第二幕 喉を作る

 基礎ゼミまでの時間を潰すために、私はレジュメを見返していた。先生は、魔法は言語現象学の手にかかれば現実のものとなってしまうと答えていた。いまだ半信半疑ではあるものの、消しゴムの「飛翔」を目にしてから、それが単なる妄言や詭弁だとは思えなかった。何せ私の消しゴムを使ってそれをやってのけたのだから、マジックだとも思えない。もし仮にマジックだったとしても、そのタネが知りたいくらいだ。どんな手段を使ったとしても、あの人はを実際にやってみせたのだ。

 訝る私の意図を汲み取ったのか、先生は授業の終わりに「全ての答えは言語現象学にあります」と答えながら、A4用紙何枚かをホチキスで留めたレジュメを渡してくれた。ここ一週間、ある時間を除いては、私はこのレジュメを眺めていた。


 ・実践言語現象学の射程

 実践言語現象学の目的は「言語を用いて現実を再解釈する」ことにある。これは、あくまで再解釈であることが重要である。なぜなら「現実を作り替える」ための方法は再解釈と再構成に分解できるからである。再解釈と再構成の違いは小説や戯曲などのストーリーと、それを見る我々の関係になぞらえることができよう。例えば、主人公がクライマックスで黒幕と差し違えてしまうストーリーがあったとしよう。だがあなたは主人公に生き残ってほしかった。この時、あなたの望みをかなえる方法は二通りある。一つは物語の筋書きを書き換えることだ。脚本や小説に取り消し線や最後の一行に「実は主人公は生きていたのだ」という文言を書き加えればよい。このように、事実を組み換えてしまうことは再構成にあたる。だが、再構成には現実を作り替える上で大きな障害がある。それは、現実においては、事実を組み換えることができないという点だ。小説や脚本とは異なり、現実ではペンや修正液を使って一度起こった事実に変更を施すことはできない。そこで、現実的に現実の変更を現実にする手段として挙がってくるのが、再解釈である。現実とは、事実に対する解釈で成り立つ。例えば、とある場所で地震が起きたとしても、その事実をなかったことにする術は存在しない。しかし一方で、同じ「地震が起きた」という事実でも「地の神が怒った」と解釈するか「プレートが擦れ合っている」と解釈するかでその意味合い、すなわち観測者にとっての現実は変化する。つまり、現実を変化させる二つのアプローチのうち、現実変更可能性が高いのは再解釈である。これは、我々が現実に縛られた存在ではなく、単に事実に縛られた存在であるということであり、また我々は解釈と現実においては自由な存在であることを意味している。


 現実を作り替えるためには出来事に対する解釈を変えれば良い……というのは正鵠を射るような感じがする一方で、上等な詭弁に包み込まれているようにも感じる。けれど、確かに小説『一九八四年』の中で、主人公のウィンストン・スミスは実際にあったはずの出来事が政府によってなかったことにされてしまうのを恐れていた。たとえ実際に体験したはずの記憶であろうとも、その確証や根拠となるものを徹底的に排除することによって、その現実性は脆く崩れ落ちてしまう。再解釈は実際にあった出来事を異なる別の出来事として認識する二重思考のようなものなのだろうか。けれど、その二重思考を二重思考だと気づかせないまま他人の脳内に作り出すこと、すなわち先生が意のままに私の見る「消しゴムの現実」を変えたようなことは、ここで言う再解釈だけでは難しいのではないのかとも思う。

 私は未だ半信半疑のまま視線を次節へと滑らせる。


 ・再解釈とは

 現実の変更手段として再解釈が有効であることは前節で述べた通りである。では再解釈、すなわち解釈の変更をどのような手続きで実現するかを明確にする必要がある。そもそも解釈とは、知覚、そして認識によって支えられている。

 知覚は感覚器官、すなわち目や耳、肌が感知する刺激によって行われている。こうした体外・体内感覚は、神経細胞を介した電気信号のパターンとして脳へと送られる。そして各感覚器官から伝達された生理的な信号は脳内の特定領域において綜合され、任意の意味合いを持った認識となる。すなわち、知覚→認識→解釈となる。これは解釈を変えるには認識を変える必要があり、認識を変えるには知覚を変える必要があることを意味している。

