⑺盾と矛

 立花の懐から虫の羽搏はばたきのような音がした。小さな舌打ちと共に取り出されたのは黒い携帯電話だった。

 立花はディスプレイを確認すると、翔太に目配せをした。そして、指先でディスプレイを叩き、苛立ったような声で応えた。




「どうなった?」

おおむね、順調』




 スピーカーの向こうから、ミナの声がした。

 澄んだボーイソプラノにほっとする。どうやら、立花は通話を聞かせてくれるらしい。




『ショータはいる?』

「ああ」

『無事で良かった。依頼人には会えた?』

「ああ。もう、会うことも無ぇけどな」




 ミナは、驚かなかった。

 一言だけ相槌を打ち、そのまま続けた。




『将棋をしよう、レンジ』

「……いいぜ。どのくらいハンデがいる?」

桂馬けいまはレンジにあげる。だから、ぎょくの囲いを崩してみせてよ』




 何のことか分からない。

 二人は以前、目隠し将棋をしていたが、まさかこの状況で始めると言うのだろうか。




美濃囲みのがこいだよ。飛車ひしゃの動きに注意してね』




 立花は顎に指を添えて、一人納得したような顔で頷いた。




「分かった。こっちは任せろ。……だから」




 立花は言葉を躊躇ためらった。珍しいことだった。

 顎の具合を確かめるみたいに口籠くちごもり、立花は言った。




「油断すんなよ」




 誰に言ってるんだよ、なんてミナが軽口を叩く。

 それまでの異様な緊張も殺伐とした空気も、彼が笑うと途端に消えてしまう。そういう子だった。


 また後でね、とミナは英語で言うと、通話を切ってしまった。すぐに携帯電話にメッセージが届く。添付されたファイルはテレビの砂嵐みたいに画像が崩れてしまっていた。


 立花は溜息を吐いて、携帯電話を懐へ戻した。

 全く状況に付いていけないまま、翔太は説明を求めて立花を見遣った。立花は閑散とした街の静かな雑踏を眺め、独り言みたいに口を開く。




「通話は盗聴されてる」




 分かっている。ミナが意味深な言葉を選ぶということは、そういうことだろう。ミア・ハミルトンの盗聴に備えて将棋の話を持ち出したのだろうが、翔太はルールをよく知らなかった。

 駒の数も動き方も分からない。だが、王将を取られたら負けということは知っている。




「桂馬って何だ?」




 翔太が訊いても、立花は笑って答えなかった。


 煙草が吸いてぇな、と立花が零した。しかし、立花は翔太の返答を待たず、砂嵐の画像を眺めていた。

 眉間に皺がぎゅっと寄っている。雨の気配に湿度が上がるように、立花の苛立ちが空気を冷たくして行く。だが、彼の気分転換になるような物は此処に無い。嵐の前の静けさに似た不穏な雰囲気の中、立花は盛大に溜息を吐いた。




「なあ。……これ、読めるか?」




 立花は不貞腐ふてくされたような顔付きで、携帯電話のディスプレイを差し出した。其処に映っていたのは先刻と同じ灰色の砂嵐である。だが、じっと見詰めていると、其処に何かの文字が浮かび上がっているのが見える。




「2……六……歩」




 数字と漢数字が入り混じっているので判別に時間が掛かった。読み上げたと同時に、気付く。これは将棋の用語で、恐らく棋譜きふのことだ。ミナは本当に目隠し将棋をするつもりなのだ。

