⑹引火点
早く。早く早く早く。
祈るような気持ちで、縋るような思いで、湊は飛行機の片隅に座っていた。ニューヨーク市郊外のジョン・F・ケネディ国際空港から東京の羽田空港まで凡そ12時間。荷台みたいな狭い座席で背中を丸めて、湊はうんともすんとも言わない携帯電話を握り締めていた。
機内は電波が届かない。情報機器の類が使えない状況は、まるで裸で戦場へ放り出されたみたいに心細かった。揺れる機体の中で踏み締めるべき地面が存在しないことも孤独感に拍車を掛ける。
精査すべき情報は存在しなかった。湊の手元に残っているのは、目を背けたくなる悲しい事実だけだった。両親の死、友人の最期、悍しい人体実験、犠牲者たちの脳の映像。やらなければならないことは山のようにあるのに、それを成すだけの力が無いことが兎に角、苦しかった。
DoDやFBIのジェット機が使えなかったのは、湊自身にそれを動かすだけの権力が無いからだ。両親の死んだ爆弾テロ以降、世界各地で凡ゆる貿易に規制が掛かっている。保守的な日本においてはそれが顕著であり、
湊はアメリカ国籍を持ち、パスポートを取得している。正規のルートで移動すれば足跡が残る。大切な友人の危機に一刻を争う事態なのに、すぐに駆け付けられないことが精神を圧迫する。
12時間のフライト後、湊は早足にゲートへ向かった。到着したのは日本時間で午後十二時を過ぎた頃で、太陽がぎらぎらと照り付けていた。
空港を飛び出し、玄関口でタクシーを拾った。立花の事務所の最寄駅の名を叫び、湊は再び背中を丸めた。エコノミークラス症候群なのか
気の良いタクシー運転手が何かを話し掛けていたが、湊にはよく分からなかった。どうやら、世間では有名女優の大麻保持が話題になっているらしい。
流れ行く車窓の景色を眺めながら、湊は首元のネックレスを握った。弟とお揃いのネックレスは、父の形見だった。そんなものにしか縋れない自分が嫌だった。
「あれ、検問やってますよ」
高速道路の手前、年老いたタクシー運転手が言った。
湊は顔を上げた。制服警官が誘導棒を振っている。夏の厳しい日差しの下、真っ黒に焼けた警官は
警官は運転手と一言二言話すと、湊の座った後部座席の窓を開けるように言った。湊は大人しく従った。
身分証の類を求められ、偽造パスポートを提示する。警官はパスポートを手に取ると、待つように言った。そのまま待機中の仲間を呼んで、品定めするように見遣った。
違和感を抱いたのは、その時だった。
湊がドアに手を掛けたその瞬間、制服を纏った警官たちが一斉に銃口を突き付けた。破裂音と共に銃弾の雨が降った。タクシーの装甲は穴だらけになり、窓硝子は粉々に砕け散った。
凄まじい銃撃に頭が真っ白になった。タクシーの運転手が銃弾を浴び、水から上げられた魚のように激しく震える。車内は一瞬で血塗れになっていた。
湊はダンゴムシのように身を丸めていた。それしか出来なかった。そして、突然、ボロボロになった扉が勢いよく開かれた。
夏の日差しが網膜を焼く。
点滅する視界の中、湊はエメラルドの瞳を見付けた。
「
エメラルドの瞳が、不敵に笑う。
ノワールが、来たんじゃないかと。
助けに来てくれたんじゃないかと。
けれど、その髪は太陽の下で
「ペリドット……」
湊がその名を呼ぶと、ペリドットは手を差し伸べた。
その時になって、湊は辺り一帯がパニック状態に陥っていることに気付いた。検問所の警官がタクシーを取り囲んで発砲し、何者かに襲撃されたのである。辺りからは耳を貫くような悲鳴と、濃密な血の臭いがした。
ペリドットは湊の腕を引っ掴んだ。混乱し暴徒と化した群衆の中に
目的地不明のまま、縺れる足を必死に動かした。手を引くペリドットは振り返らないし、立ち止まりもしない。ミサイルみたいにぐんぐん進む背中に、湊はノワールを重ね見た。
ノワールは、何も言わずに消えた。
手掛かりや書き置きも無く、連絡も取れない。パスポートの履歴からこの国に戻ったことは分かったが、目的や居場所は全く不明である。