 一般に、知覚をもたらす刺激は現実内の事実によって与えられるケースが非常に多く、そのため解釈は事実に従属すると考えられている。これこそが「現実は不可侵で不変である」という謬見を生じさせる原因でもある。しかし、知覚を促す刺激は現実によってのみ生み出されるものでもなく、また、刺激の種類においても、事実から生じる偶発的な刺激のみが存在するわけではない。刺激は作為的に惹起させることができる。それも刺激のために事前に事実を用意する必要はなく、即時的に人工的な刺激を作り出すことができる。詳しい手法については次節に譲るとしよう。


「何読んでるの? レジュメ?」

 私の襟足を、ふと明るげな声が掠めた。

「あっ、長谷川さん、久しぶり」

 私の視界はレジュメからコンクリート造りの講堂へと引き戻された。声をかけてきたのはいつも通り長谷川さんだった。今日はカーディガンとこの前とは別のフレアスカートだった。読んでいたレジュメが怪しい授業なだけに、私は素早くレジュメを折りたたんでリュックサックにしまった。

「ん? まあそっか、会うのはいつも一週間ぶりだから、久しぶりか」

 先週と違って私と長谷川さんは基礎ゼミの授業へ一緒に行く約束を立てていた。約束、というよりは会話の流れでそれとなく示し合わせたという方が正確かもしれないけれど。ともかく、ここ一週間の私たちは頻繁にラインでやりとりをしていた。先日連絡先を交換したのもそうだが、私がセイレンを視聴したことが一番のきっかけだったと言える。私がレジュメを読む他にやっていたのはもっぱらセイレンの視聴とその感想を言い合うことだった。とはいえ、意外だったのは長谷川さんと大学生活の愚痴をこぼし合えたということだった。てっきり私は彼女の怒涛のセイレン語りがやってくると身構えていたけれど、返ってきたのは私の感想に対する共感とか、キャラクターの豆知識だった。彼女曰く「本気のオタク語りはツイッターでやっているから十分」だそうだ。実際に会う回数こそ少ないが、友達と呼べる友達が大学で作れたことがこの四月で一番の良いニュースのように思えた。

 ところで、リマスター版を見返して気づいたのだが、セイレンは私が思っているよりも重厚なファンタジーだということだった。魔法の設定や敵対する怪物の設定がやけに細かく作り込まれている。主人公の天海聖羅もその奥深い魔法の世界に高校生ながらも少しずつ順応していき、やがて自分の守るべき大切なものの存在に気付いていく。ただの可愛い女の子の話ではなさそうだ。これなら確かに、長谷川さんがずっとファンでいるのもうなずける。子供の頃はおそらくそういった作り込みに気が付けなかったけれど、大人になって見返してみるとわかる面白さもあるのだなと、月並みだがそう思った。

「セイレン、やっぱ面白いよね」

 なんともなしに、私はそう呟いてしまった。すると、長谷川さんは少女のように満開な笑みを浮かべて返した。

「ふふ、それラインでも何回か言ってたよね。私は製作陣でもなんでもないけど、なんか嬉しい」

 長谷川さんの声が晴れる。やはり、声を聞くと彼女が本当にこの作品を愛しているのだと思った。

「私も、なんか楽しい。なんていうか、久しぶりに何かを好きだなって思えるようになった。今なら自己紹介でもセイレンが好きです、って言えそうかも」

 冗談めかして言ってみた。でも、今なら少しだけ、今度こそ、これが好きなものだと言えそうな気がしたのだ。それに合わせて、長谷川さんは冗談を返すように笑った。

「それはやばいって!」

 講堂に響く二人分の足音に、今日は笑い声が重なった。


 *


 今週も実践言語現象学の教室に足を踏み入れると、先生は例の分厚い本を読んでいた。教壇の上にはいつもの指示棒……ではなく、指揮棒? それに、小型のキーボード……なぜ?

