⑷命の責任
「貴方に頼みがある」
頭の上で湊が鼻を啜った。侑はシャツの袖で顔を
「SLCの薬の効果を緩和する薬を作ってる。……結果はすぐに現れないし、副作用が全く無いとは言い切れない」
そういえば、そうだった。
この子供は医者の息子で、脳科学の研究者で、ブラックの効果を緩和する薬を開発していた。臨床試験が出来ていないとか言っていたような気がする。
「貴方に、受けて欲しい」
侑は、弟と共にSLCの人体実験を受けた。つまり、侑もまた、将来的に脳が破壊され、殺戮人形となる可能性があるのだ。破壊された脳は元に戻らない。症状が現れたら手遅れになる。けれど、侑にはそれを受け入れるだけの理由が、見付けられなかった。
「……残念だが、俺にその資格は無ェよ」
侑が言うと、湊が顔を歪めた。
その提案を受け入れることは、難しかった。弟が受けられなかった治療を、弟を守れなかった自分が受ける。そして、もしもの時、責任を負うのはこの子だ。それは侑の望む未来では無かった。
けれど、湊が言った。
「貴方の為じゃない。俺の為なんだ」
湊は泣きそうな顔で笑った。
「もう誰も死なせたくないだけだ」
誰にも死んで欲しくない。
彼は、ずっとそう言っていた。
善悪や正誤ではなく、彼自身のエゴとして。
湊は内緒話を打ち明けるみたいに、声を潜めた。
「実はね、個人投資家をしてるんだ。エンジェル・リードって名義で」
「何だそりゃ。何に投資してんだ?」
「若い芸術家さ」
侑は、唇を噛み締めた。
芸術分野の個人投資家。まさか、それは。
「エンジェル・リードが軌道に乗れば、社会的地位を確立出来る。……いつかノワールが役目を終えた時、迷子にならずに済むように」
「……なんで、そんなに」
個人投資家なんて、相当な資金が必要だ。この子が多才なことは知っているが、芸術分野に目が利くとは聞いたことが無い。
湊は肩を竦めて、柔らかく微笑んだ。
「ノワールと一緒に海を渡って、美しいものを探して、何でもない毎日を積み重ねていく。それが、俺の夢だった」
それは彼の才能に見合わない、あまりにも
フィクサーの卵、医者の息子、脳科学の研究者、個人投資家。肩書きが多過ぎて、何処を目指しているのか分からない。けれど、その無軌道さこそが、彼の尽くした最善だったのだ。――弟を、救う為に。
この子に出来て、俺に出来なかったこと。
湊と航に出来て、侑と新に出来なかったこと。
それは、きっと単純なことだった。彼等は誰かの幸せを願う時に、自分の幸せを踏み台にしなかった。自分のことも勘定に入れて、少しでも明るい未来を目指して足掻いている。例え、現状が身動き一つ出来ない泥沼であっても、いつか太陽の下で笑い合えるように、ずっと手を繋いでいた。
俺は、弟を遠去けることしか出来なかった。
侑が俯いた時、湊の手が伸びて、肩を掴んだ。
「俺の夢を一緒に叶えてくれよ」
湊は、絞り出すような声で言った。
「どうか、生きていてくれ……」
ああ、これは、きっと。
小さな手が縋るように肩を掴む。
これは、叶わなかった夢の
弟の願い、この子の祈り。
背中に伸し掛かる命の責任。俺もこの子も、救われたくて、救いたくて、たった一人で闇の中を足掻き、他人を諦めながら、それでも手を伸ばさずにはいられなかった。
兄貴、と。
何処かで弟が、呼んだ気がした。
侑は、笑った。
「……良いぜ、蜂谷湊。契約しようじゃねぇか」
侑が笑うと、湊は眉を寄せた。
「それは、違う」
湊は、凛と背筋を伸ばした。
「契約じゃない。これは、俺と貴方の約束なんだ」
そう言って、湊は右手を差し出した。
「友達になろうよ、侑」
湊は、天使のように微笑んでいた。
いきなり呼び捨てにされたので面食らったが、思えば彼はニューヨーク出身だった。侑は苦笑して、その手を取った。
