エピローグ 喉元を過ぎる

「初めての授業はどうだったかな、大野くん」

 大野文雄が授業後に教材を片付けていると、ある一人の哲学講師が教室に入り、彼に一声かける。

「先生……、いらしてたんですか」

 大野は、手を止めてその講師に向き直った。

「たまたま廊下で、あの居眠りの学生を見つけてね。君もいるんじゃないかと思って」

 老齢の講師はしわを深く刻みながらにっこりと笑ってそう言った。

「そうですか。それにしても、『君の授業を受ける学生がいる』なんて聞いた時は驚きましたよ」

 大野が声を低くして講師に問う。講師は驚いて目を大きく開いたが、優しげな表情は崩さなかった。

「君はいつまで経っても授業をするつもりがないみたいだったからね。現に、私が教授室に行った時、君はそこで油を売っていたじゃないか」

 その言葉を聞いて、大野はバツが悪そうに俯いた。

「別に、いいんですよ。第一、僕と同じ人じゃないと言語現象学は使えないし、それに僕は僕の望みを叶えるだけでいい」

 視線を下げた大野に対して、講師はじっと見つめる。

「そんなことを言うんじゃない。現に、今の君の方が生き生きして見える」

「そう……ですかね」

 大野が顔をあげると、講師と目が合ってしまった。大野はまた視線を振りほどこうと逡巡したが、講師の熱い眼差しに捉えられ、そのまま言葉を待った。

「君だってわかっているんじゃないか? 自分自身の声の色が変わっていることに」

 この指摘は大野にとって図星だった。先ほどまで相手をしていた学生の、変身した姿を見て、彼自身も自分のうちの何かが変わったような心地だったからだ。無理に言い逃れをしても意味はないと悟り、彼は渋々その指摘を認める。

「……まあ、ちょっと青っぽくなりましたね。若い学生に当てられて、自分まで青臭くなった気分です」

 そう答えると、講師は笑って返した。

「君はまだまだ若いじゃないか。本来君みたいな年齢なら、まだ青い部分があってもいいだろうに」

 若さ、という言葉を聞いて、大野は脳が自身の過去に少しだけ引き摺り込まれるのを感じて、自分がこのまま後悔を帯びた過去に浸ってしまう前に、言葉を継いだ。

「僕の青さは、いや、僕の青春は、遠い昔に彼女が全部持っていってしまいましたから」

 この言葉を聞いて、初めて講師は物憂げな表情を浮かべた。

「……今も、彼女を取り戻そうとしているのかい」

 唸るような声で講師が聞くと、大野は開き直ったように続ける。

「だって、そのために始めた言語現象学ですから。彼女のいなくなった現実を、僕は信じない」

「そうか……」

 講師は俯いた。大野に対する失望というよりは、大野を変えられなかった自分への失望を、彼は感じていた。しかし、次に聞こえたのは大野の明るい声だった。

「と、思ってはいたんですけどね」

「何かあったのか」

「教師という道も、悪くないと思いました」

 講師がふと大野の顔を見上げると、彼の顔は晴れやかだった。幾分灰色が取り除かれ、青みかかった、晴空の直前のような顔をしていた。

「ははは、もとより教師だったくせになにを言うんだね」

「まあ、壊れて無くなってしまったものを『復元』しようとするのも諦めたわけではないですが、新しく、自分の作り上げてきたものを『継いでいく』のも悪くないと思いました」

 大野は今までの自分にはなかった新しい言葉を探るようにして、慎重に思いの丈を述べた。

「それはよかった」

 講師は満足そうな顔をしてそう告げた。

「……ここまで折り込み済みだったんですか? 先生」

 大野が尋ねると、講師は自身の持つ第一回目の講義で堂々と居眠りをしていた学生の姿を思い出しながら答えた。

「いいや。でも。彼女はあの時の君と同じ目をしていた。君が彼女の『復元』にこだわるのは、君が孤独であることが理由の一つだと思っていてね。だから、君と同じ人を引き合わせてみたんだよ」

「彼女は、僕の知らない現実を見せてくれた」

 大野が呟くと、講師はこう言った。

「出会いこそが人生だよ。大野くん。それは、他人との出会いも、そして、自分との出会いもね」



実践言語現象学:補遺

 言語現象学を実践に移す際には、聴覚と視覚の共感覚を有していることが前提となる。なぜなら、言語イメージと複雑な音韻情報をコントロールするためには、音韻イメージに対してネイティブである必要があるからである。現状、音韻とそのイメージに対して敏感な反応を示すのは共感覚保持者のみにしか確認されていない。

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