「こんにちは、どうですか、最近はよく眠れていますか?」

「え? まあ、はい」

「ああ、聞き方が悪かったですね。よく眠れていても授業中はダメですよ。夜にぐっすりと眠れていますか?」

 どうやら、先生の中では授業中に居眠りを決め込む学生という印象らしい。まあ、第一印象がそうだったから仕方ない。私が長谷川さんを怒涛のセイレン語りをする人と捉えていたように。

「いやいやいや、あれはほんと偶然なんですって! 大丈夫です。何もなければ寝不足になんてなりませんから」

「それはよかった」

 そういえば、今週はあのセイレンの夢は見てないな、と思った。実際にセイレンのアニメを見て、おぼろげな記憶が修正されたからだろうか。まあいいや、よく眠れるに越したことはない。

「ところで外間さん。歌を歌うのは得意ですか?」

「えっと、まあ、人並みですけど……まあ、合唱団とかの経験はなくはないです」

 人並み、と答えたが、実は一度不本意ながら歌唱に力を注いでいた時期があった。というのも、中学の頃の音楽の先生が少し変わった人で、私の名前が「唄子」であることを理由に、私をひいきしていたことがある。なんでも「歌は素晴らしいものなんです。こんな素晴らしいものを名前に入れる親御さんは大切にした方がいいでしょう。きっと外間さんは親御さんの期待に応えられる力があると思いますよ」という、今思えば荒唐無稽な彼女の美学によって、私は音楽の授業で一際手厚い指導を受けてしまっていた。半ば強制的にソロパートを任されたり、歌唱テストのトリを任されたりと、どちらかといえばひいきというより被害者に近い待遇を受けていたのである。けれど、今も昔も私はこの手の浮ついた期待をはっきりと断ることもできず、かといって恥をかきたくないという思いも強く、私はなりゆき的に熱心に歌の練習に励むこととなる。そして予言の自己成就というべきか、まあ、元々耳が良いことも幸いして、私は本当に名前通り歌がうまくなってしまった。最終的に先生がコーチをしている地元の合唱団に(強制)スカウトされてしまった。まあそれは、受験を理由に早々に脱退したけれど。

「よかったです。音痴じゃなければ十分です。楽譜は読めますか?」

 音痴とか、歌唱力とか、それが授業になんの関係があるのだろう。机の上においてある鍵盤を見ると、なんだか嫌な予感がする。

「まあ、それなりに……」

「なるほど、中国語とイタリア語、あとドイツ語は読めますか?」

「え? は? 中国? なんでですか?」

 歌唱力の次は語学力? 一体これはなんの授業なのか。

「これから歌ってもらおうかと思って」

「え、ここで? どうしてですか?」

 嫌な予感は的中した。やはりあのキーボードは歌うためのものだった。

「それはもちろん、実践言語現象学を身につけるために必要だからですね。あと、今からすぐってわけじゃない。これから覚えてもらおうと思って」

 私の動揺を全く意に介さないような面持ちで、先生は話を続けた。いや、むしろ私の動揺を楽しんでいるようにも思えなくはない。

「は、はあ、そうなんですか……中国語は第二外国語でとってて、イタリア語はまあ、歌う分には合唱で何度か経験あるので大丈夫かと思います。ただドイツ語はわかりません。無知です」

 私が無知です、と答えると、先生は口角をあげた。また変な言葉の言い回しを思いついたのだろうか。

「無知を知っているのはいいことです。無知の知を崇拝しているわけではなくて、もちろんメタ認知が育っているという点において。とはいえ、それなら授業スピードが大分早そうで何よりです。予備知識は本命知識に劣るとはいえ、あるに越したことはないですからね。備えあれば憂いなしということです。ところで、歌ったことのあるイタリアの歌はなんていう曲でしょうか?」

 例の中学の先生にアカペラで歌わされた思い出がもう一度湧き上がらないように堪えながら、私は答える。

「『Caro mio ben』ですけど」

「一節だけでいいから歌ってくれませんか?」

 絶対そう言うと思った。

「え……いやです」

 教師が女子生徒に歌を歌わせる。取りようによってはパワハラだ。断ってやってもいいだろう。

「一応これから歌の練習をするつもりだったのですが……」

 先生はあからさまに残念そうな調子を装ってみせた。

「あの、本当に関係あるんですか?」

「ある。大真面目だ。僕なんて音痴だったから、一時期は研究室よりカラオケで過ごす日の方が多かったくらいだ」

 先生はキッパリと答えてみせた。そこまで言われれば、と言うより、この大人に駄々を捏ねても、より弁の立つ駄々が返ってくるだけだと思ったので、私は渋々承諾することにした。

