⑽指切り
航空自衛隊基地の滑走路は、真夜中の墓場みたいな静寂と湿気に包まれていた。南の風が頬を撫でる。
湊はノートパソコンを膝に置き、アスファルトの帯を眺めながら頬へ手を伸ばした。ガーゼの下が不自然に膨らんでいる。湊はそれを剥がし、中からUSBメモリを取り出した。
航と再会した時、渡されたのだ。湊はネット回線を切断し、弟が運ばされた
中に入っていたのは、世界を牛耳る裏の重鎮、フィクサーの名簿である。派閥や所在、功績等、データは多岐に渡る。こんなものをどうするつもりだったのかなんて今では知ることも出来ないけれど、それは確かに世界を揺るがす大変なデータであった。
情報と言うものは、需要に応じて価値が変わる。
湊にとっては、それは取るに足らない他人の名簿でしか無かった。それよりも重要なのは、暗号に守られたファイルだった。
SLCが人体実験によって開発した薬物、ブラックの解析データである。薬物の成分、効果、後遺症と医学的なアプローチ。湊は時間を忘れて、それを読み込むことに没頭した。
ブラックとは、脳の扁桃体を破壊し、人を操る為の薬物である。大学で脳科学を専攻していた湊にとって、それは堪え難く醜悪で、冒涜的な悪魔の薬だった。
頭の中に幾つもの化学式が浮かび、臨床データからシミュレーションする。血清や解毒剤の類は存在しない。開発は、症状の進行を和らげることが目的になる。
破壊された脳は元に戻らない。この薬で破壊された脳は元通りにならないのだ。それはつまり、立花や翔太、ノワールを救う手立てが無いということだった。
絶望感に目の前が暗くなり、指先から血の気が引いて行く。
瞼の裏に蘇る、家族の肖像。何も知らず幸せだった頃の思い出。手を差し伸べてくれた友達。失いたくないと思う程に遠去かり、抱え込む程に息苦しくなるのは何故なんだろう。
泣いたら、駄目だ。今はその時じゃない。泣いてすっきりするくらいなら、怒ってフラストレーションを溜めた方がエネルギーになる。
湊はUSBメモリを外した。リュックの中から白いタンブラーを取り出し、中に入れる。呼吸を整えながら、ノートパソコンをアンダーウェブに繋げた。
ウェブ界隈はお祭り騒ぎである。他人の不幸を喜ぶ怠惰な亀共が呑気に快楽を貪り、弱者を餌にして笑っている。こんな奴等は全員死んでしまえば良いんだ。戦争に駆り出されて、代謝のように消費されてしまえば良い。
湊は奥歯を噛み締めて、キーボードを操作する。
と、その時。
「泣かないのか?」
感情の全てを取り払った冷静な声が背中に突き刺さる。
湊は振り返らなかった。此処で撃たれて死ぬのならば、それでも良かった。けれど、立花蓮治と言う男がそんな甘い人間ではないことも知っていた。
「泣かないよ」
湊はノートパソコンを睨んだまま、キーボードを叩いた。
まだ、終わってない。何も成し遂げていない。死んで世界を変えるより、生きて家族を守る。
大衆の義憤を煽り、情報の海を泳ぐ。両親の死を悲劇として、世界各地に吹聴して回る。自分に同情を集め、他人を煽動する。それは父が最も嫌う、卑怯な手段だった。
父は英雄だった。
生きて英雄となり、死んで世界を守った。そんな父が大好きで、嫌いだった。英雄じゃなくっても良かったんだ。ただのお父さんで良かったんだよ。
両親は全身全霊で自分達を守り、愛してくれた。
両親が死んだ今、自分がやるべきだ。父がやろうとしたことを引き継ぎ、母がしてくれたように家族を守ろう。
情報の主導権を握れば、後は詰将棋である。
相手がテロリストでもフィクサーでも、社会的正義が無ければ糾弾は免れない。情報が枯渇すれば孤立する。真綿で首を絞めるように、少しずつ、確実に息の根を止めてやる。
テロリストに告ぐ。
