⑹血の一滴
夜の街にハイヒールの音が響き渡る。
立花は、装弾を確認しながら耳を澄ませた。
界隈の地図は頭の中に入っていた。地区内の建物の間取り、地下道。それを繋ぐ凡ゆる出入口を想定する。優秀な事務員が三次元の地図を完成させたのだ。お蔭で事務所を起点に半径五キロは自宅の庭のように分かる。
ウィローが死んだと、あの子供は言っていた。
泣きたそうだったな、と立花は思った。泣けないことを悲しんでいるみたいだった。
ドブネズミ一匹の為に悲しんで、墓を掘る為に泥だらけになって、馬鹿だな。
命は代替される代物で、富や権力によって比重が違う。ましてや、たった一匹のドブネズミ。看取ってやれなかったと嘆くのは、平和な証拠である。
人の命を金に変える薄汚い自分には、到底出来ないだろう。
立花は重油を流したような黒い海を
夜目は利く方だ。
放射状に広がるスカートの
「暴走したな? スマイルマン」
銃口を突き付け、立花は吐き捨てた。
目の前で蹲るのは、スマイルマンと呼ばれる毒殺専門の殺し屋だった。全国的に毒殺事件が増えている。需要と供給に従っているのなら目を
この女は立花の領域を侵した。罰を与えなければ、バランスが崩れる。
スマイルマンは笑っていた。
「あれは毒よ」
立花はせせら笑った。
何を今更と思った。それが何を指しているのか、立花は知っている。
ミナという子供がいる。
フィクサーの孫で、ヒーローの息子。他人の嘘を見抜く能力を持ち、海外の新興宗教に狙われ、今はこの国に潜伏している。
馬鹿な子供である。愚かで、救い
出口の無いトンネルを、進み続けることが最善だと信じている。
先代のハヤブサから彼を預かった時、忠告されている。
あれは軍事的な争いの火種になる可能性を持った爆弾だと。それでも生かしているのは、使い方次第で全く別の存在にもなり得るからだ。
毒にも薬にもなる子供だ。
世界は微妙なバランスで成り立っている。政治、経済、軍事、IQ、人種。異なる階層を形成する社会の境界線が曖昧になり、相入れない思想はやがて武力行使に発展する。
秩序を守る為にはハヤブサという抑止力と、
俺達は共犯だね、とあの子は笑った。
彼にその意図は無かっただろうが、皮肉な話だ。
「毒を食らわば皿まで、だ。
瞼の裏に蘇る。
父の拳、母の怒声。施設の大人の腐った眼差しと、子供達の
この世は理不尽で不条理で欠陥だらけの欠陥品そのものである。ましてや、神なんてものは信じていないし、ヒーローに憧れるような情緒も立花は養われて来なかった。
「それが貴方の正義?」
スマイルマンが問い質す。
正義とか善悪とか、嫌いな言葉だ。
「俺は正義の味方じゃねぇよ」
こんな三下の雑魚を相手に、長々とお喋りする時間は無駄以外の何者でもない。スマイルマンを始末したら、近江さんに連絡をして、この死体と路地裏に流れたあのガキの血を処理してもらわなければならない。
スマイルマンが何かを言おうとした。
けれど、立花は既に引き金を引いていた。頭蓋骨がアスファルトに叩き付けられる乾いた音が
眉間には銃痕が二つ。
指先一つで人を殺せるのだから、効率的な世界だ。
立花は銃をぶら下げたまま、声を上げた。
「出て来いよ、ペリドット!」
足音は無かった。だが、呼吸の音が聞こえた。
立花が振り向くと、鉄筋コンクリートの倉庫の影から緑柱玉の双眸が光った。
「良い夜だなァ、ハヤブサ」
月の無い暗い夜だった。冬の澄んだ夜空には星が光っている。
国家公認の殺し屋、ペリドット。こうして会うのは三度目だ。次に会う時はどちらかが死ぬ時だと思っていたが、どうやらこの世界は意味不明の乱数に支配されているらしい。
ペリドットは
「お前さァ、ずっと見てただろ」
煙草の先を向け、ペリドットが笑う。
立花は答えなかった。
二人がスマイルマンに襲われた時、立花はそれを見ていた。ミナが交番に駆け込んで、警官の昼食を引っ繰り返し、路地裏に白煙が充満し、注射器が向けられるその様を、観察していた。
彼等が死ぬのかどうか、確かめたかった。
ミナが守るに値するのか、翔太が信じるに足る人間なのか知りたかった。その結果、二人が死ねばそれまでの話だった。その程度の人間ならば自分が力を貸す必要は無い。個人の感情や関係性は別の話だ。
「あいつ等が死んでも良かったのか?」
ペリドットの目は
この男は国家公認の殺し屋である。ペリドットの持つパイプが何処に通じていて、どんなバタフライ効果を
「死ななかっただろ」
「違ぇ。テメェがあいつ等をどう思ってんのかって、訊いてんだよ」
「結果が全てだ」
「機械か、テメェ」
ハヤブサは裏社会の抑止力。社会が正常である為の歯車である。其処に感情が必要とは思えない。
どんなに崇高な信念があろうとも、死ねば終わりだ。
「他人の仕事にケチ付ける前に、自分の身内を何とかした方が良いんじゃねぇか?」
立花が笑うと、ペリドットが顔を歪めた。
ソーイングマンを仕留めた殺し屋。確か、ノワールと呼ばれていた。国家から莫大な報酬が支払われたようだし、このまま経験を積めばいつかペリドットの名を継ぐのかも知れない。
スマイルマンの前にノワールが現れたのは予想外だった。何処かから依頼が出ていた訳でもない。彼はミナと翔太を助ける為だけに、あの場に現れたのだ。
馬鹿な男だ。あの時、ペリドットが来なければ三人共、スマイルマンに殺されていた。
兄と呼ばれていた。
ペリドットと言う国家公認の殺し屋の身内が生きているとは思わなかった。守るものがあるのは素晴らしいことだ。それは弱点が増えるのと同義である。実際に失うよりも、失うかも知れないという恐怖が人を縛り付ける。
「俺に弟はいねぇ」
立花はおかしくて
自分が避けたら次は誰が撃たれるのか、ペリドットなら分かるはずだ。
立花は笑いを噛み殺した。
「これ以上、俺達に手ェ出すんじゃねぇぞ」
この心地良い地獄に花を咲かせてくれると言うのなら、幾らでも骨を砕いてやる。それが叶わないのならば、自分が幕を引く。契約とは、そういうものだ。リスク無く成果は得られない。
黙ったペリドットを置き去りに、立花は銃を懐にしまった。
指先のケロイドを撫でる。瞼の裏に浮かぶ光景はいつも真っ赤で音が無い。その中で、おかえりと笑う声がする。
携帯電話を取り出す。つまらないロック画面に午後六時と表示されていた。立花は煙草を探しながら、近江に電話を掛けた。
9.毒と血
⑹血の一滴
パイプは大切だ。
風通しの悪い組織は腐敗するものだし、いざという時に退路を確保する必要がある。情報も人脈も
ミナは携帯電話を眺めていた。
最新機種のそれは立花から与えられた物である。盗聴器や発信器の類を調べる
ノワールという殺し屋の素性を聞いた時、ミナは真っ先に自分の弟を思い出した。海を渡って来た弟に会わなかったのは、家族を守る為だった。
その時に、自分には海外に繋がるパイプが無いことに
立花の読んでいた新聞に、中国マフィアの
次期総長の座を巡る派閥争いが過激化し、比例して国内の治安は悪化し、国そのものが犯罪のシンジケートとなっている。
総長の葬儀に参列する構成員の写真が載っていた。その
青龍会の構成員、名前を
母国にいた頃の友達で、数少ない自分の理解者だった。
どうやら青龍会内部では違法薬物が蔓延し、その是非について意見が割れているようだった。そして、友人は薬物反対派で、立場としては若頭に並ぶらしい。
社会とは思うよりも根深く、狭い。
相対して世界は広く、薄情である。
海外に繋がるパイプが欲しかったのは、家族の安否をリアルタイムで確かめる為と、もう一つ。或る物を父に届けたかったからだ。
立花には相談しなかった。
スマイルマンに襲われた日。事務所に戻って来た立花は、狙撃された自分を見ても驚かなかった。経緯も怪我も、立花は知っていたのだ。そして、殺されそうな自分達を静観していたのだと分かった。
信頼とは、相手を全肯定することではない。
立花が言ったことだ。自分は立花に価値を証明し続けなければならない。
立花の監視の届かない信頼出来るカードが必要だ。社会や組織に属さず、自由に動き回れる強いカードが。
だから、ノワールに
ブラックと呼ばれる違法薬物と、血の付いた二枚のガーゼ。それを調べられるだけの設備が此処には無い。
あれはノワールの手から大阪の笹森に渡り、海を越えて中国の青龍会へ届く。其処から米国の大学病院に勤める父の元に行くはずだ。その後のことは自分の手に余る。青龍会とのパイプは繋いだ。司法に繋がる人脈が欲しいが、まだ育っていない。
警察組織の汚染は中々強力なカードであるが、権力を物理的に潰せる程の戦力はまだ無い。戦わずして勝てるくらいの強いカードが欲しい。
沈むつもりは無い。
母国の海が恋しい。
父と波の上を滑った頃が夢のように瞼の裏に蘇る。いつの間にこんなに遠くに来てしまったのだろう。振り返るのが怖かった。
子供の頃、ヒーローに憧れていた。
絶対的な正義を掲げ、窮地に駆け付ける無敵のヒーローになりたかった。だけど、そんなものはこの世の何処にも存在しなかった。ヒーローだって
笑ってろ、と父は言った。
この世で一番強いのは、笑ってる奴だと。
自分はヒーローの息子だ。
こんなところで立ち止まるつもりは無い。この体に流れる血に従って、自分の信念を貫いてみせる。
事務所の三階に居住区がある。スマイルマンに襲われた日の夜半、立花の声がした。ベッドで薄く目を開ければ、金色の瞳が自分を見下ろしていた。
自分はまだ、彼の期待に応えられていない。
脇腹や大腿部の怪我は未熟な証拠だ。ミナは目を開け、立花を見上げた。
「何度でも、証明してみせるから」
自分の価値を証明してみせる。
生かして良かったと思わせる。
友達を、家族を守るんだ。
ハヤブサではなく立花蓮治という人間が、帰って来られる居場所に。
立花は目を眇めただけだった。
「楽しみにしてるよ」
大きな手の平が頭を撫でる。煙草と硝煙の臭いがして、ミナはそのまま眠りの中に落ちて行った。
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