最終幕 喉を振り絞る

 梅雨は嫌いだった。傘に弾ける雨音と、軋むような水を踏む音、そして濡れたアスファルトを擦り巻く車輪の音。雨の日の街はそんな音たちに自分が袋叩きに遭っているような心地がして、苦しかった。海や湖畔の、頬を優しく撫でる水音とは違って、コンクリートという器に囲まれるだけで、水は私に悲鳴を突き刺すようになる。私は自宅に帰る道で、これからのことに思いをはせていた。

実践言語学で長谷川さんを救おうと思ったものの、だからと言って私に何かできるようになったわけではなかった。それに、口頭試験である「自分の好きなものに変身する」ことさえも、十分にできないでいた。つまり、何もかもがうまくいっていなかった。

 とりあえず、この前の夢から、私は漠然とセイレンに変身することを目標としていたけれど、ここ二週間の間、何も得られるものはなかった。とりあえず、他のものに変身することはできたものの、セイレンにだけはなれなかった。

変身の方法は、自身が変わるわけではなく「周囲の自分に対する認識を任意のものに置き換える」というものだった。まず、周囲の人間の視覚にアクセスする言語音声「hkfjatthng」(これを出すには高音と低音を素早く繰り返す必要があり、ヨーデルの歌唱法が鍵を握る。けど、それは私にとっては大した問題ではなかった)を発声した後、3秒以内に騒音の少ない環境下で任意の対象のイメージを象徴するような言語音声を周囲に届ける必要がある。どちらかというと、難しいのは後者のプロセスだった。後者の言語音声がどういうものかというのはすごく曖昧なもので、先生曰く「自身の対象への投影、いや、没頭というべきでしょうか。自分がそのなりたいものになっていることを深く想像し、その没頭の中で抱くイメージを、素直に音象徴に乗せることがコツです」とのことらしい。とりあえず、私が変身できたのは、流行りのアイドルの白井まゆ、お笑い芸人グリーン・グリーンピースの伊藤、何度か失敗したが猫にもなれた。しかし、先生、長谷川さん、そしてセイレンになることは決してなかった。

 先生みたいな胡乱な人にはそもそもなりたくないし、長谷川さんになっても仕方がないのはさておき、セイレンになれないのはまるで今まで見ていた夢が現実になったかのように思えた。夢は夢の世界にあるからこそ、まだマシだったと気づいた。夢が現実に押し寄せてくるのは、まるで自分の部屋が徐々に浸水していくような焦燥と恐怖があることを、初めて知った。

 セイレンのイメージを深めるために、私はセイレンを何度も見返した。リメイクも旧作も、時間の許す限り目を通した。しかし、私はセイレンになれなかった。むしろ、私とセイレンとの差が深くなっていくように思えた。セイレンになりたいと思えば思うほど、私がセイレンではないことを自覚していくばかりだった。何かになりたいという気持ちは、自分がそうではないという気持ちの裏返しなのだった。私がセイレンになれないのは、私がセイレンのように芯のある女の子じゃないからであり、セイレンのように前向きな女の子じゃないからであり、そして、私がセイレンのように可愛くないからなんだと、そう思った。夢の中の景色もそうだった。私がセイレンになれなない時に映る自分の姿は、どれもみすぼらしいものだった。セイレンのようにキラキラしてて、誰からも愛されるような見た目じゃなかった。長谷川さんになれないのもそうだ。私は長谷川さんみたいに綺麗じゃない。可愛い洋服を着ようと思ったこともないし、ネイルだってしたことない。初対面の人に明るく振る舞うこともできないし、自分の好きなものを明るく話せるわけでもない。そんな、私とは違う人たちは、変身するには遠すぎる。シンデレラはみすぼらしくても誠実だった。白雪姫は騙されやすいが可愛かった。私には、そのどちらもない。だから、ヒロインではない。セイレンも、私にとっての長谷川さんも、そういうヒロインだ。

私には何もないんじゃなくて、なんの役割(ロール)も割り振られていなかったんじゃ……


「あっ……」

 気がついたら、私は下宿先を通り越して、だいぶ外れの方まで歩いていたようだった。後ろを振り返ると、雲に覆われて深みの増した夜の闇が広がっていて、その奥からは雨の騒音が唸り声を上げていた。