「……まあ、わかりました……。キーボード使っていいですか?」

「弾き語りですか?」

「音を合わせるだけです」

 先生の煽りにも思える軽口を払い除けて、教壇の上のキーボードの電源をつけ、一息吸い込んでから白鍵を押さえる。歌うための呼吸をしたのは久しぶりだなと思いつつ、機械的なピアノ音源に私の喉をチューニングする。

「じゃあ、歌いますね」


 *


 歌い終わると、教室の静寂が際立った。先生は少したじろいだような表情を見せた後、ふっと我に返って拍手をした。

「想像以上に上手で驚きました。人並みだなんて謙遜する必要はないですよ」

 今度は本心のようだった。言語現象学について話している時と同様に灰色の声をしていたから。とはいえ、こうも素直に褒められるとそれはそれで気色悪い。

「え、あ、まあ、はい。ありがとうございます」

 謙遜しても面倒だと思い、一応のお礼を言う。なんで歌った側が気を使わなければいけないのか。そう思っていると、先生は意気揚々と語り出した。

「そうだね。音程を合わせるスキルもそうだけど、呼気の扱いも上手い。子音の発音もはっきりしているし、巻き舌も完璧に習得している。母音を発する口の形も丁寧だ。ただ聞いておきたいことが一つ。[o]の母音が長音で[a]に変わっていく癖は歌唱法によるものでしょうか?」

 思いの外分析的な指摘をしてきて驚いた。まあそうか、この人は言語学者だ。音楽に関して素人だとしても、音韻に対しては敏感なんだろう。

「そうです。音の響きが良くなるし、息も続きやすいので」

 と、中学の頃の指導で教わった通りの返しをする。

「あえて変えずに歌うことは可能かな?」

「できます」

 我ながら自信満々にできると断言してしまったことが、後になって少し恥ずかしかったが、先生はあまり気にしていないようだった。

「なら大丈夫そうだ。閉音節の発音も巻き舌も完璧だから問題はない。じゃあ中国語の歌から練習しようか」

 ということで、ひとまず私は中国語の歌である『茉莉花』の練習をすることになった。中国語の歌詞に一文字ずつピンイン(中国語用の読み仮名のようなもの)を振っていって、まずは音程をつけずに丁寧に発音できるようにした。ここまでは中国語の授業とさほど変わらない。なんなら拍子がついている分いささか覚えやすかった。しかし、問題は別にあった。音程をつけて歌うことが思いの外難しい。というのも、声調をつけながら歌うのは私にとって未体験の領域だったからだ。わかりやすくいえば、歌唱中に任意のタイミングでしゃくり、フォール、こぶしを自在に付け加えるような難行なのである。

「苦戦しているようですね」

「おかげさまで」

 座って歌を聞いているだけで給料が発生するのだから、教師という職業は楽なものだと思った。

「少し休憩しましょうか。音楽でもトレーニングでも、小休止は重要です」

 一瞬意味がわからなかったが、なるほど音楽記号の小休止と休憩の意味での小休止をかけたのか。めんどくさいなこの人は。

「わかりました」

 リュックサックにしまっていた飲料水に、私は特に断りも入れずに口をつけた。今さらそんなことでとやかく言う先生ではないだろう。

「……でもひとつ疑問に思えないですか?」

 私が飲み終わる頃を狙ってか、先生は唐突に喋り始めた。

「え? 何がですか?」

「歌うことにこれだけ苦労するのであれば、中国人のほとんどが歌を歌うことができないことになる」

 それは確かにそうかもしれないけれど、わざわざ蒸し返すほどのことなのかな、と思う。

「確かに……そうですね。さすが中国四千年の歴史的なやつなんですかね……」

 私が適当に返すと、先生は首を横に振った。

「処理資源、あるいは認知リソースが関係しているんです」

「はあ、なるほど」

 またよくわからないことを言い始めた。

「キャッチボールをしましょう」

「ええ……ここってボール投げてもいいんですか」

 私の問いかけを無視して、先生は立ち上がり、私と距離をとった。

「実は消しゴムというものは、文字を消すだけではなく、『飛翔』させることもできるし、投げて遊ぶこともできるんですよ」

 先生はそう言って、私の筆箱に視線を落とした。いちいち先生の言動の理由を聞いてもしょうがない。

「わかりました……」

 そうして、私は筆箱から消しゴムを取り出して先生に投げた。すると先生もアンダースローで消しゴムを投げ返してきた。先生は手を構えて私の投球を待っている。私は先生にもう一度ほうり返して言う。

「これになんの意味があるんですか?」

 先生は微笑を浮かべてもう一度アンダースローをした。なるべく滞空時間が長くなるように。

「アメリカの首都は?」

 先生は急に私に問題を投げかけた。

「ワシントン」

 私は消しゴムとともに回答も投げ返す。

「中国の首都は?」

 先生はまたもやクイズを投げかけた。

「北京っ……!」

 私もなんとか答えを返す。

「今日は何月何日?」

 変化球。

「っえ? えっと四月の……」

 そして、先生とのキャッチボールは私の大暴投により幕を閉じた。この人は一体私をおちょくって何がしたいのだろうか。

「こういうことです」

「どういうことです?」

 私が食い気味に返しても、先生は冷静に語り始める。

「例えば、外間さんの脳が仕事に使えるコストが十あったとして、単純なキャッチボールならばその十のコストを全てキャッチボールに回せる。しかし、キャッチボールに加えてクイズに答える必要があったとしたら、外間さんはキャッチボールに五、クイズに五のコストを払うことになってしまう。こういうように、複数のことを同時にやろうとすればするほど、人間はひとつの仕事あたりに払える注意力が落ちてしまうんです」

「つまり、中国語の歌を歌う時はさっきのキャッチボールと同じようなことが起きているということですか?」

 音程に十のコストを支払うのではなく、音程に一、歌詞の内容に四、発音に五……くらいだろうか。

「ご明察。でも、外間さん。もし外間さんが野球経験者で、キャッチボールなんて片手間にできてしまうとしたら、おそらくクイズにも冷静に答えられていただろうと思いますよ。なぜなら、キャッチボールに慣れていれば、ほとんど注意を向けなくてもこの程度の距離の正確な投球はできてしまいますから。つまり、キャッチボールに二、クイズに八くらいの比率で注意を払えば問題ないということです。中国語母語話者も例外ではありません。中国語の発音・声調に注意を払う必要がほとんどないから、中国語で歌うことは容易い。では外間さんの場合はどうでしょう。中国語の母音は単母音、複母音、鼻母音を含めて三十六種あって子音は二十一種、つまり単純計算で一音節あたり七百五十六通りの組み合わせがあることになる。外間さんはこれらの発音に注意を向けて歌う必要がある。それに加えて四種類の声調も絡んでくる。いくら外間さんが歌うことに慣れていたとしても、今日もらったばかりの楽譜を読みながらそれらを同時に行うことは難しい。つまり、」

 そう長々と理路整然としたアドバイスをされると堪えるものがある。要するにこういうことだろう。

「つまり、中国語の発音に慣れれば実現可能……決して無理な話ではないということですか」

「その通り。来週も歌の練習をするから、まあ地道にやっていきましょうか」

「わかりました。やってみます」

 私はもう一度中国語のピンインをふった楽譜を持ち直した。しかし、次に教室に聞こえたのは私の音読ではなく、チャイムの音だった。

「今日はここまで。まあ、歌の練習をしなければならない理由は、薄々感づいているはずですが、レジュメに書いてある通りです」

 ドイツ語はさておき、巻き舌や複母音に声調、単純に歌の練習というよりかは、発音のバリエーションを増やすことばかり。これを先取りして目を通しておいたレジュメの内容と照らし合わせると……。

