⑸罪過

 冬の夜は長く冷たい。

 翔太はミナを背負いながら、夕焼けに染まる河川敷を思い出していた。


 いつかもこうして彼を背負って歩いた。

 背中越しに感じる温もりが、命の所在しょざいを教えてくれる。ミナが生きている喜びと、砂月はもう死んだという事実が互い違いに押し寄せて、泣きたいような、叫び出したいような感情に駆られた。


 砂月は死んだ。俺が殺した。そして、死んだ人間は二度と生き返らない。父も母ももう二度と会えない。

 自分は、何の為に生きたら良いのだろう。いや、生きることそのものが不正解なのかも知れない。そんな非生産的な考えが浮かぶ度に、ミナの鼓動こどうの音が現実に引き留める。


 せめて、ミナがウィローにしたみたいに。

 自分も家族を弔ってやれたら。




「事務所に帰ったら」




 背中で、ミナが言った。

 掠れた声だった。




「俺の話を、聞いてくれる?」




 翔太は頷いた。

 弱音も泣き言も溢さないこの子が話を聞いて欲しいと言うのなら、それを断る理由なんて翔太には無かった。


 そっと横を見遣る。

 ノワールは茫然とした顔付きで歩いていた。

 ペリドットのことを、兄と呼んでいた。まさか、本当の兄弟なのか。確かに、ペリドットからは弟がいると聞いたことがある。


 考えても仕方がない。真実は彼の口から聞く。

 彼等にも過去や事情はある。翔太は下世話な詮索をするまいと口をつぐみ、帰路を辿った。


 事務所に立花はいなかった。迎えに行くと言っていたのに、何処へ行ってしまったのだろう。相変わらずタイミングの悪い男だ。あの時はペリドットのお蔭でスマイルマンから逃げられたが、そもそも立花が間に合えばミナはこんな怪我をしなかった。


 ミナは片足を引き摺って給湯室に行くと、ピルケースとミネラルウォーターのペットボトルを持って来た。よく分からない白い錠剤や粉薬が小分けにされている。


 解毒剤だと、ミナは言った。

 路地裏に撒かれた白煙と、割れた注射器から溢れた異臭。あれはやはり毒だったのだ。即効性の毒ではなく、四肢の動きを鈍らせる神経毒で、経口摂取ではないので命に関わりはしないだろうとの見立てだった。


 改めて、この子は何者なんだろうと疑問に思った。

 殺し屋の事務員で、フィクサーの孫で、他人の嘘が分かる。

 SLCと呼ばれる新興宗教とも関わりがあり、暗殺の危険がある程の重要人物。


 翔太は差し出された薬を大量のミネラルウォーターで流し込んだ。独特の苦味に顔をしかめていると、ミナが笑った。

 ノワールは薬には手を出さなかった。その代わり、ミネラルウォーターを一気に飲み干した。




「お前を疑うつもりは無ぇけど、薬は嫌いだ」

無理強むりじいはしないよ。俺は俺に出来る最善を、君は君の最良の選択をすれば良い」




 ミナはそんな風に言って、ソファに座った。

 ノワールが壁に凭れ掛かったので、翔太は回転椅子に座った。沈黙が気まずくなる寸前で、ミナが口を開いた。




「母国にいた頃、大学で脳科学の研究をしていたんだ」




 ミナは指を組んで俯いていた。


 今更ミナに関わることで驚くことは無いだろう。実は宇宙人だったと言われても、翔太は受け流せたと思った。


 そういえば、彼の双子の弟も大学生だと言っていた。年齢を考えると少し早いように思ったが、外国には学力に応じた飛び級制度がある。ミナもワタルも、それを利用して進学したのだろう。




「俺は他人の嘘が分かる。そのメカニズムを解明することで、医療に応用したかったんだ。俺の親父はMSFで精神科医をしていたから、力になりたかった」




 MSF ――国境なき医師団。

 紛争地で医療援助を行う父を助ける為に、自分の力を使いたかった。医者としてではなく、研究者として。

 それはとても、ミナらしい考え方だと思えた。




「人の心は目に見えないし、感覚を他の人と共有することは難しい。研究を進める中で壁に行き当たって、俺は自分の能力を超感覚的知覚能力ちょうかんかくてきちかくのうりょくと仮定したんだ」