「唄子! 唄子のほしかったヤツ、買ってきたぞ」

 おじいちゃんの家に私はいた。そして、おじいちゃんは私にセイレンの変身セットの箱を差し出していた。人見知りの私が親戚の大人たちと馴染めるわけもなく、暇をしているのを見かねて買ってきたようだ。

「いいじゃん、着てみなよ」

 おばさんはそう言って、私を洗面所へ連れて行った。私はセットから取り出したプラスチック臭の抜けきっていない衣装を着て、おばさんに髪を結ってもらった。ただ、サイズがやや小さいみたいで、胸が圧迫されて息が詰まった。私の髪質では髪がまとまらず、おばさんは苦戦していたが、ピンできつく髪を留めることでなんとか再現しようとしてくれた。でも、髪が引っ張られて痛い。でも、そんな息苦しさも、痛みも、セイレンになるために必要なのだと思った。普通の、セイレンに夢見る女の子が、あのキラキラした可愛い姿になるためには、必要な苦しみなんだと思った。

 私は衣装に包んで親戚たちの前に出た。普段なら、恥ずかしくて大人の視線を浴びることなんてできなかったけれど、セイレンに近づいた今なら、できる気がしていた。

「ほら、みんな、唄子見てみぃ」

 そう言っておばさんは居間に集まる親戚たちの視線を集めた。

「なんだその格好、あれか、アニメのやつか、よく似合ってる。可愛いよ」

 おじさんはそう言って、テレビに視線を戻した。

「あ、あれか、セイレンでしょ、知ってる。よかったね〜。可愛くなったじゃん」

 いとこのお姉さんは携帯を横目に声を高くしてそう言った。

「よかったね、唄子。おじいちゃんのおかげで可愛くなれたね」

 おばさんはそう言って私を見た。みんな、私のことを可愛いと言う。それもそうだ、私は今、セイレンなのだから。可愛いと言われるのは、悪くない。確かにその時は、そう思った。最後に、お父さんに目をやる。

「唄子はかわいいね、本当にセイレンみたいだよ」

 お父さんも、そう言ってくれた。この日私は、可愛くなったのだった。動きにくいし、痛かったけれど、私は一日中セイレンの服を着て過ごしていた。そして、風呂に入る前に、脱衣所に行った私は、鏡で私の最後の「可愛い姿」を見た。自分が自分じゃないみたいだった。今の姿ならなんでもできる気がした。トマトを食べることも、授業中に手を上げることも、一人で電車に乗ることも。

 風呂を終え、もう一度鏡を見た。そこには、癖のついた洗い髪を垂らした裸の私が、薄い顔に細い目で私を見つめていた。


「可愛くない」


 そう思った。私が可愛いわけではなかった。大人たちが褒めていたのは、可愛い私、セイレンの私だった。可愛かったのはセイレンだ。私には何もなくて、セイレンの力がないと、ただの可愛くない少女なのだ。

 天海聖羅はそうじゃない。だって彼女自身がセイレンの力を秘めているから。でも、私には何もない。借りることでしか、真似ることでしか輝けない。私に役割がなければ、誰が私のことを見てくれる?



 すごい汗だった。布団のシーツはぐっしょりと濡れていて、梅雨のせいか乾く気配もない。それに……体が熱くてだるい。喉も痛い。

「か……ぜ……?」

 声がうまく出ない。どうやら、昨日雨の中を歩いたせいで風邪を引いてしまったようだった。幸い食欲はあるし、症状はそこまでひどくはない。とりあえず備蓄しておいたインスタント食品でなんとか凌げるだろう。

 それにしても、これまで鮮明に例の夢━━セイレンになれない夢を見るのは初めてだった。いや、正確に言えば夢ではなかった。これは、追憶だった。思い出したのだ。私は、小学生の夏休み、おじいちゃんの家に言った時に、一度セイレンの服を着たことがある。ただ、着たのはその一回きり。もう一度着ようとは思わなかった。もう一度着るということは、もう一度脱がなければならないということで、それは、私が何もないことをもう一度確認するようなものだったから。実家で捨てた思い出がないことも、これで辻褄が合う。

