Ace in the hole. ―最後の切り札―

mk*

序章

 頭蓋骨がアスファルトに叩き付けられる。

 乾いた音は、雷鳴の如く木霊こだました。


 首都圏、某所。不夜城の群れを見下ろす高層ビルの屋上は、凍て付く風が吹き付けている。夜空の星は街明かりに放逐ほうちくされ、猫の目のような月ばかりがおぼろげに照らす。


 立花は、ゆっくりと欄干らんかんから身を乗り出した。転落した男性の関節は有り得ない方向に曲がり、飛び散った血が墨汁のようにアスファルトを染め上げていた。


 静寂を守るオフィス街に、くびり殺される鶏みたいな悲鳴が響き渡る。何処からともなくやって来る野次馬は、角砂糖を求めて巣穴からい出る蟻のように見えて気味が悪かった。


 不意に、声がした。




「If this world were based on equivalent exchange」




 それは慈愛とも憐憫とも付かない静かな声だった。


 立花は後ろを振り向いた。仄かな月明かりに照らされた屋上は、無数の排気管がうねり、室外機が棺桶かんおけのように沈黙している。殺風景な其処には、四肢を拘束され、芋虫のように横たわる一人の子供がいた。




「What do you pay at the time of liquidation?」




 長い睫毛まつげに彩られた瞳は、今にも泣き出しそうに歪められていた。


 この世が等価交換ならば、清算の時にあなたは何を支払うの?


 立花は片手で煙草を取り出すと、口にくわえた。

 左手に握っていたベレッタM92は既に熱を失いつつあった。


 無知だった頃、銃口に触れて火傷をしたことがあった。立花は愛銃をふところへ戻し、指先に薄く残るケロイドを撫でた。ライターを取り出し、火を点ける。


 下らねぇ。

 吐き捨てて、立花は目の前の子供をにらんだ。


 悲しいのだろうか。悔しいのだろうか。それとも、憎いのか。いずれにせよ、立花にはその感情を推し量ることが出来ないし、必要も無かった。




「等価交換と因果応報を混同してるぜ、お前」

「Active or passive?」




 能動的か受動的か。

 流暢りゅうちょうな英語を聞きながら、立花は煙を吸い込んだ。ニコチンが体内に吸収され、ささくれ立った神経が凪いで行く。




「或る意味では、そうだな」




 立花は肯定した。


 寒風にさらされたその子供は、死人のような白いおもてをしていた。唇は紫色に変わり、微かに震えている。


 ポケットから医療用の眼帯を取り出し、右目に装着する。立花は煙草を咥えたまま子供の上にまたがった。風にあおられた灰が粉雪のように舞う。




「因果応報は自動的には行われない。罪に罰が下るのは、それを望む人間がいるからだ」




 ベルトに仕込んでいた小振りのナイフを取り出す。武器としては心許こころもと無いが、子供一人殺すには十分だった。




「お前がしたいことは何だ? 犯罪者を罰することか? 俺の仕事の邪魔をすることか?」




 煙草の切っ先を突き付ける。900℃を超える火を眼前に向けられても、その子供はまばたき一つしなかった。


 その瞳は、奇妙に透き通っていた。抵抗も命乞いもしない。傲慢ごうまんであり、高潔こうけつ。――けれど立花には、それがまるで目に見えない何かを掴もうと、必死に足掻あがいているように見えた。


 立花はナイフを振り下ろした。

 命を奪う為ではなく、拘束を解く為に。


 拘束から放たれた子供は、擦過傷さっかしょうの残る手首を撫でながらゆっくりと起き上がった。濃褐色の瞳は、月明かりの下で不可思議に輝いている。


 子供は何かを答えようとして、うつむいた。

 睫毛まつげほほに影を落とす。白い面に浮かぶ苦渋が、まるで馬鹿だった頃の自分を見ているようで酷く不快だった。


 その時、地上からサイレンの音が鳴り響いた。立花は舌打ちを漏らして欄干の向こうを覗いた。中央道を埋める赤い回転灯が、まるで荒れ野を焼く炎のようだった。


 振り返ると、子供は捨て犬のように俯き、口元を結んでいた。立花はその胸倉を掴み、鼻が付きそうな至近距離で吐き捨てた。




「此処はまだ地獄じゃねぇぞ」




 今頃、平和呆けした愚かな民衆が死体をSNSへアップロードし、借り物の正義を振りかざし、カタルシスを得る為に無用な火種をくのだろう。


 けれど、彼等は知らないのだ。

 頭蓋骨の割れる音も、硝煙しょうえんの臭いも、銃口の熱も。

 泥沼の中を這いつくばりながら足掻き、何も得られずに唇を噛み締めるしかない遣る瀬無さも、口内に広がる鉄の味も。


 他者評価を求めて上部を取りつくろうことに必死な民衆は、日の当たらぬ場所で何が起きているのか知ろうともしない。




「行くぞ」




 短く言うと、子供は静かに頷いた。


 屋上を出る刹那、子供は何かを呟いた。

 けれど、それは扉のきしみと風のうなりの中に掻き消され、ついに聞き取ることは出来なかった。









 序章










 真夜中のオフィス街は、普段の静寂が嘘みたいに騒然としていた。


 赤い回転灯と黄色い規制線。押し寄せるマスコミはピラニアのようにえさを探している。無関係の野次馬が携帯電話を片手に他人の悲劇を覗き、SNSは未確定の情報が事実のように横行する。