途中のコインパーキングで、赤いポルシェに乗った。湊は破裂しそうな心臓を宥めながらポケットを探った。其処にあったはずの携帯電話が無かった。タクシーに落として来てしまったらしい。
ニューヨークを離れる前に連絡してから12時間。この国では何が起こっているのか。ノワールは無事なのか。
「公安の動きが相当怪しくなって来たぞ」
「公安が怪しくない時なんて、無いだろ」
息も絶え絶えに答えると、ペリドットが笑った。
彼は国家公認の殺し屋で、公安の切り札である。そんな男がどうして自分を助けに来てくれたのか、見当も付かない。
「公安の中じゃ、お前は
「さっきの警官たちは何だったの」
「さあな。警官じゃねぇことは、確かだ」
警官じゃないのに検問を掛けられるのか。
比較的治安の良い国だと考えていたが、白昼堂々銃撃戦なんて、まるで紛争地じゃないか。この国はどうなってしまっているのだ。
「お前、何かヤバいカード持ってんだろ。真昼間からドンパチするような奴等が欲しがるカードをさ」
湊は目を眇めた。
それは、恐らく父の遺したフィクサーのリストだろう。湊にとっては無意味な品であるが、それを欲しがる不遜な輩はこの世界にごまんといる。
原本は母国に隠して来たけれど、データは暗記している。今の自分は生きたUSBメモリである。
ペリドットは滑らかな動作で車を発進させた。乾いた冷風が頬を撫で、湊は顎から滴る汗を拭った。
「この国は司法の下僕だ。国民を番号で管理して、情報操作するようなディストピアに成り掛けてる」
「まるで鎖国だね」
「似たようなもんさ。大体、12時間も空の上じゃ待ち伏せされて当然だ。壁に耳あり障子に目ありって言うだろ」
「メアリー?」
「なんで日本に戻って来た?」
湊の問い掛けを鮮やかに無視して、ペリドットが尋ねた。
海を渡る高速道路の対岸に、緊急車両の回転灯が列を成しているのが見えた。空からヘリコプターの音が聞こえる。
「ノワールが、」
その名を口にした瞬間、首を絞められているみたいに息が詰まった。必死に押し込んで来た不安と恐怖が風船のように膨らんで、破裂してしまいそうだった。
湊の言葉の先を
「あいつに何かあったのか?」
詳しく話せ、とペリドットは横目で凄んだ。
何を話せば良いのか。湊はとっ散らかった頭の中で情報を掻き集めた。ノートパソコンも携帯電話もタクシーに置いて来てしまったし、浦島太郎になった心地だった。
湊は唾を呑み込み、シートベルトを握り締めた。
「ノワールがいなくなったんだ」
「いなくなった?」
「俺、ノワールと一緒にアメリカにいたんだ。SLCの薬物の影響を抑える薬を、作る為に」
何処から話せば良い。何が正解だ。どうしたら良い。どうしたら、ノワールに届く。
湊が頭を抱えて俯くと、ペリドットが言った。
「あいつはどの段階にある?」
湊は顔を上げた。
どういう質問だ。まるで、ペリドットは初めから分かっていたみたいだ。
ハンドルを握るペリドットは、仮面のような無表情だった。
「俺達に使われていたのは、脳味噌をぶっ壊してお人形にする為の薬だったらしいな。効果には個人差があって、拒絶反応ですぐ死ぬ奴もいれば、人格崩壊する奴もいる」
どうして、それを。
湊は呆然と問い掛けた。
「知ってたの?」
「当たり前だろ」
ペリドットは自嘲するように、吐き捨てた。
「俺はそれを知る為に、ペリドットの名を継いだんだ」
ペリドットは国家公認の殺し屋で、基本的にはスカウトで襲名する。では、誰が彼をスカウトしたのか。
立花は先代ペリドットと会ったことがあるらしいが、それでもこの男のことは全く分からなかった。
ペリドットは復讐者である。
その矛先が何なのかずっと分からなかった。けれど、本当に知るべきことは復讐の標的ではなく、動機だったはずだ。湊は彼のイデオロギーというものを軽視していた。ペリドットと言う男を見縊っていたし、見誤っていた。
「お前、医者の息子で脳科学の研究者だったらしいな。ゼロの研究データを何に使った?」
「……ブラックの効果を抑える薬を作る為に」
「それは、完成したのか?」
湊は唇を噛み締めた。
嘘や隠し事をする理由は無かった。ただ、口にするのが怖かった。
「試作段階だ。臨床試験は、出来てない」
