第三幕 喉を震わせる

 私は変身した。私の呼び声に応じて、私の身体は温かい光に包まれる。その一瞬の間に私の黒い長髪は複雑に編み込まれて、制服は絹と宝石を織り交ぜたドレスへと代わり、カバンに潜ませていたコンパクトはアクアマリンの意匠を凝らしたステッキへと形を変えた。

「深海よりも昏き青、さざなみよりもやわらかに、我がセイレーンの瞳に宿れ」

そう唱えれば、ステッキから五線譜をなぞる海水が湧き上がり、潮の香りと泡の跳ねる音がたちまち怪物を包み込んでいく。セイレンになった私にはなんでもできる。海王ネプチューンの加護を受けて、青海のマナを自由に扱う力を得ている。私の祈りに応じて、過酷な嵐の海のような厳しさで悪を退けることもできるし、エメラルドグリーンの水平線のような優しさで愛する人を包み込むことができる。天海聖羅にはそういう力がある。払い退けたいもの、大切にしたいもの、そういうものを前にしても、自分に与えられた力を信じて疑わない。信じること。それが彼女だ。じゃあ、私は?


 

 また、この夢だった。私がセイレンになる夢。だけど、私はセイレンになれていた。失敗しなかった。いや、本当は私がセイレンになったわけではないかもしれない。天海聖羅が、セイレンになっただけなのかもしれない。これは私を天海聖羅に重ねた夢だからセイレンになれたのだ。外間唄子がセイレンなのではなくて、天海聖羅しかセイレンになれない。今の夢は、どちらかというと、そういうメッセージだ。いわば、「天海聖羅の姿を見る私」の夢だ。例えればそう、テレビ画面を見て天海聖羅になろうと思う、始まりの私だ。

「そういえば、私は本気でセイレンになろうと考えていたこともあったっけ」

 なりたい自分、あるじゃないか、と思った。私のどこかには、今もセイレンになりたい気持ちが宿っている。夢の中でいままで何度もセイレンになろうとしてきた。何度も失敗に終わるというのに、それでも私はこの夢を繰り返し見ていた。でも、どうしてここまでセイレンに固執するのかわからない。子供の頃に純粋に追い求めていたから? そうだとしたら、諦めたきっかけは何? 自分が精神的に成長したから? いや、だとしたら諦めきれずに何度も夢に見るのはおかしい。セイレンになりたい気持ちが強いとしたら、私は諦めていないし、成功する夢を見ていてもおかしくはない。かといってなりたい気持ちが強くないのだとしたら、私は繰り返し夢の世界でセイレンになろうとはしない。何か、ズレがある。私の中に歪みがある。憧れの気持ちと、憧れを避ける気持ちが反発し合って、私の底の部分が屈折して見えなくなっている。



「久しぶりだね」

私の襟足を、黄色い声が通り過ぎていった。

「あっ、長谷川さん━━」

私が振り返ると、そこに彼女はいなかった。ただ、別の待ち合わせをしていた学生たちが合流している会話があるだけだった。そして、それからいくら待っても彼女は私の前には現れなかった。仕方がないので、私は一人で教室へ向かった。その日の授業を長谷川さんが欠席していることを、その後すぐに知った。

私はスマホを立ち上げて、『大丈夫?』とラインをした。気の利いた言葉をかけようと思ったけど、思いついた言葉のどれもが先週のことを嫌に蒸し返してしまいそうな気がして、私はそうとしか打てなかった。その日の夜、『どっかで風邪もらってきちゃったかも。大丈夫』というメッセージとセイレンのスタンプが返ってきた。こんな時でもセイレンを使ってくることに少し安心しつつ、私も同じように「がんばれ!」と言う天海聖羅のスタンプを送り返した。



 次の週も、長谷川さんは学校に来なかった。

 風邪じゃない。そんなことは薄々感づいてはいた。でも、少しすれば立ち直るものだと思っていた。いや、そう思いこみたかった。私の送った「どうしたの?」と訝るセイレンのスタンプに、既読がつくことはなかった。

 太陽のような声が私の耳に差し込まなくなってすぐに、季節は梅雨に転がり落ちていった。



「浮かない顔ですね」

 先生は不意に私に告げた。

「いやあ、難しくって……」

 音象徴を増やすためのトレーニングはもうすぐ終わりを迎えようとしていた。ヨーロッパ音楽、中国歌謡、そして、最後はドイツ語で行われるヨーデルの仮声帯の習得だった。その課題曲である『ホルディリア』もとうとうマスターしたので、あとは変身するための呪文……もとい、実践言語現象学的発話を習うだけである。