 でも、それならどうして私はセイレンになりたいと思うんだろう。セイレンになりたくない、セイレンになれない理由なら、もうこれ以上説明しないでくれというほどにわかった。でも、私はどうして今もセイレンになろうとしているのだろう。それが、それだけがわからない。

 そもそも、小学生の頃の私はどうしてセイレンになりたかったのだろうか。可愛くなれるから? いや、違う。じゃあ、カッコ良かったから? 堂々としていたから? いや、それもなんかちょっと違う気がする。だって、かっこいいから良い、とか、堂々としているから良い、って、結局可愛いから良い、と言っているのと同じようなことだから。別に、「こうあるべき姿だと良い」からなりたいわけではなかったと思う。可愛くなければ何もないと思う前に、私はセイレンの何を見て、セイレンのようになりたいと思ったのか、それがきっと、とても大事なことのような気がする。セイレンには何がある? 可愛いの呪いにかかる前の私は、セイレンに何を見ていたんだ?


*


 風邪で学校を休んで、しばらく経った一週間後、私は実践言語現象学の最終回に出席した。

「なるほど、風邪ですか、それは不運でしたね」

 風邪のことを聞いた先生は、顎に手を当てて、さも悩んでいるかのようなジェスチャーをして見せた。

「はい、まあ……」

 かすれた声で返す。先週に引いた風邪は治りかけてはいたものの、先日の出来事のせいでまた拗らせてしまった。

「声が出づらいのであれば、試験は無理にしなくてもいいですよ。変身自体はできると知っていますし、もとより前期は歌唱トレーニングだけのつもりでしたから、成績は十分についています」

 確かに、この喉の調子じゃあ繊細な言語現象学的発声は困難だろうと思う。おそらく先生はそのことを私以上に知っている。だが……

「それにしても、こんな状況だというのに、なんだか自信満々というか、先々週までよりも表情が明るいように見えますが……」

「わかりますか?」

「そうですね。憑き物が取れたような、そんな表情に見えます」

 先生は不思議そうに私の様子を伺った。客観的に考えれば、声に制限がかかっている状態でのテストは失敗する。少し前の私なら、そういう現実を危うく信じ込んでいたかもしれない。しかし、今の私にはこのテストをやり遂げられる確信があった。

「先生、」

「はい?」

「私、テスト受けます」



 時は三日前に遡る。私は病み上がりのまま学校へと出かけた。出席は十分だったが、基礎ゼミの試験に出る必要があったので止むを得なかったのだ。いや、本当は、長谷川さんが来るラストチャンスがこの日なのではないかと推察したからだった。長谷川さんは三週連続の欠席で、もう出席日数はギリギリ。基礎ゼミを落としてしまってはゼミに入る資格を失うので、さすがに来るのではないか、と私は甘い期待を寄せていた。

 私は講堂の廊下で彼女を待った。そして、明るくなくても構わないから、彼女のあの声を待った。

「久しぶり、だね」

その甘い期待は、今回ばかりは叶ってくれた。

私は声の発信源に目線を向ける。長谷川さんだ。その声は、色が落ち、灰色に近づきかけていたが、長谷川さんの声が耳元をかすめるのがなんだか懐かしくて、少し嬉しくなってしまった。

「そうだね。久しぶりだね」

私は喜びを含ませながら丁寧に返した。しかし、長谷川さんは返事をしなかった。

「まあ……行こうか」

 私は他に何も言わなかった。長谷川さんはうなずいて、そのまま教室へと歩いていった。今日は曇り空で、コンクリート作りの校舎に立ち込める暗闇を蛍光灯の光が切り裂いていた。薄闇と薄明かりの隙間に、私たちは二人分の足音を忍び込ませた。



 テストの内容はさほど難しいものではなかった。事前に伝えられていた三つの問題の中から一つを選んで記述するもので、三週間休んだ長谷川さんでも、出席していた日の知識で答えられるものだっただろう。一応授業のレジュメはメールで送ってはいたものの、音信不通だったため、私は長谷川さんのテストの結果が少しだけ不安だったが、まあ、杞憂だったかもしれない。テストを終えて教室を出ていく時、後ろの席の長谷川さんをちらりと見てみたが、もう終わりかけだった。予想通り、しばらくすると彼女は荷物をまとめて教室から出てきた。それから、少しあたりを見渡して、私のことを見つけたようだった。しかし、知らないふりをして、彼女はそのまま歩き出す。