夜明けを探して、ずっと夜の中を走っていた。だけど、もしかしたら、夜明けは、いつの間にかやって来ていたのかも知れない。
20.泥中に咲く
⑷命の責任
頭の半分は温い泥のような無意識の中にあった。
不意に、柔らかな闇の中に金色の朝陽が差し込む。群青の
もう少し眠ろう。意識は深く
何度も
「……起きたかい?」
目を開けると、其処は夕焼けの中だった。
頭の奥にはまだ睡魔がこびり付いていて、関節は錆び付いたようで体が怠かった。声の方向を向こうとして、脇腹が酷く痛んだ。
最後の記憶を辿る。
俺はあの高層ビルで望月を殺して、けれど、撃たれてしまって、湊が。
「――湊?!」
翔太が
「まだ動かない方が良いよ」
翔太は目を向けた。茜色に染まるベッドの横、スーツを着た若い男が座っていた。翔太はその男を、知っていた。
警察庁情報課、
翔太は、自分の腕に点滴液が繋がれていることに気付いた。透明な薬剤が等間隔に落下し、側には心電計が設置されている。消毒液の臭いが鼻を突き、自分が何処かの病院にいることを察した。
俺は、助かったのか?
どうやって? いや、それよりも。
「……湊は?」
自分が意識を失くす前、湊が泣いていた。
置いて行かないでと泣くあの子を、翔太は突き放すことしか出来なかった。置いて行かれる苦しみも、孤独も知っていたはずなのに。
羽柴は苦く笑った。
「生きてるよ。湊くんも、航くんも、ハヤブサも、ペリドットもね」
胸の中で
「他人のことより、自分の心配をした方が良い。君は拳銃で撃たれて、出血多量で運ばれて来たんだ。何度も生死の境を
知らぬ間に、大変なことになっていたらしい。
翔太には、それがまるで他人事のように感じられた。撃たれた痛みも、意識を手放す瞬間も覚えている。けれど、それは夢の中みたいに現実感が無かった。
「此処は何処なんだ?」
「都内の病院だよ。君の身柄は公安で預かっている」
「……俺、逮捕されたの?」
翔太が訊ねると、羽柴は難しい顔をした。
今の自分はどんな立場にあるのだろう。湊や立花に迷惑は掛けていないだろうか。また、会えるのか。
羽柴は肩を落とした。
「君には、逮捕されるべき罪状が無い」
翔太は、拳を握った。
羽柴の言葉は、喜ばしい報せではなかった。逮捕されるべき罪状が無い。それはどういうことか。
「俺は、望月さんを殺したよ」
「……彼は、テロリストだ。向こうも武器を持っていた」
翔太はあの高層ビルで、望月を撃ち殺した。動機も、明確な殺意も持っていた。それでも、司法は自分を裁けない。では、自分が背負うべき十字架は何処へ行ってしまうのだろう。消えて無くなってしまうのか。
妹を殺した罪は、望月を撃った罪は、一体何処へ行ってしまうのだろう。彼等の命の責任は何処にある。
「妹を殺したのも、俺なんだ」
「……」
「俺は裁かれないといけないんだよ……」
翔太は目を伏せた。
この世には救う価値の無いゴミみたいな人間がいる。命でしか責任を取れないような残酷な事件も起こる。その時に、司法が裁けないと言うのなら、一体誰が責任を取るのか。
「君は、勘違いをしている」
頭の上で、羽柴が言った。翔太が目を上げると、羽柴は薄闇に包まれる病室で、まるで夕陽の残光のような鋭い眼差しをしていた。
「法とは秩序を守る為のルールで、復讐の道具ではない」
羽柴の言葉が、父の声に重なって聞こえた。
沈んで行く夕陽に照らされ、世界の輪郭がぼやけて行く。翔太は其処に、今は亡き父の遺志を見た気がした。
「望月さんは、それを見誤った。彼が憎むべきだったのは、法でも社会でもなく、現代の教育であり、医療だった。……そして、それは破壊するのではなく、積み上げていかなければならなかったんだ」
羽柴の言うことは、難しい。
