジルが嫌なら一人でも行く……」


 理屈に合わない無茶をしている自覚はあるらしく、眉根を寄せて自分でも自分の行動を不審がっていた。怯えた子猫のような目でチラチラとジルーナの顔色を窺い、どうか見逃してと訴えかけている。


「もう……」


 仕方ない。気がすむまで付き添うか。

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