効果があるのかどうか、分からないのだ。
科学は常に代償を求める。そして、そのリスクを科学は支払ってくれない。湊はそれを痛い程に知っている。
父の遺したデータが無意味になるのも、自分の手で大切な人を傷付けるのも、怖かった。そうして二の足を踏んだ結果が今だ。
湊が俯いた時、大きな手の平が頭を撫でた。
「効果を抑えるってことは、治療とは違うんだな? あいつはどうなる」
湊には、答えられなかった。
この残酷な事実を告げた時、ペリドットは、ノワールはどうなってしまうのだろう。そして、言葉にした時、湊は自分を保っていられる自信が全く無かった。
まるで、空の向こうに放り出されたみたいだった。
そのままバラバラになって、
もう止めてくれ。
もうこれ以上、俺から奪わないでくれ。
湊は答えないまま、シートの上で膝を抱えた。溢れそうな嗚咽を噛み殺し、息を止めて感情の波が去るのを待った。
エンジンの音が、父とサーフィンした海の音に重なって聞こえた。エメラルドの海の向こうで、父が笑って手を振っているような、そんな有り得ない夢を。
「閉じ篭って心静かにいられるなら、誰も苦しみはしなかっただろうさ」
ペリドットは逃避を許さない。
ノワールとは違う。当たり前だ。
「家族の為なら何でも出来るって言ってたな。俺もそうだよ。誇りも人間性も、とっくに捨てたんだ」
吐き捨てるように、噛み締めるようにペリドットは言った。
「あいつが笑ってられるなら、俺は地獄でも良かったんだ」
まるで、いつかの自分を見ているようだった。
湊は顔を上げた。心臓がズタズタに切り裂かれているみたいだった。そして、口を開いたその時、ペリドットの携帯電話が鳴った。
17.名前のない地獄
⑹
携帯電話が場違いに明るい音を奏でた。
ペリドットはハンドルを握ったまま懐に手を伸ばすと、それを取り出して湊に投げ渡した。
「俺は今出られねぇ。お前が出ろ」
湊は目元を擦った。
ディスプレイに表示されているのは、非通知の文字だけだった。湊は恐る恐るとディスプレイをタップし、それを耳に当てた。
『何処にいる?』
開口一番に問われて、湊は
頭の中は泥でも詰まっているみたいに重く、動かない。何を答えたら良いのか分からないまま、湊はスピーカーを切り替えた。
ペリドットはフロントガラスを睨んでいた。
丁度、県境を通り過ぎた所だった。スピーカーの向こう、若い男の声が機械のような抑揚の無い声で言った。
『奴が出たぞ』
その瞬間、ペリドットの口角が釣り上がった。
「場所を送れ。すぐに向かう」
『分かった。……それから』
何かを言い淀むように、若い男の声が沈む。
聞き覚えのある声だった。誰だったのか思い出せない。記憶力には自信があったのに、今の自分は役立たずのお荷物だ。
『銃を所持した若い男を連れてる。二十代前半、黒髪に緑の目』
何の話か分からない。だけど、湊はその特徴と一致する人間を一人しか知らなかった。
「ノワール……!」
通話中であることも忘れて、湊は呟いた。
ハンドルを片手にペリドットが制した。何も言うな、と。
「そいつ等は俺の獲物だ。手を出すな」
通話を切れ、とペリドットが無言で言った。
湊は言われるがまま通話を遮断した。何がどうなっているのか全く分からない。
通話の切れた携帯電話を返すと、ペリドットが言った。
「今のは公安の刑事で、
言われて漸く、理解した。
「俺たちの親父が殺されたことは、知ってるな?」
「……ノワールに聞いた」
「俺はその殺人鬼をずっと探してたんだ」
ペリドットは速度を緩め、横目に見遣った。エメラルドの瞳は夏の日差しの下、刃のように鋭く輝いている。
「親父はSLCってカルトに嵌ってな、俺たちは新薬の実験台にされた。……馬鹿なクソ親父だった。俺は毎日殴られて、死ぬような思いして、親父を憎んでた。それなのに、親父は新薬の危険に気付いて、SLCを脱退しようとしたんだ」
それは、ノワールの知らない真実だった。
ノワールは父親からの虐待を鮮明に覚えていた。けれど、その背景で何が起きていたのか、父親が何をしようとしたのか、知らなかったのだ。