長い昏睡状態から目覚めたばかりの翔太には、理解に時間が掛かった。
「彼は悲劇を前例として、同じ
この言葉を、知っている。
あれは、翔太が立花の事務所に来てから、二度目の依頼だった。高速道路の玉突き事故で、危険運転により家族を失った
コネクションで罪から逃れようとする加害者に対して、彼は署名活動を起こしたのだ。
――僕は、罪には罰が下るべきだと思う。遺族の悲しみを
彼は、演説の最中に立花によって暗殺された。家族を奪われ、深い絶望の中から立ち上がり、最期はたった一発の銃弾で幕を下ろした。
けれど、その意思を継ぐ人々がいた。
古海の遺した意思を継ぎ、加害者を裁判まで追い詰め、ついには有罪判決を勝ち取った。
組織の腐敗を取り除こうとした女性もいた。
彼女は汚職の証拠を掴みながら、志半ばで命を奪われた。それでも、彼女の遺した意思は無駄にはならなかった。
自分の悲劇を前例にして、より良い未来を積み上げて行く。それは言葉にするよりずっと難しく、苦しい
彼等を見ている時、翔太はいつも苦しくて、辛くて、どうしようもなく、眩しかった。けれど、針の山を裸足で駆けて行く彼等の背中に教えられたことがある。
立ち上がり続けることに意味がある。
人は誰しも道を誤る。大衆は、ドブに転がり落ちた野良犬に石を投げ付ける。けれど、それでも立ち上がるしかないのだ。
少しでもマシな未来を作っていく為に。
「生前、君のお父さんに訊いたことがある。正義とは何かと」
「……」
「神谷先輩は、それは信じる心だと言っていた。……人は醜く弱い生き物だ。けれど、立ち上がる強さも持っている。俺たちはそれを信じて行くしかない、と」
両目が熱い。翔太は拳を握った。
あ、と思った時には、透明な雫が零れ落ちていた。手の甲を伝った雫は音も無くベッドに染み込み、薄闇の中に溶けて行った。
「君のことを話していた。……素直で実直な子だと。他人の痛みを自分のことのように苦しみ、その幸せを願い、誰かを守る為に体を張れる子だと言っていた。俺も、そう思う」
「……」
「君はたくさんの人に生かされている。それを忘れちゃいけない」
病室の中は湿っぽい静寂に包まれていた。
生死そのものに意味は無い。立花や湊が言っていた。けれど、翔太にはそう思えなかった。先人の生きた証が、遺した意志が、どれだけ心強く、温かいか。
羽柴が言った。
「この国は未熟だ。アメリカのような証人保護プログラムも無い」
証人保護プログラム――湊が言っていた。
証言者を報復措置から守る為の制度。
羽柴は眉間に皺を寄せた。
「……最初にも言ったが、君には裁かれるべき罪状が無い。君の身柄を俺たちは守ることが出来ない」
逮捕もされないが、保護もされないということだ。
つまり、翔太はこの社会では刑法上は一般市民と同じであり、繋がりを持たない自分は透明人間なのだ。
「君の選ぶ道を、俺たちは信じることしか出来ない」
翔太は、笑った。
そんなの、今更だった。家族を亡くし、記憶を失い、透明人間になって街を
「アンタに会えて、良かったよ」
翔太が言うと、羽柴は力無く笑った。
この人は、本当に父を
俺たちは、生きて行くしかないんだ。
憎しみも恨みも、悲しみも罪も背負って、前を向いて生きて行く。例え、それが
羽柴はゆっくりと立ち上がった。
パイプ椅子が
扉が開かれる。羽柴は最後に振り返った。
「また会おう、神谷翔太くん」
扉が閉じる。
翔太はベッドに倒れ込み、天井を眺めた。
やるべきことは、やった。無限に広がる選択肢は、まるで夜の闇のように静かで、暖かかった。そして、瞼を下ろした時に浮かぶのは、家族の肖像ではなく、金色の目をした殺し屋と、天使のような少年の笑顔だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます