⑺転換点

 翔太と立花が高速道路を降りたのは、航からの情報が届いた為だった。

 地図の添付されたメッセージには、航らしい短い鼓舞の言葉が記されていた。


 対象――ノワールの移動速度は凄まじく速かった。

 恐らく、車かバイクのような移動手段を使っている。航の情報はアメリカを経由している為にタイムラグが生まれ、まるで逃げ水を追い掛けているみたいだった。ガソリンタンクが空になるまで不毛な追いかけっこを続け、其処に到着した頃には既に丸一日が経過していた。


 首都圏、某所。

 大きな街道を進むと、河川の中洲に位置する閑静な住宅地があった。深夜の為に車の通りは少なく、出歩く者もいなかった。


 車が鉄橋を渡ったその時、大地震のような凄まじい地響きが起こった。


 急ブレーキの甲高い音が鳴り響き、クラクションが悲鳴のように轟いた。思考が停止した一瞬、立花は舌打ちと共に思い切りアクセルを踏んで速度を上げた。

 どどどどど、と津波のような物々しい音が追い掛けて来て、振り向くと鉄橋は罅割ひびわれ河川に沈んでいた。そして、前方を見れば大きなビルがドミノのように倒れ、彼方此方から火の手が上がっていた。


 フロントガラスには黒煙とコンクリートの破片が降り注いだ。

 真夜中の空は真っ赤に染まり、まるで夕焼けのようだった。

 道路には無数の亀裂が走り、倒壊した建物の瓦礫がれきが転がった。家財を抱えた住民が逃げ出す最中、乾いた破裂音が何度も、何度も聞こえた。


 悲鳴、地響き、破裂音。

 火の粉と黒煙に包まれた街は、一瞬にして阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。逃げ惑う人々が短い悲鳴を上げ、突然死したかのように倒れて行く。


 八月某日、平和呆けした極東の島国はグラウンドゼロへと変わり果てたのである。

 立花は眉間に皺を寄せ、まるで叫び出したいのをどうにかこらえているかのような顔付きだった。翔太は助手席でシートベルトを握り締め、目の前で起こる非現実的な未曾有の爆弾テロを眺めていることしか出来なかった。


 破裂音が等間隔に響く。あなぐらに逃げ込んだ獲物を炙り出し、撃ち殺して行くその様は作業的で、機械のように正確だった。


 黒煙が晴れる、刹那。

 翔太はエメラルドの瞳を見た。

 春の新緑に似た穏やかだったその眼差しは、氷のように冷たかった。その黒髪は煤を被って白髪のように染まり、頬に返り血を受ける様は夜叉か羅刹のようだった。




「ノワール!!」




 翔太が叫んだ時、車はコントロールを失って氷上のように滑った。建物に衝突する寸前に首根っこを引っ掴まれ、翔太は熱いアスファルトの上に倒れ込んだ。


 轟々と燃え盛る炎の前、ノワールと呼ばれた青年は、銃を握っていた。感情を失くしたおもては精巧な人形のように美しくさえ見えた。

 ノワールが振り向く。其処に嘗ての面影は無かった。


 記憶が交錯する。

 血塗れの家、包丁を握った妹。

 人は死んだら何処へ行くの?

 そう尋ねた妹が、蘇ったみたいだった。


 足下には死体が積み重なっていた。女も子供も老人も、脳天を撃ち抜かれて即死している。アスファルトには血の川が流れ、爆炎のせいで呼吸の度に喉が焼けるようだった。


 カシャンと撃鉄が起こされる。

 ノワールと立花は、銃口を突き付け合っていた。

 悲鳴と怒号、爆発音と崩壊の音が木霊こだまする。二人の間だけが、奇妙に静まり返っていた。




「……お前、本当にそれで良いのか」




 立花の声は奇妙に凪いで、乾いていた。

 ノワールは動かない。眉一つ動かさず、呼吸の気配すら感じられない。それでも、銃口を突き付けながら立花が叫んだ。




「何も成し遂げられず、敵に良いように使われて、――それで良いのか!!」




 ノワールは、動かない。

 泣きもしなければ、笑いもしない。

 喫茶店で会った時とは違う。今のノワールは、人格を失くした殺戮人形である。




「無駄だよ」




 その声は、後ろから聞こえた。

 倒壊した瓦礫、屍の山、血が池を作る粉塵の最中。そいつは乾いた足音を響かせて、幽霊のようにひっそりと現れた。

 夏だと言うのにからすのような真っ黒なロングコートを羽織り、末期病患者のような酷い顔色に汗一つ掻かず、サブマシンガンを片手に悠々と立っていた。


 その気味の悪さに翔太は無意識に後退っていた。立花の背中が肩に当たる。幽鬼のようなその男の双眸は、落ち窪んだかのような深い隈に彩られている。


 右目の上に、傷跡があった。

 醜いケロイドのような。


 ああ、こいつだ。

 大阪の笹森一家邸宅に現れた透明人間、ノワールの父を殺したSLCの殺し屋。名前は確か、――ギベオン。




「ブラックは脳を破壊する。そいつはもう、俺たちの操り人形さ」




 その声は低く嗄れた、喫煙者特有のガラガラ声だった。

 ノワールは胡乱な眼差しで、銃口を突き付けたまま身動き一つしない。本当に、此方の声は何も届いていないようだった。銃口に挟まれ、翔太も立花も動けない。




「随分と人間らしくなったじゃないか、ハヤブサ」




 ギベオンは嘲笑うかのように言った。

 立花はノワールに銃口を向けたまま、鼻で笑った。




「組織の犬に成り下がったかよ、クソ野郎」




 立花も動けないのだ。

 翔太はギベオンを睨んだ。だが、そいつは立花を見据え、まるで翔太など見えていないかのようだった。立花はギベオンに背中を向けたまま、殺気だけで牽制している。




「殺し屋が人助けか? 御立派なことだ」




 立花は何も答えなかった。

 ギベオンばかりが挑発するように吐き捨てる。




「最速のヒットマンと呼ばれたハヤブサも、今じゃかごの鳥だな。お荷物背負って生きられる程、この世界は甘くねぇ。先代から教えてもらわなかったのか?」

「……」

「抑止力だか何だか知らねぇが、生温いんだよ、お前等は!」




 ギベオンが笑った。

 歪んだ口元が弧を描き、黄ばんだ歯列が蹂躙じゅうりんするかのようにあざける。




「この世は弱肉強食だ! 捕食者が獲物を狩ることの何処が間違ってるって言うんだ? 教えてくれよ、三代目ハヤブサ!」




 立花は振り返らない。

 伽藍堂の目をしたノワールを睨んだまま、忌々しげに吐き捨てた。




「……外道が何を偉そうに」




 どいつもこいつも下らねぇ。


 背中越しに殺気が迸る。じわじわと首を絞められているような、炎に炙られているような強烈なプレッシャーが伸し掛かる。


 立花は退屈そうに、溜息を吐いた。




「人殺しの美学なんざ知るかよ。テメェはその狭くて汚ぇ世界で好きなだけ語ってろ」




 銃声が数発、尾を引いて響き渡った。

 翔太は咄嗟に身をひるがえし、立花はギベオンと対峙した。合図も打ち合わせも無い。ただ、そうすることが最善だと分かった。


 背後で激しい銃撃戦が起こる。

 流れ弾がアスファルトを抉り、硝煙の臭いが漂った。翔太はノワール目掛けて走った。銀色の銃が火を噴く。


 弾道は直線だ。予備動作で避けられる。

 銃弾が頬を掠める。それでも、翔太は止まらなかった。虚な目をしたノワールが、オートマチックみたいに発砲する。

 いつものノワールだったなら、勝てなかった。届かなかった。だけど、今のノワールは違う。翔太は間合いを詰めると、拳銃ごと腕を蹴り上げた。


 鍛え上げられた鋼の肉体も、今では見る影も無い。まるで人形だ。地下格闘技試合で見た、野生動物のような身のこなしは最早、微塵も無い。今のノワールは洗脳されている。機械的に判断し、目の前の敵を殺そうとしている。


 翔太はノワールの胸倉を掴んだ。

 その時、首元から銀色のドッグタグが零れ落ちた。

 エメラルドの瞳がドッグタグを追い掛ける、その一瞬、翔太は渾身の力を込めて拳を振り抜いた。


 拳が頬骨にぶつかる鈍い痛みが、まるで永遠のように感じられた。

 ノワールの体が瓦礫の上に吹っ飛んだ。翔太は弾いた拳銃を遠くに蹴り飛ばした。その時には既にノワールは立ち上がり、口元から真っ赤な血を流しながら身構えていた。


 銃声が響き渡る。

 立花は場所を移動したらしい。その意図が分かる。ギベオンを此処から遠去けているのだ。だから、翔太が止めなければならない。今此処で、ノワールを。


 ノワール……。

 翔太は、殺戮人形と化した青年を愕然と見詰めた。


 初めて出会ったのは、クリスマスイブの繁華街だった。翔太は航を連れていた。ノワールは殺人現場という血腥い場所で、有無を言わさず襲い掛かって来た。


 次に会ったのは、駅近くの喫茶店だった。

 甘い物が嫌いな癖にショートケーキを注文して、苺を湊に譲っていた。宮沢賢治の銀河鉄道の夜を引用して、湊に微笑んでいた。


 翔太と湊がスマイルマンと呼ばれる殺し屋に襲われた時には、危険も厭わず助けに来てくれた。歳の離れた兄がいること、兄に会う為にこの世界に来たこと、ノワールという殺し屋の過去を知った。


 地下格闘技の試合に連れて行かれた時もあった。

 翔太の劣勢には声を枯らして応援し、帰り道にラーメンを食べた。


 大阪では湊の側で、守ってくれた。

 何の利益も無いのに、友達だという理由だけで、命を張って助けてくれた。


 人殺しと呼ぶならば、そうなのだろう。

 人の命を金に替える薄汚い殺人鬼だ。――だけど、湊の隣にいるノワールは、穏やかで温かい、何処にでもいるような優しい青年だった。


 どうしてなんだ。

 どうして、ノワールなんだ。


 伽藍堂のその瞳を見る度に、嘗ての面影を重ね見る。

 ノワールはもういない。もう帰って来ない。――妹が、そうであったように。


 殺すしか、無い。

 他に方法は無かった。

 犯罪組織の操り人形となったノワールを助けるには、それしかなかった。


 腰に手を伸ばす。湊の置いて行った大振りのナイフ。


 翔太は覚悟を決めた。例え誰に恨まれることになったとしても、自分は此処で死ぬ訳にはいかない。自分かノワールのどちらかしか選べないのならば、翔太は前者を選ぶ。


 それだけが、翔太に与えられた選択肢だった。















 17.名前のない地獄

 ⑺転換点てんかんてん














 大型河川に挟まれた街は、爆弾によって鉄橋が落ちて交通上の孤立状態にあった。炎に包まれ逃げ場の無い地獄の底では倒壊した建物の瓦礫が降り注ぎ、逃げ惑う民間人を撃ち殺す馬鹿がいる。


 ホロコーストを思わせる死体の山、流れ出る血と脂。半開きの瞳が恨めしいと此方を見る。真っ赤な炎が空を舐め、火の粉と灰が粉雪のように舞う。


 立花は瓦礫の影に身を潜め、ギベオンの気配を探った。

 避難する民間人の足音、悲鳴、崩れ落ちる建物に爆発音。凡ゆる音が攪拌かくはんされ、不協和音と化している。


 足元には民間人の死体が転がっていた。母親だろうか。若い女の皮膚はまくれ上がり、筋繊維が露出していた。投げ出された腕が指し示すかのように、瓦礫に埋もれた子供がいた。