 立花は口角を釣り上げた。




「歩は襲撃犯共のことだ。雑魚はミナに任せてある。他には?」




 砂嵐の中に文字が浮かぶ。注視し過ぎて目が痛くなって来たが、無視出来ない。これはきっと、ミナからの情報なのだ。

 立花は暗号が解けるけれど、読むことが出来ない。翔太は読めるけれど、解読出来ない。だから、二人でなら何とかなる。




「3、六、飛車。4、七、玉」

「近ェな」

「どういう意味だ?」

「飛車はペリドット、ぎょくはゲルニカだ」




 近いということは、暗殺の危険が迫っているということだ。

 携帯電話が震えたので、翔太は驚いた。ミナからの新規メッセージで、界隈の正方形の地図が表示されていた。

 立花は画像を眺めると、ゲルニカの居場所が分かったと言って歩き始めた。地図は棋譜と対応しているらしい。器用な子供である。


 ミナの言っていたことを思い出し、翔太は散らばった点が繋がるような閃きを抱いた。


 玉――ゲルニカは何処かに立てもっている。

 立花にそれを崩せと言っていたのだ。

 そして、飛車――ペリドットが近付いているから注意しろと。


 回りくどいけれど、サイバー攻撃を受けて、自分たちに迫る襲撃犯を抑えながら、ゲルニカの居場所を特定し、盗聴されていることを懸念して暗号で伝えて来たのだ。ミナは十二分の仕事をしている。文句など言えるはずも無かった。


 立花は競歩のような早足で雑踏を通り抜けながら、翔太には目も向けずに言った。




「銃は脅威だが、使うのが人間である以上ミスは起こる。例え、それが国家公認の殺し屋であってもな。お前でも躱せる」

「どうやって!」

「銃弾に追跡機能は付いていない。的を絞らせるな。軌道は直線なんだ」




 立花は簡単に言うけれど、そんな芸当は一般人の自分には無理だと思った。だけど、立花が続けた言葉に、翔太は何の反論も出来なかった。




「ミナは躱したぞ」




 そうだ。

 ミナは、躱した。

 狙撃位置、タイミング、人の動き。凡ゆる情報から総合的な判断をして、ミナは立花の狙撃を躱してターゲットを守った。


 大丈夫。

 この世の終わりじゃない。

 ミナの声が、聞こえた気がした。




「俺は復讐の依頼は受けねぇ。当事者でもないのに、他人の不毛な因果に巻き込まれたくねぇからな」




 立花は足を止め、振り向いた。

 闇の中で金色の瞳が煌々と光る。それはまるで、闇夜に浮かぶ満月のようだった。


 立花にとって、復讐なんてものは他人の因果でしかない。どんな大義名分があっても、それは非生産的な行為なのだ。

 それは立花の価値観だ。依頼人と殺し屋は公平な関係のはずだった。だから、依頼人というだけで踏ん反り返ったり、権力を笠に着て見下して来る人間が気に入らない。


 あの男は立花の逆鱗に触れた。

 ただ、それだけのこと。


 だけど、依頼人を殺してしまって、立花は何の為に銃を握るのだろう。問い掛けることは、無かった。翔太は知っていた。


 地獄にも花が咲くことを知っている。

 ミナの言葉だった。立花は、それをずっと待っている。

 暗く淀んだ沼の底から咲き出でる一輪の花を、ずっと待っている。








 11.ゲルニカ

 ⑺盾と矛









 那賀川金治郎の別宅は、閑静な住宅街の中のエアポケットみたいにぽつんと立っていた。デザイナーズ住宅のような建物はコンクリート製の箱みたいで、味気無く、何処か刑務所のような印象を与える。

 時刻は午前零時を過ぎたところだった。出歩く人はおらず、活動するのは夜行性の蛾や、それを餌にする蜘蛛くらいのもので、辺りは不気味に静かだった。


 地下道から抜け出した時、空がとても綺麗な紺色をしていることに驚いた。汚染されていた空気も、地下道の腐臭に比べればずっと澄んでいる。

 すすを落とすようにしてスーツを叩く立花に倣って、翔太も気休めにダウンジャケットを叩いた。腐臭と湿気を吸い込んだジャケットは随分と草臥れて、使ったまま放置した雑巾みたいな臭いがした。