 流れに逆らって人混みをって歩く。

 擦れ違う他人は悲劇の中央に目を奪われ、振り向きもしない。立花が早足に遠去とおざかろうとすると、無関心のはずの他人が一様に振り向くことに気付く。


 顳顬こめかみしびれるような苛立ちを覚え、立花は舌を打った。半歩後ろを歩く子供は、パーカーのフードを深く被り、行儀良く沈黙している。


 フードの為に表情はうかがえない。だが、明らかに未成年という風態が関心を引くのだろう。




「ミナ」




 立花が呼ぶと、子供は顔を上げた。

 白い街灯の光を浴びた相貌そうぼうは、一度見たら忘れられないくらいに美しかった。通行人が振り向くのも分かる。立花が並んで歩くように指示すると、ミナは黙ってうなずいた。


 繁華街に差し掛かると、満員電車のような人混みに行き当たった。足をさらけ出した露出狂の若い女、如何いかにも裏稼業を生業なりわいとしているようなガタイの良い男、それぞれが人生の主役みたいな大きな顔で歩いて行く。


 紫煙と香水、生活排水の混ざり合った悪臭が其処彼処から漂っている。立花は眉をひそめて、歩き続けた。


 不意に後ろからミナの声がして、振り向いた。

 悪趣味な柄シャツを着た若い男が、呂律ろれつの回らない舌でお決まりの口説き文句を並べ立てている。血に飢えたハイエナみたいなにごった目をして、若い男はミナに話し掛けている。


 ミナが一歩だけ後退あとずさり、指示をあおぐように此方を見た。


 悪趣味な指輪だらけの手が伸びる。

 立花は顔をゆがめ、その手を振り払った。




「殺すぞ」




 立花が恫喝どうかつすると、若者はゲラゲラと嗤った。


 下品なネオンライトから逃れるように路地裏に入る。落書きだらけのコンクリートの壁が、左右から迫るようで息苦しい。幾多いくたもの角を曲がると、静かな住宅街に行き着いた。

 人気ひとけの無い街路を並んで歩く。立花は懐から煙草を取り出そうとして、立ち止まった。


 公園があった。

 赤くびた遊具、浅い砂場。忘れ去られたスコップが砂山に突き刺さり、何故だか虚しくなる。

 街灯の下をが踊っている。スポットライトに照らされるみたいに、ペンキのげたベンチがあった。其処に負け犬みたいに見窄みすぼらしい青年が項垂うなだれている。


 何日も洗っていないようなボサボサの髪と、潰れたダウンジャケット。ダメージジーンズとは名ばかりの擦り切れたジーパンに汚れたスニーカー。


 若さ故の衝動も、青臭い正義も、大嫌いだ。

 無謀で無計画なエネルギーの噴出を勇敢ゆうかんと呼ぶ、薄っぺらな人間たち。彼等を見ていると無性に苛々する。




「ゴミだな」




 立花が呟くと、ミナはきょとんと目を丸めた。

 そして、言った。




「He looks lost」




 立花はせせら嗤った。

 迷子。確かに、そういう風にも見えた。




「My dad used to say that, Garbage is not necessarily worthless」




 父が言っていた。

 ゴミが無価値とは限らないと。


 詭弁だな、と立花は思った。

 しかし、そういう考え方は嫌いじゃない。




「Flowers can bloom even in hell」




 沈んでいた気分が僅かに高揚し、立花は口元を緩めた。


 初めて会った時のことを思い出す。

 透き通るような眼差しで、この子供は同じことを言ったのだ。


 、と。


 反吐へどが出るような正論も、退屈な理想論も、無慈悲な現実の前では砂上の楼閣ろうかくに等しい。それでも、この子供はたった一つしかない何かを求めて足掻くのだろう。


 その時、立花は思ったのだ。

 汚濁おだくに染まった世界で、この子供に何が見えるのか知りたいと。


 理不尽と不条理に支配された世界で、この子は何を掴むのだろう。絶望と孤独、後悔の暗闇の中で仄かに光る。それは魂の枯れるような諦念か、それとも希望という名の狂気か。


 柔らかな髪を撫でる。ミナは子供扱いをするなと鬱陶うっとうしそうに払い除けた。それすらおかしい。


 空が白んで来ている。

 もうすぐ夜が明ける。今日も、下らない朝が来る。

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