2.正義の矛

⑴最低な依頼人

「Please call me Mina」

「ミナ」

「It's okay」




 西陽の差し込む事務所で、翔はその少女と対面した。

 煙草をくゆらせた立花が、おかしそうに口角を釣り上げているのが不愉快だった。


 自分達の間に交わされた契約を思い返す。

 ミナは自分の過去を調査し、自分はこの事務所で雑用をこなす。立花は自分が他言しないように見張る。


 その時は平等な取引だと思っていたのだが、改めて考えてみると、立花にもメリットが少ないのだ。

 雑用係として人手が足りていなかったのかも知れないが、ミナの嘆願たんがんがあったとしても、自分を生かしておくのはリスクは高いはずだ。ならば、どうして立花は有無を言わさずに殺さなかったのだろうか。


 鬱々うつうつと考え込んでいると、ミナが小首を傾げて言った。




「この国の言葉を、教えてくれない?」

「日本語を?」

「Yeah!」




 ミナは相変わらず賑やかだった。

 この子がいると、殺し屋の事務所もまるで昼間のカフェテリアみたいにカジュアルだ。




「レンジはあんまり教えてくれない。面倒だって」

「まあ、日本語は面倒臭いからな」

「ニポンゴ」

「日本語」

「ニホンゴ」




 翔は目を伏せて、込み上げるおかしさをこらえた。

 立花が笑うのも分かる。ミナは真剣なのだろうが、それが余計に動物の面白映像を見ているような心地になるのだ。


 とは言え、彼女にどの程度の日常会話が可能なのか知る必要があった。

 此方の言葉は通じているようだが、ミナが何を言っているのか翔には分からないのだ。いつでも立花が翻訳ほんやくしてくれるとも思えないし、自分が英語を学ぶよりもミナが覚える方が早いかも知れない。


 立花は煙草を吹かせた。




「俺には支障が無かったからな。テメェに必要なことはテメェで何とかするのが道理ってもんだろ」




 確かにそうだが、酷い放任じゃないか。

 翔は舌打ちを漏らした。




「お前、さっきはいきなり流暢りゅうちょうしゃべってたじゃねぇか。あれは何なんだよ」

「What's that?」

「記憶の連続性がどうとか」

「Ah, It was a Japanese paper」

「分かんねぇんだって」

「Hey, Renji. What do you say?」

「知るか」

「Head? It is mean of you」




 ミナが肩をすくめて笑った。

 何を言っているのか分からないが、ミナが生意気なことを言って、立花がそれを面白がっているのは分かる。


 さっきまでは、ミナが虐待でもされているのではないかとすら思っていたけれど、違うのかも知れない。家族のようには見えないし、友人と呼ぶには歳が離れているようにも思える。


 どういう関係なのだろう。

 ぼんやり聞いていると、事務所の入口でノックの音がした。


 立花が目をすがめて言った。




「お客さんだ」




 ソファに座っていたミナが勢いよく立ち上がって、ボールを追い掛ける子犬みたいに駆けて行く。


 来客を予想していなかったので、翔は自分がどうすれば良いのか分からなかった。此処にいても良いのだろうか。とは言え、何処かに隠れるのも不自然だ。




「Welcome!」




 扉の方でミナの威勢いせいの良い声がする。

 翔はガクリと肩を落とした。殺し屋の事務所に来た客に、どういう反応だ。


 もうどうにでもなれ。

 翔は思考を放棄した。












 2.正義のほこ

 ⑴最低な依頼人














 精神が体を凌駕りょうがするということは、よくあることだ。子供をかばって勝てない喧嘩を買ったり、自ら進み出た銃口の前で冷や汗をいたり。


 そして、知りもしない他人を前に、こいつはクソ野郎だなと思うこともある。それが的中し、酷い目に遭わされるということも、翔にとってはよくあることだった。


 安っぽい扉を開けて現れたのは、そういうやからだった。

 高そうなスーツを着て、はち切れそうな腹を抱えて、頭はうすらハゲていて、笑った顔が下衆げすを体現しているような中年の男だった。


 自分が生きて来たのとは違う世界で、自身は手を汚さず、他人を意のままに操って来ただろう富裕層の人間だ。初対面で決め付けるのは良くないと聞くが、目の前にして彼を善人と考えるのは世間知らずの子供くらいだ。例えば、ミナみたいな。