「あの、長谷川さん」

 テスト後の廊下ということもあって、最小限の声を彼女にひっかける。しかし、その声は振り落とされる。聞こえないフリだ。仕方ない。私は早足で彼女を追いかけ、肩に手をかける。

「なに……?」

 細々とした力ない声で、彼女は体を捻らせ、私の手を振り解いた。しかし、強い抵抗というわけではない。

「ちょっと……ちょっとだけでいいから、時間が欲しい」

 話しがあるとか、悩みを聞くとか、そういう偉そうなことは言えない。なぜなら、私も彼女も今いるところはそんなに変わらないはずだから。だけど、一度だけチャンスが欲しかった。それは彼女を変えるチャンスでもなく、ましてや自分を変えるチャンスでもないけれど、でも、逃してはいけないチャンスだった。

「どうして?」

「どうしても!」

 必死だった。天海聖羅なら、チャンスを逃さない。いや、変わるためのタイミングを逃さない。だから私は、少しだけ強く、彼女を引き止める。

「……わかった。でも、今はあんまり誰かと話したい気分じゃないっていうか……うん、ごめん。でも、本当に、私だけの問題だから、気遣いとかは、いいからね」

「別に、気遣いをするつもりはないよ。でも、ちょっと手伝いを頼みたい」

 そう、全てが変わるための手伝い。

「え? 手伝い?」

「そう、ちょっと、人気がないところに行こう!」

「え、待って、なにするの? 人気がないって、え? なにするつもり?!」

 私は長谷川さんの腕を掴んで、校舎の屋上に早足で向かった。



 「あの……私何かした? 嫌なことあったら聞くからさ、なにをするつもりなの……?」

 長谷川さんは困惑したまま、私の指示通りにベンチに座ってそう言った。

「ふう……」

 私は一呼吸おいて、冷静になるように努める。今更ながら緊張してきた。風邪の治りかけだからそもそも声がうまく出ないかもしれないけれど、そして、仮にできたとしても、長谷川さんが良くなるかはわからないけれど、信じるしかない。うまくできるし、これで長谷川さんが良くなる。そういう現実のあり方を、私は信じることにした。真剣に、そして、高らかに。

「あの……外間さん?」

 長谷川さんは困惑した面持ちで、私のことをじっと見る。

「いくよ」

 これ以上長谷川さんを、そして、あの頃の私を待たせるわけにはいかない。

「えっ、ちょっ、なにを?」

 曇り空の重い空気を肺にためる。そして、練習を信じて、声を上げる。

「hkfjatthng」

 これは、変身前に相手の認識をジャックするための、言語現象学的発声方法。

「っ!」

 ここ一週間しっかりと発声したことがなかったせいか、喉にズキズキと痛みが走る。しかし、ここでやめたら意味がない。三秒以内に長谷川さんの認識に働きかけをしなければならない。

 私は喉を振り絞る。

「深海よりも昏き青、さざなみよりもやわらかに、我がセイレーンの瞳に宿れ!」

 私は変身した。私の呼び声に応じて、私の身体は温かい光に包まれる。その一瞬の間に私の黒い長髪は複雑に編み込まれて、パーカーは絹と宝石を織り交ぜたドレスへと代わり、ポケットに潜ませていたスマートフォンはアクアマリンの意匠を凝らしたステッキへと形を変えた。

「え?」

 長谷川さんは文字通り、目を丸くした。俯いていた視線は私に引き寄せられ、大きく開いた瞳孔には、ちゃんとセイレンが映っていた。成功した!