何処に逃げようとも、俺が必ず裁きの場へ引き摺り出してやる。名誉の死なんて許さない。英霊になんてさせない。
何度でも、死刑台に送り返してやる。
凄まじい勢いで情報が拡散されて行く。まるで性質の悪い伝染病みたいだった。
「親父が言ったんだ。笑ってろって」
国家間のファイアウォールを崩して行く。
情報を餌にコンピュータウイルスをばら撒き、経済の中枢を麻痺させる。可能な限りの罠を仕掛け、誘導し、陥れる。銃器なんて無くても、他人を抹殺するなんて簡単だ。
「この世で一番強い奴は、笑うんだ」
泣いて解決することなんて何も無い。出来ることから一つずつ乗り越えて行くしかない。それが途方も無く遠い道程であっても、いつか届く。
「……復讐は、望まないのか?」
立花が、言った。
いつの間にか隣に立っていた。彼がこうして此処にいるということは、近隣の脅威は殲滅したのだろう。湊は立花が死ぬかも知れないと分かっていて、彼を
「お前の望みなら、ただで引き受けてやっても良い」
どういう取引だ、それは。
ただより高いものは無いと、
湊はつい、笑ってしまった。両親が死んでから、久しぶりに笑ったような気がする。弟と再会してからも気を張りっぱなしで、息継ぎをする余裕も無かったのかも知れない。
「復讐は望まないよ。親父が願ったのは、誰も殺されない世界だ」
自分だって、そう願っていた。
誰も死なないで欲しい。生きていて欲しい。
目の前で助けを求める人がいれば、勝手に体が動き出すような、そんな人の善性を信じて生きて行けたら幸せだった。
「それで、良いのか」
「死んだ人の意思を確かめる術は無い。だったら、解釈するしかない。少しでも救いのある方へ」
何か、ある筈だ。
例え、現状が最低最悪で
「俺が泣いたら、両親の死は本当の悲劇になる」
俺はもう、眠らせてやりたいよ。
湊が言うと、立花は黙って隣に座った。湊はノートパソコンを閉じて空を見上げた。滑走路の空は遮蔽物が無く、何処までも広く、まるで宇宙にいるみたいだった。
家族で星空を眺めたあの夜は、もう二度と来ない。
「俺にはやることが出来た。近い内に、事務所を出る。葵くんにも言っておくから、それまでの契約は破棄してくれて構わない」
「……」
「次に会う時、敵でないことを、切に祈る」
フィクサーと渡り合うだけのコネクション、父のやり残したこと、ブラックの特効薬の開発。それはこの島国では成し遂げられないことだ。
まずは、何をしようか。
母国に帰って、両親の墓参りをしよう。
花を買わなければ。立花を動かせば翔太を守ってくれる人がいなくなるし、此処に滞在すれば航が危険に晒される。
一人で行けるかな。ああ、ノワールに相談してみようか。もしも彼が来てくれるなら、心強いのだけど。
「契約を更新しようか、蜂谷湊」
初めて名前で呼ばれたな、と思った。
立花の金色の瞳は星のように輝いていた。
「俺がお前の味方になってやる。だから、対価として覚悟を寄越せ」
湊は笑った。
「どんな覚悟?」
「絶対に生きるって、覚悟だよ」
死ぬつもりは毛頭無い。生きなきゃいけない。
誰かの為ではなく、自分が自分である為に。
湊はノートパソコンをリュックに押し込み、小指を差し出した。
「Pinky promise. 日本にも、ある?」
「指切り拳万、嘘吐いたら針千本呑ます」
「怖いな」
湊は肩を竦めた。立花が小指を差し出す。
大人と子供の手だった。絡めた指先は、カサ付き、節張っていた。頑張って来た手だと思った。
「Cross my heart and hope to die, stick a needle in my eye」
「英語も十分怖ェよ」
嘘を吐いたら死ぬことを誓い、針を自分の目に刺します。
立花は苦く笑うと、静かに言った。
