⑷光明の悪魔
航のバイクの後ろに乗っている時、湊はいつも気分が良かった。鮮やかな運転も、サイドミラー越しに感じる弟の視線も、エンジンの拍動も、風を切る感覚も大好きだった。
航と二人、バイクに乗って何処までも走って行けたら、きっと楽しいだろう。天気は晴れでも雨でも良い。びしょ濡れで凍えていたって、鼻歌の一つでも歌ってやる。
航がいたら、俺は無敵なんだ。何も怖くないんだ。
けれど、目的地が近付くに連れて、胸を突き上げるような興奮は緊張に変わった。第六感、虫の知らせ。それは湊自身の緊張ではない。航の
「もう少しで、向こうの射程圏内に入る」
ヘルメットを被っているので、少しだけ声量を上げた。
航は振り返らず、僅かに顎を上下させた。
高層ビルを根城にしたSLCをたった五人で制圧する。その為に重要になるのは事前準備と作戦だ。
監視カメラの類はハッキングしたかったのだが、湊の手元にはノートパソコンが無かった。この国で、自分以上にコンピュータに精通した味方はいない。海外から手を回すとタイムラグが生じてしまうし、不確定な情報に踊らされるのも御免である。
「来るぜ」
航が言った。
湊は身構えた。破裂音が木々のざわめきのように響き渡る。金色の閃光がコンクリートを抉り、火花が散る。航がアクセルを回し、転倒ギリギリの角度と速度で躱して行く。
凄まじい重力が掛かり、湊は荷物を守りながら航の腰にしがみ付いた。
銃弾を躱しながら、瓦解したコンクリート片の影に滑り込む。湊は後部座席から飛び降り、バイクに
航はヘルメットのシールドを上げた。
「次の合流地点で待ってるからな」
「ああ。時間通りに行くよ」
シールドを下げると、航はアクセルを回した。
咆哮を上げてバイクが銃弾の嵐を駆け抜けて行く。湊は荷物を担いで、目的地である排水溝の蓋を目指した。
航は、
弟が陽動を行っている間に、湊は罠を張り巡らせる。真正面から戦う必要は無い。立花たちの到着と、どちらが早いか。
湿気と腐臭に満たされた下水道は、ロックダウンの影響で明かりが無かった。湊は手元のタブレットを操作して地図を確認する。
追手が来られないように罠を仕掛けながら、準備を進めて行く。ゲリラ戦の罠なら兎も角、湊はそれを扱ったことが無かったので手間取った。
なるべく見え難い所にタイマーを設置し、湿気に強い火薬を隠して行く。やるなら、徹底的に。叩くなら、折れるまで。
予定より良いペースだ。
航が囮として機能している内に、立花や翔太が建物に侵入してくれると有り難い。そうしたら、航は早めに撤退出来る。
あと二つ。空になった手提げ袋を畳み、軽くなったリュックに入れる。下水道の角を曲がった瞬間、後方から呻き声がした。
追手が現れたらしい。これは、想定よりずっと遅い。
湊はリュックを背負い直し、道を急いだ。追手対策の罠はピアノ線しか用意出来なかったのだ。とどめにはならないが、四肢を切断するくらいなら出来るだろう。
目的地を目指しながら、一つ、また一つと設置して行く。
目指すのは高層ビルの機械室である。立花と翔太が侵入するタイミングで、航と合流して向かう手筈になっている。俺は戦力になれないから、これくらい。
航の携帯電話にメッセージを送った時、闇の向こうから足音が聞こえた。
「会いたかったよ、悪魔の手先」
19.空を見上げて夢を見る
⑷
それは生理的嫌悪感を催す、機械のような抑揚の無い声だった。
湊は咄嗟に曲り角に身を
予想はしていたが、このタイミングは
援軍には期待出来ない。相手は銃を持っている。此処で発砲されるのは、困る。
湊は舌打ちを漏らし、声を上げた。
「そんなに俺とお喋りしたいの?」
時間を稼ぐしかない。
救難信号を出しつつ、湊はタブレットをリュックに入れた。
足音は止まらない。時間の問題だ。湊は覚悟を決め、姿を現した。
「良いぜ。お喋りしようよ。……俺もアンタには、言いたいことがあるんだ」
闇の奥に青い双眸が光る。
褐色の肌、六本指の左手。SLCの殺し屋、ベリル。――ノワールの仇。
湊は両手を上げた。
此方の武器は腰に差した軍用ナイフ一本。銃を持った殺し屋相手に勝算は低い。さて、どうする。
「どうして、僕等の邪魔をするんですか?」
ベリルが、言った。
相変わらず、寒気がする男だ。何しろ、この男は伽藍堂で、まるで人形のようなのだ。ベリルと言う名前も本名ではないのだろうし、正体は全く分からない。
SLCの教主だったアンバーを崇拝するいかれた殺人鬼。
けれど、その信念も情熱も借り物で、ベリルの意思は欠片も無い。――
後方から追手の気配がする。挟まれている。
ピアノ線のトラップはどのくらい持つだろう。
湊は銃口と対峙しながら、笑ってやった。
「お前等が間違っているからさ」
湊が言うと、ベリルは胡乱な眼を向けた。
「何処が、間違っていると言うんですか?」
ベリルは、仄暗い笑みを浮かべている。
「科学の発展は人類の未来に貢献して来ました。僕等の研究もそうです。SLCは多くの人を救済していますよ」
「その裏でどれだけの人を殺し、闇に葬ったんだ」
「犠牲無く対価は得られない。そうでしょう?」
「その犠牲者を、お前等が選ぶというのか」
「仕方ないことです。進歩と引き換えに犠牲を要求して来たのが、科学だ」
腹の底で、怒りが火の粉を散らす。
湊は拳を握った。
こいつ等は、いつもそうだ。何も分かっちゃいない。
科学は常に犠牲を要求し、発展の裏で多くの血が流れた。
けれど、それは犠牲を切り捨てるということではない。犠牲者の血肉を、魂を、
「科学は万能じゃないし、人は神じゃない。誰であろうとも殺して良い権利は無いんだよ」
怒りで
湊は怒りを呑み込み、冷たく言った。
「犠牲者を
どうせ、分からないだろう。
それでも、湊は伝えなければならなかった。
科学者とは、そういう生き物だ。無理だと思っても、可能性がある限り諦めない。嘆く暇があるなら、打開の方法を探す。
「お前等は、いずれ歴史に抹殺される存在だ」
リュックの中で、微かな振動を感じた。
誰かから反応があった。航か、立花か。しかし、確認する余裕は無い。
ベリルの口元が、三日月のように弧を描く。それは醜く歪んだ、嗜虐的な笑みだった。
「君の父親も、そうでしたね」
心の柔らかい所を、握られたみたいだった。
分かってる。これは挑発だ。こいつ等はいつも親父を引き合いに出す。湊は奥歯を噛み締め、言葉を
「どんな偉業を成し遂げても、英雄もいつかは忘れられる。遺伝子に人の歴史や記憶は残されない」
ベリルは堂々と、まるで舞台演者が客席に向かって訴え掛けるみたいに話す。湊には、それが不快だった。
「ならば、僕等がその記録を作る。その為に今の君は邪魔だ」
脳の毛細血管が、線香花火のようにぶつぶつと破裂して行くような感覚だった。恍惚と語るベリルに、一年前に刑務所送りにしたアンバーの顔が重なって見える。
こいつは、俺の親父を同類だと思っているのか?
紛争地で医療援助を続け、反戦の為に奔走し、最期は家族や民間人を庇って爆弾テロで死んだ親父と、同列だと?
腹が立つ。腹が立つ。腹が立つ。
怒りで頭が沸騰しそうだ。これ以上の論議に価値は無い。
湊は、溜息を吐いた。
「はいはい、お得意の
その瞬間、ベリルの眉間に
「
湊はせせら笑った。
人形みたいだったベリルに、困惑と苛立ちが浮かぶ。なんだ、そんな顔も出来るのかよ。湊にはそれが小気味良く、そして、不愉快だった。
「どうでも良いんだよ、お前等のいかれた計画なんて」
心底、どうでも良い。
ベリルの指先に力が篭る。
指先一本で人の命を奪う凶器。
嫌いだ。こんなものは、大嫌いだ。
銃も爆弾も、大嫌いだ。
それを振り
湊はベリルを睨んだ。
「お前の信じるアンバーはクソ野郎だった。部屋に閉じ
「……殺すぞ、お前」
湊は
「何だよ、キレてんのか? 耳塞いでんじゃねぇよ、この三流の雑魚が。――何度でも言ってやるよ!」
ベリルの額に青筋が走り、憎悪に満ちた眼光が射抜く。
湊は鼻を鳴らし、声を張り上げた。
「テメェの信じる正義は偽物で、テメェはただの人形で、SLCの教義は何の価値も無いゴミなんだよ!」
こんな奴のせいで、こんな馬鹿な人形のせいで、ノワールは。思い出そうとすると、頭の血管が切れそうだった。冷静じゃないと言うことは、自分が一番分かっている。
こいつ等はクソ野郎だ。
こんな奴等の為に、嘘でも共感なんてしてやるものか!
「こっちはとっくに腹くくって地獄にいるんだよ! テメェ等は犬みてぇに同じ所ぐるぐる回ってりゃ良いさ、俺は人形とお喋りする趣味は無ぇからな!」
もう腕も疲れて来た。
湊は腕を下ろし、青い眼球を睨んだ。
「テメェ等と分かり合える日は来ないし、納得することも出来ない。俺は逃げないし、負けるつもりも無い。理由が必要なら教えてやる」
腰に手を伸ばし、ナイフのグリップを掴んだ。
此処で死ぬなら、それまでの男だったと言うだけの話だ。
湊は微笑み、声を上げた。
「ヒーローは必ず勝つからさ!」
悪鬼のような形相で、ベリルが引き金を絞る。湊がナイフを引き抜く。そして、破裂音が一発、尾を引いて響き渡った。
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