「長谷川さん、」

 私は藍色の声で呼びかける。

「私はここにいる。どこにもいかない」

 それは、私の言葉ではあるものの、天海聖羅の声だった。

「え、ちょっと待って、外間さん……だよね? どうやって……?」

 困惑しているのか、長谷川さんは何度も瞬きをしながら私の目を見つめる。

「そう、私は外間唄子だけど、今は違う。今の私は天海聖羅」

 そう、自分に言い聞かせるように告げる。私を天海聖羅にしているわけではなく、私が天海聖羅であると信じるために。

「ちょ、ちょっと待って! 理解が追いつかない」

「理解しなくてもいいよ。そして、考え込まなくても大丈夫。ただ、信じて欲しい」

「信じる? なにを?」

 暗雲の醸し出す薄暗い空気をもう一度いっぱいに吸い込み、それを青色に着色した声をかける。声の色を、彼女に重ねるのだ。

「自分自身を、信じるの。私が何者かはどうでもいい。ただ、目の前にセイレンがいると信じている、そんな長谷川さん自身のことを信じてみて」

「でも、セイレンはフィクションだし……」

 彼女の疑い、それは私がセイレンであることの疑いではなく、彼女自身が、自分の中からセイレンがいなくなるのではないかという疑い。私は、それを晴らすために、この姿になった。声は徐々に掠れていく。それでも私は、喉を振り絞って、彼女を信じ込ませる。

「フィクションだとしても、関係ない。だって、今までだってそうだったでしょ? これまであなたの中にはずっとセイレンの姿があったはず。どこにもいかない。その現実は、変わらない。あなたはなにも失わない。だって、私はここにいるから。あなたが信じ続ける限り、私は何度だってあなたの前に現れる。例えあなたの中から私が消えてしまうことがあろうとも、会いたくなったら信じればいい。信じ続けることは虚しいことじゃない。だってそうでしょ。天海聖羅の勇敢さは、忌まわしきものを払い退け、愛するものを守りきる自信を持つごどなんだがら!」

「はは、」

 長谷川さんは、私の目を見て、安心したように笑みをこぼした。

「あははは……!」

 急に笑い出す長谷川さんに困惑した私は、不意に外間唄子として彼女を気にかけてしまう。

「ど、どうしたの?」

「外間さん……ありがと。もう、大丈夫大だから……ふふ」

 外間さん、確かに長谷川さんは私に向かってそう言った。しかも、笑いを堪えるように。

「ちょっと、なんで笑うの?」

「ううん、いや、嬉しくて。外間さん。私のことを元気付けようとしてくれたんでしょ?」

 長谷川さんの声に、明かりが灯っていた。春の日差しのような暖かさが、彼女の声に戻りつつあった。

「そうだけど……なんで笑うの?」

「だって、セイレンのモノマネするなんて、予想できなかったんだもん。確かにこれは……ふふ、人気のあるところじゃあできないね」

「ちょっと! ごっぢは真面目にっ! うっ!」

 反論しようと試みたが、喉が限界のようで、なにもないのに喉がつっかえる。

「だって、途中から声ガラガラだったんだもん。最初はすごい迫真だったから、もう、なんていうか本物に錯覚? しちゃったけどさ。途中からはモノマネする外間さんにしか見えなかったよ」

 言われてみると、私の声は無理がたたったのか、しわがれ尽くしたハスキーボイスに変わっていた。いつかの合唱団の練習に打ち込んだ時も、こういうことがあった。

「や。そんな、」

 かすれ声で精一杯に返す。すると、長谷川さんは落ち着いたのか、顔を上げて答える。

「でも。ありがとう。なんかスッキリした。そうだよね。私らしくもない。別に、ちょっと離れそうになっても、好きだったことは変わらないし、それに、それがあっての私だもんね。私が私じゃなくなるわけじゃない。私は私。今まで通り、好きなものは好きでいるのが私だもんね。うん。自信が大事。そうだね。私がセイレン好きなのも、そういう真っ直ぐな感じが好きだったからだったと思うし」

 長谷川さんの表情は、笑ったせいなのかわからないけど、声と瞳が潤って、頬が赤く腫れていた。

「私も一緒だよ」

 先週の自分を思い返して、私は長谷川さんの隣に腰掛けた。

「え?」

「私、子供のころセイレンになりたかった」

 長谷川さんの方ではなく、空を見上げて私は告げた。雲間からわずかに日光が漏れ始めていた。

「そうなんだ……まあ、モノマネ完璧だったもんね」

 戯けたように返された。まあ、確かに最初に変身のセリフを聞いたのは遠い昔のはずなのに、リメイクを観る前までもずっとこれを覚えていたくらいだから大した反論はできない。

「うっ……ま、まあそれは置いといて。でも、今まではそのセイレンになりたい気持ちが嫌いだった」

「え、どうして?」

 少し横目に長谷川さんの方を除くと、長谷川さんも空に向かって話しているようだった。まあ、隣に座って向き合うのも変だし、今彼女はあまり顔をみられたくはないんじゃないかと思って、そのまま私たちは横並びに話を続けた。