「痛くないように、一瞬で殺してやるから」
それが立花の優しさであることも、知っている。
不器用な男だった。本来は誠実で優しい男なのに、それを表現する方法を知らないのだ。誰にも守られず、愛されず、
けれど、湊は立花蓮治と言う男が嫌いではなかった。彼は一度も嘘を吐かなかったし、優しかった。
「約束だよ? 沈む時は、一緒だ」
俺はもう、立花の望むような子供ではいられなかった。
彼の過ごせなかった幸せな幼少期というものを、側で見せてやりかたった。だけど、もう駄目なんだ。ならばせめて、彼の地獄に花を添えよう。
ノワールに連絡をしよう。
彼が来てくれるなら、心強い。ああ、携帯電話が無いな。
そんなことを思っていたら、急に瞼が重くなった。張り詰めていた糸が解け落ちて、己の意思とは別に体が休息を求めて活動を停止して行く。
寄り掛かった体は、温かかった。
生きている人の温もりだ。心臓の音がする。
命の気配を感じながら、湊はそっと意識を手放した。
15.トーチカ
⑽指切り
航を笹森一家に預けてから、翔太は行き場も無く事務所に戻って来た。灯りの消えた室内はしんと静まり返り、何処か寒々しかった。時計の秒針の音を聞いている内に夜は明け、騒々しく、
明け方近く、立花が湊を背負って帰って来た。
中々見られない光景だ。翔太が駆け寄ると、湊は立花の背中で穏やかな顔をして寝息を立てていた。
寝ている時は、本当に天使のようだった。けれど、この子供が弟を守る為に何人もの敵を罠で殺害し、立花さえ囮に使う非情な選択が出来る子供であることを知っている。
テレビのワイドショーでは、アメリカのトップが記者会見で中東のテロリストを粛清する為に軍事的行動を取ると話していた。海の向こうで起きたはずの悲劇はこの島国にも飛び火し、何処からか潜り込んだテロリストの一端が繁華街で銃撃戦と爆弾テロで多数の死傷者を出したことも知っていた。
世間はテロを許さないと義憤に駆られ、アメリカのトップを支持している。――けれど、その裏側で起きていたことを知るのは、本当にごく僅かな選ばれた人間だけなのである。
第三次世界大戦を推進するフィクサーと、それを押し留める穏健派フィクサーの派閥争い。その中心にいるのは、天使のように眠る18歳の子供である。
湊の青白い寝顔を見ていると、泣きたくなる。
家族の幸せを願った子供が、戦争の火種として祭り上げられる。それは翔太にとって、叫び出したい程の理不尽で、不条理だった。
「熱があるんだよ」
立花が、言った。
湊を背負ったまま机の
「一人で色々動き回ってたみたいだから、疲れたんだろ」
立花はそう言って湊にブランケットを掛けてやると、そのまま冷蔵庫から手の平程の桃を取り出して見せた。
「起きたら、剥いてやれ」
翔太が頷くと、流石の立花も疲れたのか一人掛けの椅子に凭れて座った。そのまま寝てしまうんじゃないかと思っていたが、立花は
「……こいつは、復讐はしないって言ってたぞ」
そうだろうな、とは思っていた。
湊はそういう子供ではない。この子は復讐が不毛であることを、理性的に理解している。だけど、感情として復讐者に共感も出来る。そんな子が復讐を選ばなかったということは、彼の理性は今も生きているということだった。
翔太には、それが悲しかった。
湊も、航も泣かなかった。泣く余裕が無かったのか、対外的な理由があったのかは分からない。だけど、親を理不尽に奪われた子供が泣きもせず、地獄の道を進むのを側で見ていることしか出来ないのは、悔しい。
「時々、思う」
立花が言った。今にも眠り落ちそうな低い声だった。
「悲劇は復讐者も生むが、
そう言ったきり、立花は黙ってしまった。
寝たのかも知れない。翔太は立花にもブランケットを掛けてやり、湊の寝顔を眺めていた。
