⑵オーバーグロウ

 レンタルのマウンテンバイクで六時間。

 懐かしい街並が見えた頃、空は既に暗かった。


 湊は記憶を辿りながら必死にペダルを漕いだ。田舎町とは違う人の多さに、危うく人身事故を起こしそうになる。後方から翔太がベルを鳴らす。その度に唇を噛み締め、深呼吸し、湊はハンドルを握り直した。


 昼間よりずっと快適なはずなのに、両手は汗で滑った。

 酷く緊張しているのが自分で分かる。立花の事務所はブルーシートで覆われ、ノワールと通った喫茶店は規制線が張られている。この地を離れて一ヶ月も経っていないはずなのに景色は変わり果ててしまった。それはまるで、思い出の写真を一枚一枚目の前で破り捨てられているみたいだった。


 途中、小さな花屋があった。

 いつかの約束を思い出して、湊は白いカサブランカの切り花を購入した。翔太は不思議そうに見ていたが、何も訊かなかった。そういうところが有難いし、優しいと思う。


 駅前を避けて裏道から、ノワールの家を目指した。

 街の掲示板に夏祭りのポスターが貼られているが、その上に中止とも書かれていた。海外の爆弾テロや、あの街で起きたホロコーストの影響だろう。


 学生の街は賑わっていた。

 アルコールの解禁した若者が居酒屋で和気藹々わきあいあいとビールを飲み、大声で歌ったり、路上で寝転んだりする。他所行きの服を着た女子大生が、ブランドバッグを担いでヒールを鳴らす。太った野良猫がゴミ捨て場で欠伸あくびをして、顔を洗う。


 視界が歪んで見えた。

 胸が苦しい。体力が尽き掛けているのか。

 人混みを避けて裏道に入ると、後ろでまたベルが鳴った。




「スピード落とせ!」




 翔太の声だった。

 湊ははっとして、ブレーキを握った。知らぬ間にペースが上がってしまっている。ずっとそうだ。

 翔太がいなかったら、今頃一人や二人はき殺している。

 湊は速度を落としながら、急いだ。視界が随分と狭くなっている。酸欠か、ランナーズハイか。ペース配分には自信があったのに。


 閑静な住宅街の一角、あのアパートが見えた。

 人が住んでいるのかも疑わしいくらいおんぼろで、明かりも点いていない。少なくとも、湊はノワール以外の住民を見たことが無かった。


 ブロック塀の横に自転車を置いて、苔に覆われた裏庭を通り抜ける。足を踏み出す度に、ノワールと過ごした日々が泡のように浮かび上がり、そして消えて行く。


 裏庭に、縦長の石が立てられていた。

 黄色い菊の花が置かれていた。この国では、仏花の代表格である。これが墓石だとするのなら、花をそなえたのは、一人しか思い当たらなかった。


 両眼が熱かった。溶けてしまいそうだ。

 湊は手にしていたカサブランカを供え、手を合わせた。特定の宗教を信仰していないので、祈り方なんて知らない。ただ、両親がそうしていたので、何となく真似をするようになった。




「何の墓なんだ?」




 点滅する外灯の下で、翔太が訊ねた。

 湊は立ち上がった。




「金魚」

「金魚?」




 ノワールと近所の夏祭りに行った時、金魚すくいをした。共用の風呂釜で少しの間世話をしていたのだけど、気付いたら死んでいたらしい。ノワールが一人で墓を建てて、埋めた。だから、湊は今度、花を買って来ると言ったのだ。


 一階の角部屋、錆びたポスト。

 中を開けると合鍵が入っている。湊はそれを取り出して、鍵穴に差し込んだ。

 部屋の中は真っ暗だった。油絵具の独特な匂いが鼻を突く。湊は玄関先でスニーカーを脱ぎ、部屋の中に上がり込んだ。人の気配は無かった。湊は畳敷の部屋に踏み入ると、電気を点けた。


 白い光が部屋の中を照らす。

 きちんと畳まれた布団、布を掛けたカンバス、壁際のイーゼルに、使い掛けの油絵具。


 自分を呼ぶノワールの声が、聞こえた気がした。

 レースのカーテン、閉ざされた窓、狭いキッチン。二人分のマグカップ。


 お好み焼きを作ったら、ソースの味しかしないと笑っていた。二人でコーヒーを飲んだ。お互いに甘いものが好きでは無かったから。


 胸が痛くて、痛くて痛くて。

 湊は布を掛けたカンバスに手を伸ばした。


 鮮やかな冬の夕焼け。

 海に沈む繁華街。

 それを描いていたノワールの横顔を、ずっと見ていた。

 絵の具を削る音、カーテンの金具が鳴る。イーゼルにカンバスを立て掛けたノワールが、小難しい顔で唸っている。


 指先は震えていた。

 部屋の隅に一枚のカンバスが置かれている。白い布で覆ったその上に、一枚のメモが残されている。


 ミナへ。


 たったそれだけのメッセージ。

 湊は布を取り払い、そして、心臓が潰れるかと思った。苦しくて苦しくて、悲しくて、――涙が溢れた。


 写実的な肖像画だった。畳敷の部屋、砂壁。膝を抱えた子供が光の中で眠っている。それが誰かなんて、湊自身が誰より知っている。




「……これ、お前か」




 絵画を覗き込んだ翔太が、感心したように言った。




「上手いな」




 独り言みたいな翔太の言葉に、胸が張り裂けそうになる。


 そうだよ、上手いんだよ。

 ノワールの絵は、本当に綺麗なんだ。


 冬の夕焼け――、あれは、秋だ。

 初めてノワールと出会った日、二人で眺めた。

 繁華街が青いグラデーションなのは、朝だからだ。

 初めてあの喫茶店に行ったのは、朝だった。




「ノワール……」




 不意に口から零れ落ちる。返事は無い。分かってる。


 でもね、夢を見るんだ。

 君と一緒に海を渡って、綺麗なものを沢山見付けて、好きなだけ笑って、泣いて、一緒に歌を口ずさむような、そんな他愛の無い日々を。


 ねぇ、ノワール。

 君はどんな気持ちで此処に帰って来たの。何で俺の絵なんて描いたの。どうしてそれを俺に残したの。


 翔太に電話を掛けて来た時、ノワールは言語障害を起こしていた。自分の体すら満足に動かせず、言葉一つ操れず、奪われて行く思考の中で、何を思ったの。


 教えてくれよ、ノワール。


 湊は残された肖像画を抱き締めて、目を閉じた。

 瞼の裏に蘇るのは、ノワールの笑った顔だった。


 地獄でも良かったんだよ、君と一緒なら。

 君と一緒なら、何処までも行けると思ったんだ。

 エンジェル・リードを立ち上げたのは、君の為だったんだ。

 君を、君だけを救いたかったんだよ……。


 涙が止まらなかった。

 泣いてすっきりするよりは、怒ってフラストレーションを溜めた方がエネルギーになる。頭では分かっているのに、涙が止まらない。


 父親を殺されて、兄に置いて行かれて、孤児院で薬物の実験台になって。兄を追い掛けて裏社会に踏み込んだのに、君の願いは一つも叶わなかった。

 幼い頃に投与された薬のせいで脳を破壊されて、望まぬ虐殺に加担させられて、今の君は何処にいるの。


 どうしたら、君を助けられるの。


 教えてくれよ、ノワール。




「……ノワールは」




 翔太が、言った。




「ノワールは、本当にお前が大切だったんだな」

「……どうして、そう思うの」




 俺は、ノワールを繋ぎ止めることは出来なかった。

 湊は涙を拭った。ノワールの残したこの絵を、涙で汚したくなかった。


 翔太は湊が抱えた肖像画を眺めて、訥々と言った。




「俺には、この絵のお前は光に守られているように見える」




 湊は唇を噛み締めた。

 滲む視界で、絵画の隅にサインが書かれていることに気付く。ARATAと、彼の本当の名前が。




「ノワールが何を考えていたのかなんて、俺には分かんねぇ。でも、大切だったんだろ」

「……うん」

「じゃあ、諦めんな」




 翔太の手の平が頭を撫でる。

 それがいつかのノワールと重なって、涙が一粒、零れ落ちた。












 18.空虚な祈り

 ⑵オーバーグロウ











 カンバスを抱えた湊が、うずくまって泣いている。

 彼がこんな風に泣くのを、翔太は初めて見た。


 誰かを想って、泣ける子供だったんだな。

 小さな背中を見ていると、胸が締め付けられるような思いになる。この薄い背中にどれだけの重荷が背負われているのだろう。


 SLCといういかれた組織のせいで社会復帰は絶望的で、両親は爆弾テロでこの世を去り、唯一残された弟を守る為に地獄を選んだ。そして、今度はノワールか。

 湊がこの国に来て初めて出来た友達。心を許せる相手。掴もうと手を伸ばして、届かなかった人。


 神様というものがこの世に存在するのなら、俺はそいつを殴る。こんなガキにどうして此処まで酷い仕打ちをするんだ。こいつが何をしたって言うんだ。もう、許してやってくれよ。


 あ、と思った時には遅かった。

 涙が一粒零れ落ちて、翔太はすぐに拭い去った。今は自分が泣く時ではない、本当に泣きたいのは、ノワールのはずだ。

 ノワールだって、湊をこんな風に泣かせたくなんてなかったはずなのに。


 破壊された脳は、元に戻らない。

 ノワールを助ける手立ては無い。

 でも、生きてる。元のノワールに戻るとは思えないけれど、生きていれば救いはある。例え、最低最悪の殺人鬼に身を落としたとしても、帰る場所さえあれば再出発出来るだろう。


 カンバスを抱えた湊は立ち上がり、それ等を丁寧に重ねて布で包んだ。もう涙は無かったけれど、両眼は薄く腫れていた。


 俺に何か出来ることあるか。

 翔太はそう尋ねそうになり、口を噤んだ。湊が返す言葉は決まってる。何処にもいなくならないでね、だ。

 本心だったのだ。湊が望むのは、ただそれだけだった。




「君の依頼は、公安の望月もちづきって人の調査だったね?」




 ウサギみたいに目を赤くした湊が、奇妙に落ち着いた声で言った。いきなり切り出された話に翔太は面食らった。けれど、湊はカンバスを抱えたまま、静かに続けた。




「それは、銀縁眼鏡を掛けた公安の刑事のこと?」

「……知ってんの?」

「その人のことは、ずっと調べてた」




 ずっとね。

 湊の声は薄暗く、まるでトンネルの中みたいに不気味に反響する。




「弁護士の幸村さんの知り合いが、警察庁にいる。交番で桜田さんを怒鳴っていたのもそいつだった。翔太が記憶を取り戻した時も、銀縁眼鏡を掛けたスーツの男って言ってたね」

「……よく覚えてんな」

「記憶力には、自信があるんだ」




 普段の湊なら、得意げに笑っていただろう。

 けれど、湊はまくし立てるような早口で、暗記した文書を読み上げるみたいに語った。




望月宗久もちづき むねひさ、57歳。君のお父さんの上司に当たる。公安部長で、それなりの権力を持っている。公安はこの国では、スパイの親玉みたいだね。凡ゆる情報の収集や調査をして、法令違反があれば逮捕することもある。その対象は外国政府による対日工作や、国際テロ、極左暴力団や右翼団体、学生運動や市民活動にも及ぶ」




 何が、この国の警察組織には詳しくないだ。

 生粋の日本人である翔太より詳しいじゃないか。




「調査対象には、同僚の公安警察や、一般政党、自衛隊や大手メディアも含まれる。この国は国民を番号で管理するディストピアに成り掛けてるって、ペリドットが言ってた」




 いつの間にそんな話をしたのか。

 翔太は湊という少年を見縊っていたし、侮っていた。この子はただの子供じゃない。フィクサーと呼ばれる裏社会の重鎮、その卵なのである。




「本当に国民の為を思って、身を粉にして働く善良な公安刑事もいる。君のお父さんや、その後輩だって言う羽柴はしばさんもそうだった」

「……」

「だけど、望月宗久という人は、違う」




 湊は迷いの無い口調で、断言した。




「法改正を目論む革新派の中に、氏家うじいえ議員という国会の大御所がいる。そいつはペリドットを祭り上げることで、司法の裁きとして浄化部隊を作ろうとしてる」

「……待て、話に付いて行けねぇ」




 翔太が制止を訴えると、湊は口調を柔らかくして言った。




「浄化部隊って言うのは、死の部隊とも呼ばれる。第三世界では市民に対する暗殺作戦を実行する。社会秩序を維持する為だとか、自衛戦争だとか主張する国もあるけどね、そのターゲットがホームレスやストリートチルドレンになっている現状を考えると、俺は白色テログループだと思ってる」

「……話が全然頭に入って来ねぇんだけど」




 わざと難しく言ってないか?

 翔太が不満を零せば、湊はカンバスを抱えたまま覗き込んで来た。




「平たく言うとね、望月さんは司法の名を借りた暗殺部隊を組織しようとしてる」




 ぞっとした。

 司法の名を借りた暗殺部隊。

 どうして、そんなものを。


 いや、この話を聞いた覚えがある。

 確か、ゲルニカの一件だ。最低最悪の殺人鬼を、国家公認の殺し屋が始末することで民衆の支持を集めようとしていた。情報操作は公安のお家芸いえげいだ。もしもあれが成功していたら、今頃、この国はどうなってしまっていたのか。




「……どうして、そんなことを?」




 翔太の声は震えていた。

 恐ろしかった。司法が不要と判断したら、例え情状酌量の余地があったとしても暗殺される。この国は血塗れになる。

 湊は目を眇めた。




「法には限界がある。例えば、未成年犯罪、心神喪失無罪。冤罪の可能性もあるけれど、そうじゃない場合もある。高速道路で玉突き事故を起こして、遺族を暗殺させた西岡被告。司法にコネクションを持ったゲルニカ」

「……」

「冤罪の可能性を限りなくゼロにして行く為に、俺の能力が必要だった」




 他人の嘘を見抜く能力。

 その精度は嘘発見器よりも高いと言う。




「だから、SLCと手を組んだのか……?」

「それも一つの理由だと思うけど、本命はそっちじゃない」




 湊はとても穏やかだった。だからこそ、語られる荒唐無稽こうとうむけいな話に真実味がある。




「望月さんの狙いは、ブラックなんだ。人の脳を破壊して、操り人形にする。薬で国を支配しようとしてるんだよ」




 湊は言い切った。




「氏家議員の邸宅から、その計画の資料が出て来たんだ。公安連中が揉み消したらしいけどね」

「何でお前が知ってんだよ」

「ペリドットと羽柴さんは公安の一員だ。前にも言っただろ。公安も一枚岩じゃないって」




 すごいな、と翔太は全く関係の無い所に関心してしまった。

 公安とSLCの癒着ゆちゃく、その目的。湊はそれを本当に調べ上げてしまった。18歳の子供が、たった一人で。




「俺は望月さんという人に会ったことは無い。でも、真面まともな人の発想じゃない。いかれてる」




 侮蔑ぶべつを込めた口調だった。

 望月は恐らく優生思想の持ち主で、将来的に社会の不利益となる人間を排除したいのだ。話だけを聞いていると合理的に感じるけれど、それを判断するのが人間である以上はミスも起こる。


 湊の父は医者で、誰も殺されない世界を理想としていた。湊本人がどうかは分からないが、相入あいいれない考え方だろうと言うことは推察すいさつ出来た。


 どうしたらハッピーエンドな訳?

 航の声が蘇る。どうしたら、ハッピーエンドか。




「止めないと……」




 その言葉が出たのは、ほとんど無意識だった。

 止めなきゃ。このままじゃ、沢山の人が死ぬ。




「当たり前だろ」




 湊が言った。

 心強いけれど、翔太は自分が情けなかった。

 湊の母国はアメリカで、既に背負い切れない程、沢山のものを背負ってる。そんな子供の力を借りなければならない現状が情けなくて、悔しかった。けれど、湊は当然のことみたいに言った。




「此処は俺の両親の生まれた国だ。闘う理由がある」




 同じことを、航も言っていた。性格は違っても、彼等は双子の兄弟なのだと思い知る。

 敵の正体も目的も、やるべきことは分かった。あとはハッピーエンドを迎えに行く準備をするだけだ。


 翔太は思い切り両頬りょうほほはたいた。

 小気味良い乾いた音が響き渡る。




「さあ、やろうぜ」




 翔太が言うと、湊が拳を向けて来た。

 何かのジンクスなのだろう。深くは追求せず、翔太は拳を当てた。

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