「それにしては、随分と成長が早いといいますか、もう完璧に使いこなしているように感じますけれど……」

「あはは、そうですかね」

「何か気がかりなことでも?」

 ごまかしが簡単に通じるとは思っていなかったけど、先生は思いの外鋭い洞察の声を私に突きつけた。

「いえいえ。そんなことは」

 私ははぐらかす。プライベートなことだから先生に言いたくないという気持ちもあったが、どちらかというと、自分の悩みをまだうまく言語化できていなくて、聞かれても困るから、お茶を濁すしかなかったのだ。

「私も外間さんほどではないですけど、こと言語に限っては音に敏感なんです。喋っている内容が建前であることはわかりますよ」

 先生は目を細める。灰色の声が半紙のように私の心に入り込む。

「……なんでもできるんですね、言語現象学って」

 私が追い詰められた被告人のように答えると、先生は薄い笑みを浮かべた。

「いいえ、今のは単にカマをかけただけです」

「え、」

 イラつくけれど、間抜けなのは私だ。あからさまに気を落としてしまっているのが、自分でも痛いくらいにわかっている。こんな調子じゃ隠し通すなんてハナからできなかったのかもしれない。どう言葉を継ぐか悩む私を尻目に、先生はまたいつも通りに持論を展開していく。

「繰り返しになりますが、言語現象学は信じることが重要です。そして、何かを気に掛ける思いというものは信じる気持ちを阻害する。イワシの頭も信心からとはいいますが、後ろ髪を引っ張られてはその頭が引っこ抜かれてしまいます。あ、イワシには髪がないから、信じる神を残せるのでしょうか。おっと、イワシで話が逸れてしまいました。まあ、とにかく、悩みを解消することも言語現象学において大事なことですから、差し支えない範囲でなら手伝いますよ」

 この先生、歌唱トレーニングもそうだったけれど、なんでも講義の一貫だと言えば私がするとでも思っているのだろうか。いや、まあ、だからといって断っても詭弁じみた持論をこねくり回して誘導してくるに違いない。雄弁で弁が立つ。論理も理論も未熟な私が相手取るには、厄介極まりない。

「あーいや、まあ、その、友達のことで」

 とりあえず、当たり障りのないように切り出す。すると、先生は哀れみを向けるような優しい目で私にこう告げた。

「大丈夫です。外間さんならすぐに友達が作れるはずです」

「いや、そうではないですよ?」

 居眠りといい、この先生、私のことをかなり煽ってくる。

「居眠りから起こしてくれる友達もいないのに?」

 それについてはぐうの音も出ない……が、

「それはたまたまです。そうじゃなくて、仲の良い友達が学校へこなくなっちゃったんです」

「……なるほど」

 先生は「学校へ来なくなった」という言葉を聞いた途端、大人しくなってしまった。今まで大人しくない大人だったというのは、大人としてどうなのかと思うけれども。

「なんですか」

「いや、私もそういう経験があったので」

 しおらしい表情の先生は初めてだった。何ぶん悩み事とは無縁のような人間だと思っていたので、急にシリアスになられるとちょっと引く。

「えっ、意外ですね」

「そうですかね。大学生にはよくあることですよ」

 先生は灰色の声で明るく持ち直した。もしかして、また戯れて私の反応を伺っているのだろうか。その手には乗らない。

「あれですよ、サボっているのはノーカンですからね」

 そう言うと、嫌に真剣な面持ちで先生は答える。

「サボるもサボらないも、それは見る人が決めることです。休んだ人がどんな理由で欠席したとしても、それがサボったと判断されればサボったことになるのですから」

「まあ、そうっちゃそうかもしれませんけれど」

 お得意の詭弁だろうか。

「ただ学生時代の私も、恩師との出会いがなければ今頃どんな生活をしていたか想像がつきません。いや、おそらく自ら死を選んでいたかもしれません」

「えっ、どういうことですか。先生に何があったんですか?」

「あまり話したくはありません。ただ、その経験から私が得た教訓は、現実はその良し悪しにかかわらず、自分がそう信じた姿を見せるものだということです。仮に私の人生には大切なものなど何もなくなってしまったと思い込めば、本当に現実はそのような表情を見せるんです。でも、私を変えた先生はこう言った『現実は、存在すれども実在しない』と。当時の私には意味がわからなかった。すると続けてこう言った『実在というものは、私たちが見ていないところでもそこにあるもののこと。一方、現実というのは、常に私たちの目の前に現れる。しかし、これは私たちが現実に目を向けるからではない。私たちが見るところに現実が生じる。哲学を持たない人間は君に現実を見ろというかもしれないが、それは甚だしい誤謬だ。彼らが見ろという現実は無数に存在する現実の中で都合のいい現実のことを見ろと言っているに過ぎない。君には君の現実がある。目を背けたいということは、目を離せずに見てしまっているということだ。君は、ちゃんと現実を見ている』と。まあ、一言一句丸暗記しているわけではないですけれど、確かそんなことを言ってくれました」

「それって、言語現象学の根本的な考え方と似てますね」

「……そうです。これが実践言語現象学の出発点になります。私は、ここから新しい現実に向かって走り出しました」

「じゃあ、例え辛くても、いつかは乗り越えられるってことですか?」

 すると、濁った。言い淀んだわけではなく、先生の灰色の声が、黒色に近づいたように聞こえた。心なしか、語勢が強くなっている。

「いや、それはないです。現実は実在しなくても存在はする。だからこそ、辛い経験は存在する。そして、一度存在した辛い経験は消えない。なぜならそれはすでに自分の一部になってしまうからです。私たちが今何をするかには必ず過去からの繋がりがあるんです。だから、乗り越えることはできません。辛い経験が過去になる時は、乗り越えているのではなく、取り入れているからです。言語現象学でも、現実を今から作り上げることはできても、過去に事実として起きたことをなかったことにはできない。まあ、歪めたり、偽ったりすることはできるかもしれないですが。でも、歪めることも偽ることも、そうしたいと思わせる過去の事実によって引き起こされている以上、なかったことにはなりません。過去からのつながりは絶てない。過去の事実は過去のものにできない。乗り越えて、遠ざかって、見えなくさせることはできないんです。人は折に触れて、過去の出来事と繰り返し繰り返し通信して、そうして今の行動をするんです。だから、乗り越えるなんてこと、できっこないんです」

「じゃあ、私の友達は、どうしたらいいんですか? 正直、私の友達は哲学の難しい言葉じゃ前に進めそうにないんですけど」

 先生は、黒っぽい声のまま、鋭い眼差しで私を睨んで言った。

「その友達は、どんな現実を見ているんでしょうかね」

 私はその黒さに思わず身を竦めてしまった。必死に言葉を探る。

「どんな……それは、自分を支えていたものがいなくなってしまうような……はじめからなかったものになってしまうような……確かそんな風なことを、言っていたと思います」

 先生は、それを聞いてから何も答えなくなった。石膏像のように口を固くつぐんだまま、瞳を少し潤わせていた。

「先生?」

「……いや、なんでもないです。何度も繰り返していますけれど、現実は好きなように変わります。その人の都合に合わせて、人によってまちまちに。だからこそ、その中で現実をそう簡単に変えられない人というものは、周囲の変わっていく現実から取り残されていくんです。ずっとずっと大切にしていた現実は、そう簡単には変えられない。大切だから、守りたいから、自分の現実は変えることができなくなる。でも、その先には孤独がある。いや、そのことを孤独といいます。自分の見ている現実が時とともに変わっていくのは、避けられることではないんです。普段はそのおかげで、自分の見たい現実に近づくこともできるんですが。しかし、自分の愛する現実を変えたくないと思ってしまった時、その現実の移り変わりを起こす時の流れは、自身を引き裂きく激流へと姿を変える」

 現実が移り変わることは、時が流れる以上止められない。確かに、長谷川さんは自分を取り巻くセイレンがこれから変わっていくせいで、今までの自分でいられなくなるのを恐れていたのかもしれない。

「じゃあ、どうすれば」

「時間の流れの中で、私たちは様々な現実の岸辺に打ち上げられる。いつその岸辺から自分を攫う波がやってくるかわからない。人は波によって現実の岸辺から引き剥がされ、また新しい現実の岸辺へ打ち上げられる。そうして時間の流れに自身を漂わせていくのが人生だとしたら……その友達のように一つの岸辺にしがみついている限り、いずれ時の波に体を削られて、消えていってしまう。だから……だから、その友達に一刻も早くその岸辺から離れさせる必要がある」

「でも、離したくないから、身を裂くような思いになってまでしがみついているんですよね。それなのに、引き剥がすのは、なんか……違うんじゃないですか?」

「そうだ。大切な岸辺があるから、離さない。でも、時はそれを許さない。流れに逆らうことは許さない」

「でも!」

 すると、先生は落ち着き払って、強い語勢で私に言い放つ。

「だから、流されても、また愛する現実の岸辺にたどり着けばいいんです。過去が消せないのと同様に、過去から未来へ移る必要がある。でも、今は作れる。今からのことであるなら、現実は作れる」

 現実から離れなければならないなら、新しい現実を作ってしまえばいい。現実を作り出すための方法、それは━━

「実践言語現象学で、ですか?」

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