8.責任
***
────シュリルワ・ジルバは、人生最大のピンチに陥っていた。
あのヴァン・スナキアが倒れた。しかも、知らなかったとはいえ自分の料理のせいだ。とても放っておける様子ではなかったし、見捨てるのは道義に反する。一刻も早く彼を匿った家に帰らなければならない。行ったところで何ができると言われればそれまでだが、とにかく一人にしておくわけにはいかない。
しかしこの窮地を誰にも悟られてはならない。彼は個室を出たあとまるで何事もなかったかのような爽やかな表情を作って退店した。他の客に怪しまれないように必死の小芝居をしたのだ。こちらもそれに合わせねばなるまい。
シュリルワはひとまず個室のテーブルを片付け、フロアに舞い戻る。一応既に閉店時間は過ぎているのだが、まだ残った酒を飲んでいる酔っぱらいが数名居座っている。お願いだから早く帰ってほしい……!
「シュリちゃん、何の話したの?」
店長のミゲルが呑気に問いかけてきた。シュリルワはできるかぎり平静を装って返答する。
「まあ色々とです。戦争の話とか聞かせてやったです。……案外まともな奴だったです」
初対面では盛大に罵ってしまった。だが、実際話してみると随分ときちんとした男だった。スナキア家当主の責任をしっかり受け止めて国民のために戦っていた。
それだけに不思議だ。ビースティアとの結婚などという無茶をするような人間には思えなかった。何か言い淀んでいるような空気も感じた。 シュリルワが考え込んでいると。ミゲルは含み笑いと共に揶揄うような相槌を打つ。
「……ふ〜ん?」
「な、何です? 何か言いたいことあるです?」
「ヴァン様、シュリちゃんを口説きに来たんじゃないかな〜って思ったんだけどなぁ。どうやらシュリちゃん的にも好印象のご様子だし」
「はぁ⁉︎」
唐突に何を言う。……というか、今それどころじゃないのですが。
「だってあの人はビースティアが大好きで、シュリちゃんはビースティア一の美女じゃないか」
「お、親の欲目も大概にしろです。ないですないです。あいつ妻帯者ですよ」
「でもあの人何人でも結婚できるからねぇ」
「……はっ!」
そういえばそうか。確か今も妻が二人いるはずだ。……訳が分からない。やっぱり変態なんだろうか?
まあ、そんなことはどうでもいい。今はとにかくこの場をさっさと立ち去ることだ。シュリルワはもう直球でおねだりしてみることにした。
「ねえミゲル、シュリ先に上がっていいです?」
「ヴァン様と待ち合わせでもしたのかい?」
「ち、違うです!」
当たらずとも遠からずだろうか。妙に鋭い。
「今日のうちにやっておきたいことがあるです。未だにお家整頓できてないですし」
シュリルワはミゲルに通じそうなそれっぽい嘘をつく。つい一ヶ月ほど前までシュリルワは里親であるミゲルの家に住んでおり、ヴァンを誘ったアパートにはまだ引っ越したばかりだ。何事もきちんとするのが好きなシュリルワは、実際には二日目までに荷解きは済ませている。
「……一人暮らしはどう? 寂しかったらいつでも帰ってきていいからね」
ミゲルは心底心配そうに尋ねる。シュリルワが家を出る決断をしたのは、ミゲルが結婚し子供が生まれたことがきっかけだった。明言はしていなくてもミゲルはきっとそれを察している。まるで追い出してしまったかのように感じているらしい。
「シュリはお年頃なんだから自分の部屋くらい欲しいです。どうせ店で毎日会うですし」
「……そうかい」
シュリルワとしては今の説明も本心だった。育ての親にはそれが伝わるらしく、ミゲルは少しホッとしたように微笑んだ。
「片付けとか諸々明日の朝でいいです? ちょっと早く来るです」
「シュリちゃん明日休みだよ。楽しみにしてたじゃないか。美術館に行くとか」
「あ、そ、そうでした」
「気にしないでいいからゆっくりしてきなさい。おやすみ」
首尾よく抜け出せることになり、シュリルワは胸を撫で下ろす。パッと着替えを済ませ、未だ居残る酔っ払いたちの声かけを振り切り、店を出て店内から見えない位置で立ち止まる。
ヴァン・スナキアは無事だろうか。……ただでさえ不安だったのに、ミゲルが余計なことを言ったせいでより緊張してきた。
(しゅ、シュリ……男連れ込んじゃったです……!)
熱くなった顔を手で覆う。咄嗟の判断だったとはいえ、困った状況を作ってしまった。────ビースティアフェチと名高い男を家に招き入れてしまったのである。一応妻帯者ではあるものの、ある意味女遊びし放題の立場にある危険な存在だ。
「ま、まあ、でも具合悪そうでしたし……」
心を整理するように独りごちる。生きるか死ぬかの状態のはずだ。悪さしてくるはずがない。こんな心配をしていること自体失礼だし、早く助けてあげなければ。
……でも全部演技だったらどうしよう。退店する時のあまりに自然な振る舞いが忘れられない。本当は元気なんじゃなかろうか。
「な、何かしてきたらすぐ警察に……、あ、警察じゃ勝てないです! ていうか世界の誰も止められんです……! なんたる厄介な!」
シュリルワ・ジルバは、人生最大のピンチに陥っていた。どうしてこんなことしてしまったのか。でも仕方がなかった。嫌いや奴とはいえ、あんなに弱った姿を見せられて手を差し伸べないなんて鬼の所業だ。
シュリルワは恐る恐る家路につく。通勤を考慮して店のすぐ近くに引っ越してしまったのが仇となる。心の準備なんて全くできない。三十秒後にはアパートのエレベーターに乗り込み、処刑台を登るかのような恐怖に襲われた。
目当ての階に着き、そろそろと自宅へ歩んでいく。ああ、帰るだけなのにどうしてこんなに緊張しなくちゃいけないんだろう。
「……ん?」
意を決してドアノブに手を伸ばそうとしたとき、────ドアの下に小さな紙が挟まっているのを見つけた。シュリルワは戸惑いながらも拾い上げ、二つ折りのそれを開いた。
「手紙……ですね」
ヨレヨレの字。名前はない。だが、ヴァン・スナキアが残したものとしか考えられない。
『今日は貴重なお話をありがとう。体調を気遣ってくれたこともありがとう。だが、俺は妻がいる身だし、君にこれ以上迷惑をかけるわけにもいかない。鍵は植木鉢の下に隠しておいた』
……どうやら、家には入らなかったらしい。意外にちゃんとした男だ。確認すると鍵は無事だった。田舎ゆえに玄関の鍵を開けっぱなしにするご家庭も多い地域である。防犯上の心配は皆無だ。
『俺のことは気にしないでくれ。味は本当に美味しかった。つい食べてしまったんだ。責任は感じないでほしい』
以上。
────本当に身体は大丈夫なんだろうか。あんなにフラフラだったのに。しかもその状態でわざわざ手紙を書いて家に寄ったのだ。どこかで紙とペンまで手に入れて。
気が抜けたシュリルワはよろよろと室内に入り、荷物をソファーの上に乱暴に投げ捨てた。そしてそのままベッドにうつ伏せで倒れ込み、そっとつぶやく。
「『責任』って……」
それは彼と話し合っている中で、ずっと心に引っかかっていた言葉だった。
「……変な奴です」
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