「超感覚的知覚って何だよ」

「Supernatural power ――。所謂いわゆる、超能力だね」

「なんだそりゃ。お前、自分が超能力者だって思ってたのか?」




 ミナは嫌そうに顔をしかめた。




「この世の中の殆どの人は超能力というものに無知な癖に偏見へんけんを持ってる。sixth senseとか虫の知らせとか、Ah, 火事場の馬鹿力とか、昔からよく言うじゃないか」




 翔太は唸った。

 追求すればミナは翔太が納得するまで説明してくれたのだろうけれど、聞いても理解出来るとは思えなかった。

 ミナは咳払いをして、続けた。




「超能力は身体機能の一つ。厳密には、脳から発せられる特殊な電磁波なんだ。そして、身体機能である以上、それは遺伝する」




 筋は通っている、と思う。

 翔太は話の先を促した。




「遺伝するということは、人工的に超能力者を造ることが出来るんだ」




 オカルト染みた話である。

 ミナはコミカルに肩を竦めた。




「まあ、途中で辞めちゃったんだけどね。悪用のリスクが高かったから」




 ミナは何でもないことみたいに言った。




「俺の研究は、超能力の軍事的応用を画策していたSLCに目を付けられた」

「……SLCと遣り合ったってのは?」




 それまで黙っていたノワールが問い質す。

 ミナは目を伏せた。




「SLCの信者だった友達が拉致されて、本拠地のハバナに連れて行かれたんだ。仲間と一緒に乗り込んで、その時にSLCの教主を信者たちの前で糾弾きゅうだんした。俺達は友達を連れ戻したんだけど、その時にはもう薬物漬けで、……助けられなかった」




 語尾は掠れ、消えてしまいそうだった。

 翔太は、ミナが以前、大切な人を亡くしたと言っていたことを思い出した。古傷を抉るようなあの生々しい声が、今も耳の奥に残っている。




「それから一年後、今度は俺がSLCに拉致された。ワタルが助けに来てくれて、教主は逮捕された。だけど、その時の映像がインターネットに中継されたせいで、俺は母国で暮らすことが難しくなったんだ。SLCは解体された訳じゃないしね」




 だから、わざわざ海を渡って、立花の元に来たのか。

 翔太が出会った時、ミナは切り札が欲しいと言っていた。家族を守る為に、自分の信念を貫く為に、SLCと渡り合う為に。


 ノワールは不思議そうに言った。




「SLCは何でお前を殺さずに拉致したんだ?」




 言われてみると、確かにその通りだった。

 邪魔だったのなら、殺せば良い。ミナの能力がそんなに重要なものとは思えなかった。


 いや、違う。

 翔太は考えを否定した。ミナは他人の嘘が分かるただの子どもではないのだ。フィクサーの孫で、ヒーローの息子なのだ。其処に超能力者の血筋というプレミアまで付いている。生かしてこそ価値がある。


 先代ハヤブサ、近江も言っていた。

 この子にどれだけの価値があるのか計り知れないと。




「親父が言ってたんだけど、俺の能力は軍事とか司法と相性が良いらしいね」




 他人事みたいにミナが言う。しかし、その口振りも尤もだった。ミナは医療に導入することで父を助けたくて研究を始めた。それが正反対の軍事と相性が良いなんてこれ以上無い皮肉だ。