「だって、セイレンになることで、私がセイレンみたいに可愛くなろうとしているみたいだったから」

 しばらくして、長谷川さんは私の言葉を反芻したように、ゆっくりと返す。

「確かに……セイレンは可愛いけど、でも……そこじゃないよね。セイレン、というか、天海聖羅の良さは」

 雲の切れ目は大きく裂け始め、青い青い空が次第に広がっていく。

「そう。そうだったの。実は、私も先週風邪で休んでてさ」

「……ああ! だからその声なんだ」

 長谷川さんは合点がいったとばかりにそう差し込んだ。

「うん。その時にずっと考えてた。セイレンは確かに可愛いよ。でも、セイレンになることは、可愛くなることじゃない。簡単なことだけど、私は、セイレンになるからには可愛くないといけないと思ってた。変身は、なりたいものになるってことは、可愛くなることだっていうのが、私の信じ込んでいる現実だったから。でも、女の子は可愛くなる必要はない。いや、正確には『可愛くある』必要はない。そして、私がしたいのは可愛くあることじゃなかった。天海聖羅のように、自分を惑わす悪魔のささやきを払い退けて、自分の大切なものがそこにあると信じ抜く、そういう強さが欲しかった」

 私は打ち明けた。すると、今度は長谷川さんの声が大きくなる。久しぶりの、真夏のように熱のこもった、長谷川さんのセイレンへの声が聞こえ始めた。

「うんうん、わかるよ。二十六話でリリスに唆されても友達の優子を信じ抜くシーンとか、四十八話で魔法少女であることに疲れて自暴自棄になりかけるけど、家族や学校のみんなとの日常を守ために自分を奮い立たせるシーンとかね!」

 数分前とは違った豹変ぶりに、私はたじろいだが、でも、長谷川さんのこの変身ぶりに、今となっては懐かしさと安心感があって、愛おしいくらいだった。

「ま、まあ、そう……! そこまで具体的ではなかったけど、そういうこと!」

「いやー、なんかわかるなあ……」

 私の告白は、どうやら彼女にも一脈通じるところがあるようで、長谷川さんはしみじみとした風に腕を組んだ。

「そうなの?」

「うん。私、セイレンずっと好きでいたけど、小学校中学校では馬鹿にされるし、高校の彼氏には見当違いなこと言われるし」

「どういうこと?」

「いや、普通にさ、女児アニメずっと好きなのはキモがられるというか、ダサいとか、変だとか、いろいろイジられることが多かった。まあ、その時の私は反抗心燃やして絶対セイレンのこと好きでい続けてやろうって思ったけど」

 確かに、そのエピソードは私にも通じるところがあった。私からセイレンの話題をふることはなかったけど、たまに昔のアニメの話とかで、セイレンの話題が上がるたびにぞくっとしたというか、私の触れたくない部分が掘り返されるような気分がして、怖かった。まあ、それはさておき、長谷川さんの……彼氏?

「で、高校の彼氏って?」

 聞きこぼしのないように詰め寄ると、彼女は少し言い淀んだ。が、観念したのか、早口で語り出した。

「あー。うん。まあ、高校では本当に仲良い人にしか自分の趣味話さなかったんだけどさ、まあその、彼氏がさ、できてさ。成り行きでその時の彼氏にも話したのよ。そしたら、『天海聖羅よりもゆみの方が可愛いよ』って、言ってきたの。キモくない?」

 私には彼氏ができたことはなかったけれど、同情した。男子という生き物は、たまにカッコつけておぞましいセリフを吐くことがあることくらい、私にだって周知の事実だからだ。

「それは……キモいね」

「だよね! そういう話じゃないんだわ、って思って。しかもそのセリフを気に入ったのか折に触れて言ってくるから、さすがに別れた」

 バカな生き物がいるものだ、と思いつつ、それで別れるのも長谷川さんらしいとも思い、なんだか面白かった。でも、そういうエピソードがあるのは、少しだけうらやましかった。私はどちらかというと、セイレンへの思いを封じ込めてきた人間だったから。