そうしている内に寝入ってしまい、気付くと夕方だった。湊は相変わらず眠っていたけれど、立花はもういなかった。
ベッドサイドテーブルに体温計が置かれていたので、湊の検温をしたら、40℃近くて驚いた。
夜半に漸く目を覚ましたと思ったら酷い顔色だった。医者から処方された解熱剤を手渡したが、湊は断った。翔太が病人食の代わりに剥いてやった桃を、口に入れた瞬間に胃液ごと嘔吐した。
心身共に疲れ切っていることは、明白だった。
げえげえと嘔吐する湊の背中を
ヒーローでなくても、良いんじゃないか。
ただの子供でいても、良かったんじゃないか。
全部捨てて、投げ出して、諦めて、逃げてしまっても良かった。けれど、湊はそれをしない。
一頻り嘔吐して落ち着くと、湊は土気色の顔でベッドに横たわった。剥いてやった桃は茶色く酸化していた。
熱は下がったようだが、薬も受け付けず、何も食べられない。弱り切った湊を見ていると、遣る瀬無くて、不甲斐無くて、誰かに八つ当たりしたくなる。
「何か、俺にして欲しいことあるか」
翔太が尋ねると、湊は力無く笑った。
「そのままの君でいてね」
俺に出来るのは、その程度かよ。
湊はいつもそうだ。自分は地獄に堕ちても、翔太には逃げ道を残してくれる。深みに
掠れた声で湊が言った。
「……近い内、この事務所を出るから」
濃褐色の瞳は天井をぼんやりと見詰めていた。
深く息を吐き出すと、湊はそのまま眠ってしまいそうだった。
「やらなきゃいけないことがあるんだ」
「……それは、俺には手伝えないことか?」
湊は少しだけ考えるように黙ってから、潤んだ目で言った。
「蓮治を独りにしないで」
それは、願いだったのか、祈りだったのか。
翔太には分からない。だけど、湊が決めたことを変えるのは、もう誰にも出来ないということだけは確かだった。
「……歩いて行く道は違っても、俺は君の命綱になるから」
何処にいても、必ず君を守るよ。
蕩けそうな微笑みで、湊が言う。
「君が助けて欲しい時には、必ず力になる」
そうだ、と言って、湊はサイドテーブルからノートパソコンを引き寄せた。室内は静寂に包まれ、起動音ばかりが唸るように響く。湊はキーボードを操作すると、地図を映し出した。
「君の家族のお墓、ちゃんと見付けたよ」
それは、首都圏から遠く離れた山奥だった。翔太が昔住んでいた閉鎖的な田舎町。その片隅の墓地に、家族は眠っているらしい。
日本では遺体を火葬することが殆どだが、湊の国では土葬が主流らしい。神を信じないこの少年が、死者の冥福を祈るというのは何だかちぐはぐで、不思議な感じがした。
「いつか、君が行っても良いと思う時が来たなら、行くと良い。その時は、蓮治も連れて行ってあげてね」
「何でだよ」
「仲間外れは、可哀想じゃないか」
湊は戯けて言った。
翔太が答えずにいると、湊は静かに目を閉じて、今度こそ本当に眠ってしまった。
俺は、お前の為に何もしてやれなかったな。
寝息を立てる湊の横顔を眺めながら、翔太はそっと拳を握った。お前が俺を守るって言うなら、俺だってお前を守るよ。
フィクサーの孫でも、ヒーローの息子でも、殺し屋の事務員でも、何でも良かったんだ。
独りぼっちの俺に手を差し伸べてくれて、人殺しの俺と一緒に汚れてくれたのは、お前なんだ。
「Hallelujah, hallelujah, hallelujah...」
不意に零れ落ちたのは、湊がよく
Halleujah ――神様、万歳。
自分達に神はいなかったけれど。
湊と立花と過ごした日々が瞼の裏に蘇る。
あの日々は、きっともう、二度と来ない。
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