 俯せで、動かない。生きているのか死んでいるのか傍目はためには分からない。


 緊急車両は間に合わないだろう。

 上空をヘリコプターが飛び交うが、着陸出来そうな安全地帯は無い。ロックダウンされたこの街は、助けの望めない地獄の釜の底にある。


 銃声が響き、盾にしたコンクリート片が削れ、火花を散らせる。

 サブマシンガンの薬莢が転がり落ちる乾いた音がする。立花は耳を澄ませた。装弾数も威力も劣っている。追い込まれる前に切り出すべきだ。


 立花は目を伏せ、懐に入れていた閃光弾を放り投げた。

 暴力的な光が辺りを真っ白に染める。立花は目を閉じたままコンクリート片から飛び出した。照準を失った散弾が足元を抉る。

 装弾が尽きる。補充される前に攻撃に転じ、立花は真正面からギベオンを撃った。


 銃弾がサブマシンガンに弾かれる。

 立花は建物の影に身を隠した。頭上で火花が散る。立花は建物を通過し、一気に躍り出た。


 荒廃した街の中に亡霊のような男が立っている。

 自身を捕食者だと信じている馬鹿な男だ。立花はサブマシンガンの銃弾を躱しながら、引き金を絞った。


 9mmパラベラム弾が粉塵の中を切り裂き、ギベオンの肩を貫く。撃ち抜かれながら、ギベオンは眉一つ動かさない。痛みを知覚していないのだと気付いた時、立花はその殺人鬼がSLCに身を寄せた理由を理解した。


 かつん、と軽い音がした。

 目の前に放り投げられたのは一発の手榴弾だった。立花は崩れ掛けた体勢を立て直し、手榴弾を蹴り飛ばした。

 手榴弾が破裂し真っ赤な炎が噴き出す。火炎の向こうで血に染まったギベオンが嗤っている。


 こいつは殺さなきゃ止まらない。ノワールと同じだ。

 互いに引き金を引き絞る、刹那。視界の端を何かが横切った。

 それはまるで、肉食獣の檻に放り込まれた餌のようだった。身を守る鱗も無く、牙も爪も持たない丸腰の獲物。反射的に撃っていた。恐らく、ギベオンもそうだった。二つの方向から狙撃されたそれは、蜂の巣になるはずだった。


 金色の閃光が流星の如く駆け抜ける。

 それは音速の壁を飛び越えるようにして獲物を引っ掴むと、腕に抱えて勢いよく瓦礫の海を滑った。その時には立花も状況を理解し、ギベオンに照準を定めた。


 一瞬の躊躇、刹那の戸惑い。

 街そのものが沈没するかのような地響きが轟いて、立花は体勢を崩した。建物が崩落し、巨大なコンクリートの破片が幾つも降り注いだ。倒壊の最中にギベオンを追撃したが、手応えは無い。銃弾が尽きた頃には既にギベオンの姿は無くなっていた。


 取り逃した。

 それは、良い。

 そんなことより、何でこんな所に。




「湊!!」




 瓦礫を踏み分け、立花は声を張り上げた。海の向こうに渡ったはずの小さな少年が背を丸めてうずくまっている。そして、銃撃戦の横を丸腰で駆け抜けるような命知らずを庇ったのは、国家公認を謳われる殺し屋、ペリドットだった。


 湊はペリドットの腕を抜け出すと、脇目も振らず走り出した。その横顔は真剣そのもので、声を掛けることすら躊躇ためらわれた。追い掛けようと足を踏み出す立花の前に、銃を握ったペリドットが立ち塞ぐ。




「邪魔すんじゃねぇよ、ハヤブサ!!」




 ペリドットの怒号が響き渡る。

 湊はどんどん離れて行く。粉塵の中に消えて行く背中を睨みながら、立花はエメラルドの瞳と対峙した。

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