「でも、まあ、私は、しばらくの間自分がセイレンみたいに可愛くないのを気にしてて、ことあるごとに自分が可愛くないと思われてるんじゃないかって考えながら暮らしてた節があるから……むしろそう言ってもらえるだけマシかな……と思うけど」

 すると、長谷川さんは私の方に向き直って、私の手をとって言う。

「いや、だめでしょ。可愛いが判断基準じゃダメなんだって。可愛いかどうかで見るってことは、可愛くないところがあったらどうするの? 可愛い時はいいかもしれないけど、もし可愛くない部分があったらどうしようとか、可愛くない部分は隠さなきゃ、って思いながら生きるのは、辛い以外の何モノでもないよ。可愛いに支配された生き方だよ」

 今までの私を表す表現として、今の言葉はまさに正鵠を射ていた。そして、一つの言葉が浮かぶ。

「そっか……そうだよね。呪い、みたいだね」

 すると、長谷川さんは大きくブンブンと頷いてから、補足した。

「ま、その点セイレンなら呪いも跳ね除けられるから、やっぱり私たちの理想像なんだろうね」

「そうだね。多分、私がセイレンにずっとなりたかったのは、そういう呪いを引き剥がしたかったからなのかもしれない」

 私がセイレンに変身できたのも、可愛さでものを考える呪いを跳ね除け、長谷川さんの支えになりたいと思ったからだ。忌まわしきものを跳ね除け、愛すべきものを守る。そんなセイレンの姿をしっかりとイメージできたから、セイレンになれた。

雲は晴れ、セミが鳴く。微かに暑い空気が胸の中に流れ込んできた。梅雨は終わり、夏がくる。海よりも深い青色の空が押し寄せてきて、また光が差し込む。私は藍色の声を含んで呟く。

「一緒に帰ろう」

すると、呼応するようにもう一つの藍色の声が反響する。

「うん」

 晴空の下で、二つの藍色のユニゾンが膨らんだ。



「とまあ、こんな感じなんですが……」

 テストを無事終了し、私は授業の余った時間で、先生にセイレンへの変身を習得した経緯を話した。

「なるほど……それで、いまだに声がかすれているというわけですか」

「……はいまあ、そんな感じです」

 こうもぶり返し続けていては、いつ治るかわかったものじゃない。

「でも、テストでは、まあ短い時間ではありましたが、ちゃんと変身できていたので合格です。喉のコンディションを加味すれば、かなりの高評価ですよ」

「それは何よりです」

 とりあえずやり遂げた、と、私は椅子に深くもたれかかる。

「どうでしたか、この授業」

 どう、と言われてすぐに言葉が浮かばなかったけれど、探り探り、私は言葉を継いでいった。

「いやあ、最初は『魔法を信じますか?』って聞かれて、めちゃくちゃ怪しい授業だなとは思ったんですけど、でも、結果的に受けてよかったです」

 そう答えると、先生は少々渋い顔をしたが、満足そうな顔をした。

「少々引っかかるところはありますが、まあ、そう言ってもらえれば何よりです」

 まあ、授業に関して言えることはそうだけれど、でも正直、言語現象学を通して私が得たものは大きかった。

「ありもしないものを信じるって、正直今でも姑息なことをしているような気がするんですけど、でも……この授業を受けてわかったことがあって」

「ほう。それはなんですか」

 先生は興味深そうに身を前に傾けた。

「私たちって、実は意識していなくても知らず知らずの内に、ありもしないことを信じ込んでしまっているんだなって思って。それなら、意識して真剣に、信じたいことを信じるくらいのわがままを通しても、別にいいんじゃないかなって思いました」

 だからこそ、私にはなにもないだなんて現実は信じないことにした。今はもう、私は外間唄子という役割があると信じている。正確には、信じていくしかない、ということだけれど、それは別に、心もともないことじゃない。信じていくしかないけれど、その道も悪くないことなんだと、今はそう思っている。

「……そうですね。そうだと思います。私も、同じ考えです」

「後期は言語現象学のこと、もっとよく知りたいです」

 私の喉から海のような藍色の声が湧き上がる。

「そうですね。じゃあ、また後期も、この教室で」

 先生の声色も、私の声に反響して灰色からもっと明るい、晴れ空の色に近づいていた。

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