 墓場のような静寂を守る邸宅には黒い鉄の門扉があり、侵入者を拒んでいる。据付けられたインターホンを素通りし、立花は裏手に回った。

 邸宅の明かりは尽く消され、人の気配は無い。裏口の扉も施錠されている。立花は懐から捻れた針金を取り出して、鍵穴を弄っていた。


 コソ泥みたいだ。

 翔太は呆れてしまった。




「それも殺し屋の必須スキル?」




 立花は笑った。同時に鍵の落ちる音がして、扉は軋みながら開かれた。

 セキュリティが作動していないのは、恐らくミナが手を回したからだ。邸宅の明かりが消えているのも彼の仕業かも知れない。

 立花は勝手口も同様にピッキングして、足音も無く邸宅に侵入した。


 余りの手際の良さに感心してしまう。だが、ペリドットが迫っている今、それを追求する時間も無かった。

 勝手口は大きな台所に繋がっており、その先は絨毯の敷き詰められた廊下が何処までも伸びている。非常灯すら消えている室内は、墨を垂らしたような濃厚な闇に包まれていた。


 廊下には幾つか扉があったが、どこもかしこも貝のように固く閉ざされていた。立花は自宅でも歩くみたいにすいすいと足を進める。廊下を抜けた時、頭の上から月明かりが差し込んだ。玄関ホールだった。吹き抜けの天井には大きな窓があり、螺旋階段がわだかまる。立花は廊下の角に身を潜め、辺りを警戒しているようだった。




「血の臭いがする」




 苦渋を煮詰めたような声で、立花が言った。

 翔太には分からなかった。那賀川氏の別宅は化学物質みたいな新築の臭いがする。地下道を延々と歩いたせいか嗅覚も麻痺していた。


 立花は銃を取り出して構えながら、螺旋階段を睨んでいた。

 人の気配は無い。だが、ペリドットという殺し屋は、足音も気配も感じさせないのだ。


 ふと見上げると、天井の隅からコードが蛇のように垂れ下がっていた。蜘蛛の糸に絡め取られた獲物みたいに、黒い装置がぶら下がっている。

 監視カメラの残骸だった。割れたレンズの破片が絨毯の上に零れ落ち、月光の下で星屑ほしくずみたいに煌めいている。


 誰かが、いる。

 自分達よりも先にこの屋敷へ侵入した招かれざる客が。




「出て来い、ペリドット!!」




 立花の咆哮が静まり返った屋敷に木霊する。――その瞬間、金色の火花が壁に爆ぜた。

 白い壁を穿つ銃弾、立ち昇る火薬の臭い。全身が押さえ付けられているかのような強烈なプレッシャーが翔太を襲った。




「うるせェな」




 その声には、強い憎悪が滲んでいた。

 螺旋階段の上、月光に照らされ金色の髪が輝く。神秘的な雰囲気を漂わせながらエメラルドグリーンの瞳は相変わらず宝石のように輝き、温度が無かった。




「何しに来やがった、ハヤブサ」




 ペリドットは片手に銃をぶら下げて、攻撃も防御も捨てたかのような無防備な姿だった。敵意も殺意も感じさせない。けれど、其処にはマグマのように煮え滾る深い憎悪が感じ取れる。


 立花は廊下の角に身を潜め、銃を構える。




「ゲルニカを殺すのか?」




 身を隠したまま、立花は問い掛けた。

 室内は奇妙に静かだった。互いの喉元に刃を突き付け合っているかのような緊張感に、翔太は唾を呑み込むことすら躊躇ためらった。




「そういう依頼だ」




 突き放すような冷めた声で、ペリドットが答える。

 やはり、そうか。翔太は奥歯を噛み締めた。

 ペリドットは国家公認の殺し屋であるが、警察組織の一員ではない。彼には愛国心や忠義は無い。元々はフリーの殺し屋で、ゲルニカの暗殺を請け負ったのだ。


 では、ペリドットの依頼人は誰なのか。




「テメェの依頼主は誰だ」

「お前のところのぎょくが調べてねェのか?」




 ペリドットは不思議そうに言った。

 ミナは、把握していたのだろうか。国家内部の派閥争いだと言っていた。その通りならば、ペリドットの依頼主は国家ということになる。


 情報に誤りがあった?

 ミナはサイバー攻撃を受けていた。その中で、誤った情報を掴まされてしまったのだろうか。


 翔太がぐるぐると考えていると、立花が声を潜めて言った。

 それは優先すべき情報じゃない、と。

 ミナが正しかったのか、そうではないのか。今、優先すべきは目の前に立ち塞がるペリドットただ一人だ。どんな事情や大義名分があっても、それは変わらない。




「……五年前、ゲルニカは六歳のガキを殺した。下校途中に拉致し、この別宅に監禁。一ヶ月近く暴行を与え、最後は絞殺した。奴は遺体を切り刻み、自分の処女作だとアンダーウェブに画像を流したんだ」




 ペリドットの依頼主が、分かる。

 翔太は泣きたいような、叫びたいような、胸が潰れそうな息苦しさを覚えた。




「俺の依頼主は、そのガキの父親だ」




 喉の奥に重石でも詰まったみたいだった。

 ペリドットの気持ちが、翔太には痛い程に分かる。錆び付いた刃が心臓をずたずたに切り刻んで行くみたいだ。


 立花は静かに深呼吸をした。




「国家公認の殺し屋が、復讐の手助けか?」




 下らねぇ。

 立花が吐き捨てる。




「復讐に未来は無ェぞ」




 立花は復讐を請け負わない殺し屋だ。復讐は不毛な因果だと言っていた。確かにそうなんだろう。立花は正しいんだろう。だけど。


 ペリドットは答えた。




「違ェな。未来は過去の結果だ。清算しなきゃ、前に進めねェ奴もいる」

「死んだ人間は帰って来ねぇ。殺して罰するより、生きて罪を償わせろ。復讐で人殺しなんざ、不毛だ」




 乾いた笑い声が聞こえた。


 ペリドットが言った。

 お優しいね、と。


 自分を卑下するような、悲しい声だった。




「じゃあ、テメェの正義の後に何が残る? ゴミみてぇな人間のクソみてぇな悪行を許して、何が変わる?」




 相容れない二つの思想は断崖絶壁のようだった。

 二つを繋ぐ橋は無い。一本のロープすら存在しなかった。

 立花の正論と、ペリドットの感情。どちらが正しいかなんて答えは何処にも無い。




「俺は、罪には罰が必要だと考える。――家族には、幸せでいて欲しいからな」




 ペリドットが言い終えると同時に、立花の銃が火を吹いた。銃弾は天井の硝子を粉々に砕き、雨のように降り注ぐ。激しい銃撃戦は嵐のようだった。割れる硝子、穿たれる壁面、降り注ぐ月光と立ち昇る硝煙。天地が引っ繰り返るような苛烈な動乱の中で喉笛を引き千切るような殺気が迸る。


 壁が凄まじい勢いで抉れて行く。

 鼓膜を引き裂くような銃声。点滅する視界の中、翔太は目の端に妙なものを捉えた。


 螺旋階段の下、誰かがいた。

 赤い絨毯から土竜もぐらのように顔を覗かせて、戦々恐々と様子を伺っている。降り注ぐ硝子の雨の中、それは血の気の無い顔で笑っていた。


 ゲルニカだ。

 翔太は直感した。思い込み、勘違いとは思えない。その面は那賀川金治郎の面影を確かに残し、狐のように釣り上がった切れ長な瞳は、腐った沼のように淀んでいた。


 ゲルニカは頭上で繰り広げられる苛烈な銃撃戦の最中、二人の殺し屋を嘲笑うかのようにあなぐらを出て、闇の中へ消えて行く。螺旋階段の上に立つペリドットからは死角だ。




「立花!」




 翔太が叫ぶと、立花は金色の瞳を僅かに向けた。

 同時に銃弾が壁を穿つ。立花は翔太の視線の先を見遣り、状況を察したように頷いた。




「行け」




 酷く端的な、けれど的確な指示だった。

 立花が指先でカウントダウンする。ペリドットの弾切れの瞬間だった。翔太は闇の中に消えるゲルニカを追い掛けた。

 月光の下、ペリドットが躍り出る。だが、それは立花の銃撃によって阻まれた。


 銃声を聞きながら、翔太は闇に向かって走った。

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