⑶小さな奇跡

 耳鳴りがする。


 世界から急速に色が失われて行くような、どうしようもない虚無感が体を包み込む。灼熱の太陽の下にいながら、鳥肌が立ちそうな寒気がして、凡ゆる音が何処か遠くに吸い込まれて行く。


 立花がその病院に着いたのは、日が傾いた夕刻だった。墓を掘った泥だらけの姿で、汗もぬぐわず病院に足を踏み入れた。入院患者や看護師が電柱のように突っ立っている。警備員が池のこいみたいに口を開閉させているけれど、立花には何も聞き取れなかった。


 エレベータを待つ時間が惜しかった。何かに駆り立てられるように立花は階段を登った。酷く息が切れていた。近江の家を出てから、ずっと息をしていない気がする。


 翔太の病室の前には、警察官が二人立っていた。立花が押し通ろうとすると何かを言って行手をはばんだので、した。

 鍵は掛かっていなかった。立花が開け放つと、茜色の光が辺り一面を染め上げた。


 心電図の音、せみの声、カーテンレールの金具が鳴る。遮光カーテンに透ける夕陽、茜色に染まるベッド。ペリドットが退屈そうに壁に寄り掛かり、湊は両目を真ん丸にしていた。その手には携帯電話が握られていて、翔太はずっと眠っていた。


 金属音に似た不協和音が耳元で聞こえる。臓腑ぞうふの奥から形容し難い嫌悪感が湧き出して、立花は泥塗れの足で病室に押し入った。


 染み一つ無いベッドシーツ、幾つものくだ、固く閉ざされた目は開かれない。湊が、航が何かを言っている。ペリドットは黙って眺めている。立花はベッドの側まで歩み寄り、目覚めない翔太を見下ろした。


 どうせ、この世は等価交換。

 何かを得る為には、何かを捨てなければならない。

 それなら、俺の手から零れ落ちたものは、代わりに何を残してくれるんだ?


 奪い奪われ、塵芥ちりあくたのように死んで行く。そういう生き方を選んだし、其処には意味も価値もいらなかった。世界という大きな川の流れに身を任せて、音も無く沈む流木のように、ただ無意味に、虚無に消えて行く。


 ――それなのに、こいつ等が!!


 俺の世界に勝手に割り込んで来て、当然みたいな顔で居座って、線香花火のようなささやかな光を灯すから。




「ふざけんじゃねぇぞ、翔太!!」




 立花は意識の無い翔太の胸倉を引っ掴み、いつかのように怒鳴った。繋がれた管が音を立てて千切れ、呼吸器が外れて警報が鳴る。

 シーツは泥塗れになり、皮膚に突き刺さった針が抜けて血液が散った。医師や看護師、警備員が駆けて来る。湊が縋るように腕を掴む。


 記憶が濁流のように押し寄せる。


 両親の白い目、振り上げられる拳。

 子供のすすり泣く声、大人たちの歪んだ笑み。

 冷たくなった死体、血溜まり、頭蓋骨の割れる音。


 最速のヒットマン、ハヤブサ。裏社会の抑止力。立花にはその存在の意味が分からなかったし、価値も見出せなかった。弱者は自然と淘汰とうたされる。有象無象は勝手に死ねばいい。富も名誉も興味は無かった。俺はただ。


 立花は奥歯を噛み締めた。


 布団の中で冷たくなっていた師匠、墓石のない墓。

 誰もいない古屋ふるや、灯されることの無い囲炉裏いろり

 風化していくだろう畑、色褪せる世界。


 近江が、何度も訊いた。何度も、何度も。


 俺はただ、が欲しかったんだ。

 金でも仕事でも女でも信念でも、何でも良い。これが大切だと言えるたった一つの何かが。




「帰り道くらい覚えとけよ、クソ野郎!!」




 立花の怒号が響き渡った、その時だった。

 それはまるで、蕾が花開くように、さなぎが羽化を迎えるように。睫毛の先が微かに揺れて、顔面の皮膚が僅かに隆起りゅうきする。




「みなと……?」




 目の前にいる、俺じゃねぇのかよ。

 立花は盛大に舌を打った。瞼がゆっくりと開かれる。茫洋ぼうようとした瞳が天井を眺め、そして、焦点を結ぶ。――翔太は、立花を見付けると少しだけ笑った。




「ただいま」




 その瞬間、胸の中で何かが溶け落ちた気がした。

 世界が鮮やかに彩られ、深い森の奥みたいに酸素が満ちて行く。もう、息は苦しくなかった。













 20.泥中に咲く

 ⑶小さな奇跡












 この世は人知の及ばぬ乱数に支配されていて、時々、科学では証明出来ない事象が起こる。そういうものを人は奇跡と呼ぶらしい。


 ペリドット――天神侑てんじん たすくは、夕焼けの中にいた。

 目覚めない神谷翔太と、がらみたいな蜂谷湊。永遠にも思える静寂の中、金色の瞳をした男が現れる。御伽噺おとぎばなしに出て来るような天使でもなく、英雄譚えいゆうたんで語られるようなヒーローでもなく、それは泥だらけの死神しにがみだった。


 いけ好かない男だった。

 復讐は不毛だの、裏社会の抑止力だの偉そうなことを言いながら、この男の目はいつも伽藍堂で、何も見てはいなかった。理由も信念も無く人を殺し、ハヤブサという名前だけで畏怖される。


 俺とこいつは、何が違うんだ。何が違ったんだ。

 きっと、違いなんてものは無かった。俺もこいつも薄汚い殺人鬼で、ただの人だった。こいつの手には偶々たまたまそれが残っただけで、俺の手には残らなかった。結果に文句を言った所で何も変わりはしないし、意味も無い。


 病室は兎に角、酷い有様だった。

 何処で何をしていたのか知らないが、ハヤブサは泥だらけで、病室は血塗れ。医師と看護師が押し掛けて、クソガキ二人は泣いている。番犬は人形みたいに寝そべって、泣いて縋るガキ共に微笑んでいた。


 病室を追い出され、一同は途方に暮れた。けれど、悲壮感は無い。彼等は確かに希望という狂気の光を掴んでいて、帰るべき場所が残されている。そして、侑だけが夜の闇の中に取り残されていた。


 湿っぽい雰囲気は嫌いだった。

 侑はその場を去ろうときびすを返した。身の振り方を考えなければいけないし、やるべきことも残っている。そうして背中を向けた時、立花が呼んだ。




「お前、これからどうするんだ」




 半身で振り向けば、その金色の瞳には見たことのない柔らかな光が宿っていた。侑は自嘲した。




「さあな。先のことは分からねぇが、……取り敢えず、弟の遺品整理でもするよ」




 侑が言うと、立花は目を伏せた。そして、側に立っていた湊を呼び付け、何かを囁いた。

 湊は訓練の行き届いた犬みたいに返事をして、ボールを拾って来た子犬のように駆けて来る。




「うちのぎょくを貸してやるよ。……遺品整理ってのは、一人でやるもんじゃねぇらしいからな」




 侑は、湊を見下ろした。

 虫も殺さぬ天使のような容貌をして、悪魔のように計算高い子供。海の向こうからやって来たイレギュラーは、春の日溜りのように温かく微笑んだ。


 立花が言った。




「傷一つ付けるなよ」

「はは、よく言うぜ」




 何処のお姫様だよ――と言い掛けて、気付く。

 そういえば、界隈では姫と呼ばれていた。立花は何処かから依頼を受けてこいつを預かっていたのだ。成る程、それは確かに姫である。


 しかし、実際は少年で、しかも海外の犯罪組織と渡り合う程度にはいかれていて、何度、打ちのめされても立ち上がるくらいタフな子供だった。


 侑は湊を連れ、歩き出した。途中、公安の羽柴はしばと擦れ違ったが、互いに声は掛けなかった。


 駐車場には赤いポルシェが停まっていた。

 別に車にこだわりなんてものは無かったが、金の使い道が無かったのだ。恵まれない子供に寄付してやる程、侑はこの世に期待していなかったし、貯金に愉悦を感じる程、堅実にも生きていなかった。


 湊を助手席に乗せ、侑は弟の家に向かった。真っ赤なスポーツカーは何処を走っても注目を浴びる。そうして走っている時だけ、自分がこの世に生きていることを実感出来た。


 侑の弟――あらたが暮らしていたのは、閑静な住宅街の片隅にある寂れたアパートだった。今時珍しく風呂もトイレも共用で、日当たりが悪く、まるで墓場のような印象を受ける。


 一階の奥が、新の部屋だった。侑は一歩を踏み出す度に、まるで心の柔らかい所を掻き混ぜられているかのような感覚に陥った。こけの生えた渡り廊下、赤く錆びた鉄柱。新は、どんな気持ちで。




「其処に、お墓があるだろう?」




 湊が、言った。

 薄い扉の前で、湊は湿った裏庭の隅を指差した。土の上には縦長の石が立てられていた。しなびた花がそなえられている。




「金魚のお墓なんだ。一緒に金魚すくいして、お風呂で飼ってた」




 風呂場で金魚を飼うという発想が、侑にはよく分からなかった。




「お祭りの金魚は、長生きしないらしいね。……ノワールがお墓を建ててくれたんだよ」




 そう言って、湊は扉を開けた。

 胸の中に空いた穴に、風が吹き抜けるようだった。部屋の中は湿気に包まれ、蒸し暑かった。狭い畳敷たたみじきの部屋に小さな台所。生活感は無く、物も少なかった。

 畳とシンナーのような臭いが混ざって、まるで古い車庫のようだった。駱駝色らくだいろの砂壁に窓が一つ。白いレースのカーテンがぶら下がっている。


 布団が一組、台所には白い皿が二枚。調理器具の類は殆ど無く、後は侑には分からない画材が幾つかあるだけだった。湊はとても穏やかな顔をして、部屋の中にある全てを丁寧に運び出し、部屋に並べた。


 恨み言も叱責も、甘んじて受けるつもりだった。

 新が死んだ時、侑は泣きじゃくる湊を責めた。湊は一言も言い返さなかった。立花が止めなければ、侑は湊を殺していたと思う。


 けれど、湊は何も言わなかった。使い込まれた絵筆を撫で、イーゼルを畳み、真っ新なカンバスを重ねた。伏せられた横顔は、美しかった。長い睫毛の下、濃褐色の瞳は水面みなものように透き通る。




「弟の話を聞かせてくれ」




 侑は湊の前に、正座した。

 子供のような体軀たいくは、座ってもなお、身長差があった。目の前にいる子供は、自分以上に弟のことを知っていた。


 この冷たい世界にたった一人放り出された可哀想な俺の弟。唯一の肉親。俺が守らなければならなかった大切な家族。


 湊は小首を傾げ、顎に指を添えた。其処からどんな醜い罵倒が飛び出しても、侑は受け止めるつもりだった。


 弟の為に泣いてくれた、たった一人の他人。

 侑が覚悟して目を伏せた時、湊が言った。




「ショートケーキをよく食べていたよ」

「……はあ?」




 ぽかんと、間が抜ける。

 侑が顔を上げると、湊は世間話でもするかのように、穏やかに言った。




「駅前のカフェで、よくショートケーキを食べてた。甘いものは好きじゃないって、言ってたのにね」

「……」

「でも、苺はいつも俺にくれた。苺は特別なんだって言ってたよ。ご褒美なんだって」




 空気の塊が喉に詰まったみたいだった。

 手足の先から壊死して行くような悲しみが、じわじわと胸を締め付ける。


 ショートケーキの苺はご褒美。――俺が、言った。


 湊は困ったように少しだけ眉を寄せて、泣きそうに笑った。




「ノワールに……いや、あらたか。無理にでも、新に食べさせてやれば良かったな」




 侑は膝の上で拳を握り、唇を噛み締めた。そうしていないと、体の内側で燃え盛る後悔と絶望が、何もかもを焼き尽くしてしまいそうだった。


 澄んだボーイソプラノだけが、雨のように部屋の中を包み込んで行く。




「家ではいつも絵を描いていたよ。繁華街に青いグラデーションが掛かって、海の底に沈んだアトランティスみたいで綺麗だった。……俺はその絵が完成するのが楽しみで、だけど、ずっと完成しなくても良いと思ってたんだ」




 弟の絵は、先代ハヤブサの家の納屋で見た。

 青いグラデーションの街、冬の夕焼け、それから、湊の寝顔。


 テメェの弟が何を願い、何を感じ、何の為に生きたのか、ちゃんと見てやれ。

 立花が、言っていた。


 芸術なんてものは分からなかった。ただ一つ分かるのは、弟がこの子供のことをとても、とても大切にしていたということだけだった。そして、弟がこの子を大切にしたように、湊もまた、新を大事にしてくれたのだろう。


 弟の遺品に、ドッグタグがあった。

 湊が誕生日に贈ったのだと言う。


 “You light up my life.”

 貴方は私の人生に光を齎してくれた。


 弟から湊への最期のメッセージ。




「いつも自分を責めていたよ。本当は誰かと一緒にいたいのに、そんな自分を許せないみたいだった」




 でも、優しかったよ。

 湊は、そう言った。濃褐色の瞳が深淵のように覗き込んで来る。侑は拳を握ったまま、見詰め返した。湊の瞳には灯火のような光が宿っている。




「自慢の兄貴だって、言っていたよ。自分を守ってくれたって、何度も言ってた。貴方を責めたことなんて、一度も無かったよ」




 くう、と喉が鳴る。握り締めた拳が震えた。

 湊はやや躊躇ためらって、何かを呑み込むように目を伏せた。




「ノワールと一緒なら、地獄でも良かったんだ……」




 駄目だ、と思った。

 灼熱が眼窩がんかから込み上げて来て、それはこらえる間も無く零れ落ちた。


 ――兄ちゃん。


 遠い昔に聞いた弟の声が、鮮やかに蘇る。親父に殴られて、殺されそうになって、俺はいつも守り切れなくて。

 それでも、お前は俺を待っていてくれた。幼かった俺の弟、小さかったてのひら。俺はお前を置いて行ったのに、お前は俺を追い掛けて来た。


 弟には、日の当たる場所で笑っていて欲しかったんだ。

 こんな血腥ちなまぐさい日陰じゃなくて、もっと明るい場所で幸せになって欲しかった。――あんな風に、死なせるつもりなんて無かったんだ。


 部屋の中は殺風景だった。馬鹿な俺を追い掛けて、こんな汚い世界までやって来た。俺は神谷翔太の父に出会った。けれど、弟はどうだっただろう。ろくな食器も無く、贅沢品も無く、こんな狭い家の中で何を思ったのか。


 目が眩むような空腹、胸をむしばむ孤独感。常に命の危険の伴うこんな世界で、俺の弟は生きた。21歳だった。深い新緑の季節に生まれた俺の弟。もう二度と会えない。


 よく頑張ったと、どうして抱き締めてやれないのか。

 お前は自慢の弟だと、どうして伝えてやれないのか。


 人並みの幸せすら掴めなかったのに、俺はお前を置いて行ったのに、どうして、お前は。


 涙が溢れて、止まらなかった。

 ノワールと一緒なら、地獄でも良かったと。守るべきものをたくさん抱え込んだこの子供が、新の為ならば、それを投げ捨ててでも構わないと言う。その、意味を。


 新の脳は薬物で破壊され、人格すら保てなかった。それでも最期の瞬間には彼岸ひがんから帰って来て、こんな俺を認めてくれた。――それが、俺たちに起きた唯一の奇跡だった。


 天神新。

 不器用で、優しい俺の弟。


 蛍光灯の白い光が降り注ぐ。透明な滴が幾つも流れ落ちて、色褪せた畳に染み込んで行く。




「俺は……ッ! 新に何も出来なかった……!!」




 弟を助けたくて、救いたくて、前だけ見て走り続けて、その後ろを追い掛ける弟に気付きもしなかった。


 ごめん、ごめんな。

 ごめんな、新。


 畳に爪を立て、奥歯を噛み締める。噛み殺せなかった嗚咽が部屋の中に広がって、まるで牢獄の中にいるみたいだった。

 ずっと夜の中を走ってる。夜明けは何処だ。何処にあるんだ。


 背を丸めてむせび泣く侑の肩を、子供の小さな掌が撫でた。




「でも、貴方のお蔭なんだ」




 握り締めた拳を、湊の手の平が包み込む。




「俺はこの国に来てから、ずっと息苦しくて、暗いトンネルの中を独りで持久走してる気分だった。でも、ノワールと出会って、初めて、ちゃんと息が出来たと思った」

「……」

「貴方がノワールを守ってくれたから、俺は生きてる」

「……ッ」

「ノワールのお蔭で、生きてるよ……」




 畳の上に、しずくが落ちる。


 無意味でも、無駄死にでも無かったよ。

 ちゃんと生きたよ。生き抜いたよ。


 湊が、まるで言い聞かせるみたいに何度も言った。


 此処が人生のどん詰まりだと、地獄の底だと思っても、何処からか希望の光が差し込んで、まだ終わりじゃないと声を上げる。


 弟をいたみ、一緒に泣いてくれる他人がいる。それだけが、侑の人生に残された救いだった。親を失くし、矜恃きょうじを捨て、目の前で弟を助けられなかった侑に残った、唯一の希望だった。

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