 その男はミナを見て驚いたみたいに目を丸め、獲物を前にした爬虫類はちゅうるいみたいに舌舐したなめずりをした。思わず翔は腰を浮かせたが、昨夜の喧嘩のせいで身体中が悲鳴を上げていた。




「此方へどうぞ」




 急に出来る執事みたいに対応するミナにも、それを嬉しそうに眺める男にも、静観している立花にも腹が立った。


 男は促されるまま事務所を突っ切って、翔の座るソファをにらんだ。




「なんだ、こいつは」

「うちのインテリアだ」




 立花がいい加減なことを言う。

 ミナは事務所の奥に消えた。どうやら給湯室らしい。コンロに点火する音が聞こえた。




「活躍は聞いているよ、三代目」

「御託はいい。さっさと名乗って要件を言え」




 仮にも客を相手に、どういう口の利き方だ。

 男は気を悪くした風も無く、名刺を取り出した。翔の位置からは見えない。緑茶を運んで来たミナが、立花の肩越しにそれを読み上げた。




「シモヤマガッカン、トウキョウホンシャ、ジンジブチョウ、ホリイレイイチロウ」




 シモヤマ学館、東京本社、人事部長。

 翔はミナの声を聞きながら頭の中で漢字変換した。世の中の情勢がどうなっているのか知らないが、それなりに大きな企業のお偉いさんらしい。


 学館ということは、教育にでも携わっているのだろうか。しかし、担当は人事だ。苦労もあるのだろうが、何となく、こいつは嫌な奴なんだろうなと思った。




る女を始末して欲しい。報酬は支払う」

「何処のどいつだ?」




 男はふところから一枚の写真を差し出した。

 覗きたいが、見えない。




「彼女は優秀だが、邪魔なんだ」




 立花は曖昧あいまい相槌あいずちを打って、写真を眺めていた。

 隣で見ていたミナが「綺麗な人だね」と言った。本心から出た言葉なのか、定型文なのかは分からない。


 男は小切手を出した。

 ミナと立花が揃って目を見開いたので、かなりの大金が提示されたのだろう。見えないが。




「これは前金だ。目標を始末したら、同じ金額を払う」




 リッチだね、とミナが言った。

 お世辞にも、嫌味にも聞こえる微妙な言い方だった。

 立花は品定めするように小切手を睨み、顔を上げた。




「良いぜ。テメェの依頼、引き受けた」

「そうか。期待してるよ、三代目」




 男は立ち上がると、黄ばんだ歯を見せて笑った。




「――ところで」




 すぐに立ち去るものかと思いきや、男は立ち止まった。




「綺麗な子だね。その子もインテリア?」




 男はミナを見ていた。




「いくら?」




 まるで品物を眺めるみたいに、歪んだ笑みを浮かべている。立花は答えた。




「こいつはうちの姫だ。手を出すなら、相手が誰でも殺す」




 金色の瞳に残酷な光を宿して、立花は冷たく笑った。それは、この世の地獄を見て来たかのような恫喝的どうかつてきな声だった。静電気に似た緊張が走る。首筋にナイフを突き付けられているみたいに息が出来ない。けれど、男は「怖い怖い」と肩をすくめただけだった。




「じゃあ、頼んだよ」




 男は名残惜しむような視線をミナに向けながら立ち去った。男の残り香があるような気がして、酷く不快だった。




「ミナ、換気しろ」

「Of course」




 立花の命令に、ミナが二つ返事で了承する。

 せわしなく動き出したミナの背中を見遣り、翔はほっと息を吐き出した。




「気持ち悪い奴だな。本当に、あんな奴の依頼を受けるのかよ」

「まともな依頼人は、あんまり来ない」




 ミナが言った。

 そりゃ、そうだろう。復讐を受けない殺し屋の元に来るなんて、大抵クソみたいな依頼だ。

 立花はブラインドの隙間から様子をうかがっているようだった。そのままぶっきら棒にミナへ言い付けた。




「ターゲットについて調査しとけ」

「ワカタ」

「分かった」

「ワカッタ」




 ミナは事務所の奥、壁際に設置されたパソコンの元に行った。

 立花とミナの遣り取りは喜劇みたいにコミカルなのに、やっていることは一般人の暗殺である。酷い温度差に目眩めまいがする。


 ミナは集中したのか無言になり、翔はたまれない気持ちで立花を見た。

 しかし、立花は何を考えているのか分からない顔付きで天井を眺めていた。


 三代目と呼ばれていた。

 殺し屋の、だろうか。


 追求することも出来ず、今度、ミナに聞いてみようと思った。

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