 しかも、ミナは自分の研究を公表していた訳じゃない。それがSLCに漏れたということは、誰か、裏切り者がいたのだろう。


 奇妙な話だ。他人の嘘が分かる癖に、裏切り者は見抜けなかったのだろうか。




「お前の研究は何処から漏れたんだ? 助けられなかったって言う、SLC信者の友達か?」




 翔太が見遣ると、ミナは困ったように眉を寄せた。




「逮捕された教主は、そう言ってた」

「裏切り者の嘘は見抜けなかったのか?」

「ねぇ、ショータ」




 ミナは泣きそうな顔で、翔太を呼んだ。




「君は、俺が嘘を吐いたら友達を辞める?」

「……」

「俺はショータを信じるよ。君が信じてって言うなら、嘘だと分かっても信じる」




 ミナは信じたいものを信じた。其処に嘘があるかどうかなんて関係が無かった。誠実なのか愚直なのかは分からないけれど、友達を信じたことが間違いだとされてしまうのは、悲しかった。




「レンジに言われたんだ。相手を全肯定することが信頼じゃないって。……俺はずっと、分からないままだ」




 そう言って、ミナは少しだけ笑った。









 9.毒と血

 ⑷罪過ざいか











「ノワールは、どうして殺し屋になったの?」




 微睡まどろんだ瞳で、ミナが問い掛ける。

 ノワールは暫し沈黙を守った。彼等は互いのことを詮索して来なかったと言う。翔太には、その一言だけでもミナの覚悟が感じ取れた。


 ノワールはミナをじっと見詰めていた。まるで、真実を語るに足る人間であるかを品定めするかのような目付きだった。ミナが真っ直ぐに見詰め返していると、根負けしたようにノワールは溜息を吐いた。




「ガキの頃、親父が強盗に殺されたんだ」




 ノワールは腕を組んだ。

 ミナが悲しげにまなじりを下げたので、ノワールは鼻を鳴らした。




「クソ親父だった。お袋は俺を産んで死んだ。それからずっとアル中で、俺達は毎日怒鳴られて、殴られて来た」




 あんな奴は死んで当然だと、ノワールは吐き捨てた。




「俺がお袋を死なせたようなもんだから、俺が憎かったんだろうさ。意識が飛ぶまで殴られたり、風呂釜ふろがまに沈められたり、熱湯ねっとうを浴びせられたこともある。……そのたびに、兄貴が俺を庇ってくれた」




 茫洋ぼうようとした目付きで、ノワールは遠くを見ていた。すすけた天井を眺めているのか、それとも、もう戻らない過去を見詰めているのか。翔太には分からない。


 それから、二人は施設に送られたのだと言った。

 ノワールが6歳、兄は11歳の時だった。




「その夜に兄貴は消えて、俺は施設を転々としながら探し回った。施設を出てからはクソみてぇな仕事をして情報を集めて、ペリドットって言う殺し屋の存在を知った」




 クソみてぇな仕事。

 それがどんなものなのか具体的には分からないが、真面まともな仕事ではなかっただろう。もしかすると、それは立花のような犯罪行為に関わるものだったのかも知れない。




「エメラルドの瞳を持つ凄腕の殺し屋だって聞いてさ、もしかしたらって思った。ペリドットは神出鬼没の暗殺者とも呼ばれている。同じ世界じゃなきゃ会えねぇ」




 兄に会いたい。

 翔太はクリスマスの夜を思い出した。双子の弟が海を渡ってやって来た時、ミナは会おうとしなかった。それどころか出会さないように逃げ回り、ついにワタルは諦めて帰ってしまった。兄を追い掛ける弟という構図が余りにも似ている。


 あの時、ノワールはどんな気持ちだったのだろう。

 そして、今、どんな気持ちで。


 ノワールは肩を落として、自嘲気味に言った。




「……まあ、会ってどうするかなんて考えてなかったからな。生きてるのが分かっただけで、充分さ」




 ペリドットとノワールは、血の繋がった正真正銘の兄弟だった。

 ワタルも、同じ気持ちだったのだろうか。

 翔太はそっとミナを窺った。ミナは何かをえるような形容し難い顔で、ただ静かに聞いている。


 ミナに事情があったのは、分かる。家族を守りたいという気持ちも理解出来るし、弟を遠去けなければならないという理由も納得出来る。だけど、弟の気持ちを考えると、安易に仕方が無いことなんだとも言えなかった。