SLCという組織を、湊はよく知っている。
科学による人類の救済という妄言を掲げ、信者を社会的に孤立させ、独自に開発した新薬を大量に投与する。そして、脱退の意思を示した者に対して苛烈な虐待を行い、徹底的に追い詰めるのだ。
「或る日、SLCの殺し屋が来た。死神みてぇに陰気な大男だった。銃口を突き付けられて、俺は弟を守ろうとした。そして、銃声が聞こえた時、撃たれたのは親父だった」
「……庇ったって言うの」
「変な話だよな。俺達を目の敵にして暴力振るって来たあのクソ親父が、最後の最後に俺たちを庇ったんだ。理由は知らねぇ。もう訊く術も無い」
憎しみなんて長くは続かない。
いつか、そう語ったのは母だった。
最後に残るのは、愛なのだと。
「其処に一人の刑事が来て、そいつを撃った。人の良さそうな顔をした公安の刑事で、
「……神谷?」
神谷は、翔太の苗字だ。まさか。
ペリドットが、噴き出すみたいに笑った。
「奇妙な因果だよな。俺たちを助けてくれたのは、あの番犬の父親だった」
あまりのことに言葉が出て来なかった。
こんなことが、あるのか。起こり得るのか。
「俺は弟と一緒に施設に入れられたが、投与されたSLCの薬は将来的に重篤な影響を齎すことを知っていた。だから、それをどうにかする為に施設を抜け出して、裏社会を
ペリドットの誕生秘話といった所だろうか。
翔太の父、神谷隆志。どんな人だったのか知らない。会うことも無い。けれど、その話を聞いていると、湊にとっては正体不明の殺し屋であるペリドットが、
ペリドットにも過去はあるだろう。
だけど、それはノワールだって同じだった。
此処にノワールはいない。だからこそ、湊が言うべきだった。それが例え、ペリドットの呪いになったとしても。
「……どうして、ノワールを連れて行かなかったの」
「お前なら、連れて行くか? 地獄と分かっていながら、弟を巻き込むか?」
違う、そうじゃない。
湊だって、危険と分かっていたら弟を遠去けた。そういう方法しか知らなかった。だけど、ノワールは。
ノワールは……。
「アンタが施設を出た時、ノワールは6歳だった。その施設がどんな所だったのか、アンタは知らないだろ……!」
こんなことを言ったって仕方ない。意味が無いなら口を噤む。湊は今までそうして生きて来たし、意図して他人の過去の行いを責めたことなんて無かった。
だけど、ペリドットには教えなければならない。
知らなかったということが、大きな傷として残ることを湊は知っている。
「SLCは孤児院を対象に新薬の人体実験をしていたんだ! アンタがいなくなった後、ノワールはずっと……、」
ノワールはずっと、新薬を投与されていた……。
湊には、その言葉を告げることが出来なかった。口にしようとすると息が詰まって、悔しくて、遣る瀬無くて、苦しくて
怒りたいのか、泣きたいのか、湊自身判別出来なかった。
言葉を紡ごうとする度に、涙が溢れた。涙腺が壊れてしまったみたいに、涙が止まらない。
「ノワールの脳スキャンを見たよ。……虫に喰われたみたいに穴だらけで、萎縮してた。いつ頃から進行したのかは分からないけど……」
湊の作った薬は、症状を緩和するだけだ。
破壊された脳は元に戻せない。
亡くなった父が、口癖みたいによく言っていた。
希望がある、希望がある、希望がある、と。
窮地でこそ、叫べ。もう駄目だと思う時こそ立たなければならない。――だけど!
湊は科学者だ。非科学的なものは信じない。
奇跡なんて、この世には無い。あるのは必然だけだ。
湊は膝に顔を埋めて、涙を隠した。
その時、ペリドットがどんな顔をしていたのかは見られなかった。信じるだけで救われるなら、この世に医療なんていらなかった。奇跡で済むなら、科学は発展しなかった。
祈りの言葉なんて知らないし、崇拝すべき神の名も知らない。だから、湊は奥歯を噛み締めて顔を上げた。
立ち止まって守れるものなんか何も無い。
そう教えてくれたのは、他でもないノワールだったから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます