おうち時間が始まる

中川さとえ

おうち時間が始まる

腕時計を持っていなかった。いつ外したのか思い出せない。時間ならスマホを見ればわかる。だから腕時計をいつから外したのかも思い出せない。そのスマホを見ればそろそろ午後6時。早く帰らないと。おうち時間が始まる。

「ただいま。」

ぱーば、ぱ、ぱ、足元に絡んでくる柔らかい愛しいもの。

「ただいま。みくちゃん。ほら、抱っこ。パパに抱っこさせて。」イヤー、イヤー、「なぁんで?でも、抱っこしちゃうぞっ。」イヤー、イヤ、きゃははっ

「ふふ、ただいま。」お帰りなさい、「うん、ただいま。」ご飯もうできてるわよ。それともお風呂はいっちゃう?「あー、そうだな。みくちゃん!パパとお風呂入ろっか?」イヤ、イヤー。「なぁんでー?」最近なんでもイヤ、イヤーなのよ。「えー。そうなの?みくちゃん。」イヤ、イヤー。それに今日はもうお風呂いっぺん入っちゃった、四時頃に。「え、そうなの。」公園でね、みくったらすごい盛り上がってくれたのよ。泥だんごに。「へぇ、そうなんだ。みくちゃん、盛り上がったの?」抱っこしたままぐいぐいって頬擦り。イヤ、イヤー。「もう泥だんごなんて作れるんだ。」ううん、一緒に遊んでくれてるお姉ちゃんたちが作るの。「あは、そらそうか。」そうなのよ。みくなんてほとんど潰してるだけなんだけどね、楽しいらしいの。でもまあまあドロドロでね。「ドロドロだったの、みくちゃん。ドロドロだったのー?」イヤ、イヤーきゃはは。「取り合えず着替えるよ。」抱っこした娘を嫁に渡す。おうち時間がゆっくり進む。

晩ごはんはカレーだ。

「お…。王子さまのカレーかな。」ふふふ、ちゃんと大人のも作ったわよ。「うわっ。やったー!」ダメー、ダメー、「え、えぇぇ。なあにみくちゃん?」

ダメー、ダメー、「えー、だめなのぉ。あーだめかぁ。」ダメー。いいわよ、そんなの。こらみく。パパに意地悪しないのよ。ダメー、パパダメー、みくと一緒。パパ、みくと一緒!

「わかった。パパとみくと一緒だもんね。」えー、いいの?「いいよ。王子さまのカレーで。」あはは、お気の毒。「どういたしまして。ねー、みく。」


水の音、食器の音、微かな洗剤の香り、柔らかな気配。「俺、洗おっかー?」

いいわ、今日少ないし。もう終わりそうだし。みくと遊んでて。「よーしみくちゃん、何して遊ぶ?」遊ブー、アソブー。「んふふっ、じゃあどうしようかな、そうだパパとモアナ観よっか?エルサの方がいいかな?」もあな、もあな。「よーしモアナだ。」あー、いちばん楽なのに誘導したわね。抱っこして座ってたらいいやつ。「えー、そうかなあっと。さ、はじまり、はじまり。」コーヒー淹れるね、「おう、ありがと。」もあな。もあな。

膝の上の柔らかく愛しい温もりの塊。きゃっきゃって心地よく響く声。はい、コーヒー。仄かな香り。揺らぐ光。

午後9時になった。

おうち時間が終わる。


柔らかい空間は消える。

誰もいない部屋に戻る。今夜も戻る。そう言えば明かりもまだつけてなかった。

当たり前に暗い。当たり前に冷たい。俺以外誰もいない部屋。今日もおうち時間が始まり、そして終わる。

おうち時間をすれば良かった。嫁と娘が居た頃に。なんでもない、なんでもないことだ。小さい娘がまだ起きてるうちに、家に戻って、嫁が作ってくれた晩ごはんを三人で食べる。それだけなんだ。当たり前でなんでもなくて、すぐできることで、一番大事なこと。俺はどうしてしなかったんだ。しようと思わなかったからだ。ばかだったのかな。そうだな。きっとそうだ。本当にそうだ。

おうち時間て言葉も知らなかった。言葉を知る頃にはもうできなくなってた。

ばかなんだ。ばかなんだよ。そうだよな。

消えてしまった俺のおうち時間。二度と俺の手には戻らない。行ってしまった嫁も娘もちゃんと幸せになった。だから二度と俺の手には戻らない。二度と抱き締められない。娘も嫁も。二度と ない。

二度とこないおうち時間が毎夜毎夜ループする。毎夜毎夜ループして、きちんと始まりきちんと終わる。

戻らないのがわかってて、グズグズしてるのは潔くない。自分で未来を止めて過去に浸ってるのだと嘲笑われるのも当然かもしれない。

それでも夜毎のおうち時間のそのあいだだけ、全てが柔らかで温かい。

愛しいもの、愛しいもの、愛しいという気持ち。

夜毎にだけ現れてループするおうち時間。

きっと明日も現れてくれると、たぶん俺はすがってる。俺は死んではいないからたぶん明日はやって来る。でも明日もし、おうち時間が来なかったら。俺はどうするんだろう?


俺は

どうするんだろう。


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おうち時間が始まる 中川さとえ @tiara33

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