「ペリドットは、弟がいるって言ってたよ」




 ミナが、言った。

 つい先日のことだった。ペリドットがいきなり事務所に押し掛けて来たのだ。何の用だったのかは未だに分からないが、あの時、ペリドットはミナを指して自分の弟と同じだと言った。


 ノワールが苦く笑う。

 翔太は尋ねた。




「なあ、アンタも人の嘘が分かるのか?」




 ノワールが乾いた笑いを漏らした。


 昔、何処かで聞いたことがある。

 笑いとは不幸な人間が開発したのだと。笑わなければ生きていけなかったのだと。


 ノワールは肯定した。




「そうだよ。なあ、ミナ。俺の言っていることが嘘かどうか分かるだろ?」

「ノワールは、俺に嘘を吐いたこと無いだろ」

「……お前もな」




 そんなの、互いに詮索して来なかったからじゃないか。

 翔太はそう思った。だけど、それが彼等の予防線の引き方なのだ。彼等は自動的に相手の嘘を知覚する。


 そうとしか生きられなかった人間の生き方を否定するということは、死ねと言うのと同義だ。だからと言って、全肯定することが信頼とも思わない。


 ノワールは壁から身を起こすと、ミナの前に歩み寄った。そして、幼い子にするように地面に膝を突くと、柔らかに微笑んだ。




「お前の名前を教えてくれ」




 ミナは苦笑し、左手を差し出した。




「俺の名前は蜂谷はちやみなと。Please call me Mina」

「ああ。俺は天神てんじんあらた。これまで通り、ノワールと呼んでくれ」




 握手を交わす二人を、翔太は眺めていた。

 彼等は、やっと友達になれたのだと思った。長い冬を越えて春を迎えるように、彼等の進む未来が少しでも明るいものとなることを祈った。


 二人は歯を見せて笑い合うと、此方を見た。

 促されるまま、翔太は言った。




「俺は、神谷翔太だ。……好きなように呼んでくれ」




 翔太が苦笑すると、ミナとノワールは花が綻ぶみたいに微笑んだ。


 神谷翔太。蜂谷湊。天神新。

 生まれも育ちも年齢も違う自分達は、普通に生きていれば交わることも無かった。それがこうして笑い合えるというのは、何の因果なのだろう。


 人は誰しも癒えない傷を抱えている。

 地獄の中でもがきながら、明日を探している。

 其処に正誤や善悪なんて関係無いのだと思う。




「御人好しだねぇ」




 ノワールは翔太にそんなことを言った。

 ミナはソファに凭れて、寝息を立てている。鎮痛剤が効いているのだろう。翔太は携帯電話を取り出して、今日の分の日記を付けているところだった。




「嘘が分かる人間なんて、付き合い難いだろ」

「まあ、そうかもな」




 関わらずに済むなら、翔太だって距離を置いたかも知れない。単純に、他に行き場所が無いのだ。だったら適応して行くしかない。


 御人好しと言うのなら、ノワールだって大概だ。

 彼等はその性質の為に、幾度と無く裏切りに遭って来たはずだ。全ての嘘が悪意の下に発せられるとは限らないが、信じた人にあざむかれて何も感じないはずも無い。




「でも、アンタ等は他人の痛みが分かるタイプだ」




 良くも、悪くも。

 翔太が言うと、ノワールは笑った。

 ノワールはミナの寝顔を一瞥すると、扉に向かって歩き出した。




「もう行くのか?」

「ああ。スマイルマンに泥付けられたままじゃ、食って行けねぇからな」

「そうか……」




 ノワールという青年がとても優しいので忘れていたが、彼は殺し屋なのだ。人の命を金に変える犯罪者である。

 目に見えない境界線を突き付けられたような気がして、翔太は黙った。ノワールは笑っている。




「またな」




 そう言って、ノワールは足音も無く扉の外に消えた。まるで手品のようだ。けれど、事務所の中には三人分の温もりが残っている。

 翔太は立ち上がり、ソファで眠るミナにコートを掛けてやった。壁掛け時計を見上げる。午後六時。立花は、まだ帰って来ない。

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