「音象徴効果の範囲を広げるため……ですか。でも思ったより実践的って感じですね」

 そう、自分で言ってからハッとした。実践的と言ったら、必ずこう返ってくることは読めたのに。そして、先生は口を開く。

「それもそのはず。実践言語現象学なんですから」


 *


 私は下宿先に着いてから、折り跡のついたレジュメを開いて、この前読みかけていた箇所から目を通す。


 ・シミュレーション

 刺激を人工的に作り出すことは、神経細胞に人工的な電気信号を送ることと同義である。なぜなら感覚器官を通した刺激は神経細胞によって電気的信号として脳へと送られるからである。問題は、その電気信号は事実の存在なしに発生するか否かである。結論から述べると、各感覚器官から脳へと送られる電気信号は事実の存在を必要としない。例え空想したとしても電気信号は発生するのである。このことはPorro.et al(1996) の実験において明らかになっている。彼らの行った実験では以下のことが行われた。指のタッピング(人差し指から小指までを順に親指と合わせる運動のこと)を繰り返す運動を行う群と、タッピングを想像させる群に被験者を分け、fMRIで脳の活動の強度とその空間分布を測定した。その結果、どちらも一次運動野で神経細胞の活性化が起きた。(平均して、実際に運動を行った群は2.1%、想像した群は0.8%の上昇が起きた)。つまり、実際に起きていない知覚であっても、それらの知覚に関わる神経細胞は活性化するのである。だが、これを踏まえて現実の変更にあたって注目するべき点が二点ある。一つは、現実を変更する対象者に想像を促す必要がある点である。もう一つは、想像が引き起こす電気信号は事実に基づく電気信号に比べて弱いという点である。すなわち、現実を再解釈する際の課題は以下の二点である。

 ①対象者に想像を促すこと

 ②想像により生じる電気信号をより強化すること

 逆を言えば、これらの問題を解決することができれば、対象となる人物の現実を変更することは可能であると言える。次節からは①への解決策を示す。


 解釈は神経細胞の働きによって成立するから、解釈を騙すならまずは神経細胞を騙せ、ということなのだろう。人間の思考やら心の動きが細胞と電気信号との関係にすぎないという考え方には抵抗があるものの、どうにも実際にあった実験結果を示されてしまうと納得せざるを得なくなってしまうような、この「高尚な知識に囲い込まれてしまう」感覚に抗う気持ちはあっても、その術を私は持っていなかった。


 ・言語シミュレーション

 シミュレーションにまつわる実験に、興味深いものがある。Jacobson(1932)の実験では「タバコを吸う」という文を呈示された被験者の脳内に喫煙時の唇に流れるものと同じ電気信号が発生する結果が示されている。つまり、自発的な想像を強制する必要なく、言語情報を呈示するだけでPorro et.al で示されるシミュレーションが行われる。つまり、①の対象者に想像を促す手段として、言語情報の呈示が有効であることがわかる。言語情報による想像の促進が持つメリットは言うまでもなく、大規模な機器を必要とせずに対象者の脳内に働きかけられるという点である。これで①の問題は解消された。次節では②の問題を扱う。


 言葉が想像を促す、というのは先ほどの「心が電気信号のやり取り」という考え方に比べれば飲み込みやすい知識だった。良い小説を読んだり、良い詩に出会えたりした時に想像の世界が膨らんでいく感覚なら、今まで何度も体験してきたからだ。でも、そういう想像が頭の中に宿った時、私の脳が無意識的にその想像を現実に重ねてしまっていると言うのは単純な驚きだった。ただ思い返してみると、没入する読書の後には、物語の世界が最後のページを閉じた現実の世界にも余韻として残響している感覚はあった。友達に励まされた後も、なんだかその励ましのように物事がうまくいくような錯覚に陥るし、その逆の自分を否定された時も、自分が現実世界から否定されたような気分になる。多分、言葉には元々その人の現実を変えてしまうような力が潜在的に含まれているのかもしれない。


 ・音象徴効果

 言語のもたらす情報は単なる概念フレームに代表されるような知識総体の惹起だけでなく、主観的感覚をも惹起させる。その例として音象徴効果が挙げられる。音象徴とは、言語の記号が表す辞書的な意味とは別に、音韻情報そのものが表す意味のことを指す。具体的な例としてブーバ・キキ効果がある。これはKöhler(1947)の実験による報告により命名された。その実験とは、丸い曲線からなる図形とギザギザの直線からなる図形を被験者に呈示し、一方が「ブーバ」他方が「キキ」という名前であると伝えると、被験者の98%(統計的に有意な偏りの人数比)は丸い図形をブーバ、ギザギザの図形をキキだろうと答えたというものだった。この実験に使用された「ブーバ」「キキ」という単語は意味を持たないことから、この結果は単語の音韻情報のみで判断されたものだと言える。その報告の後も様々な再現実験が行われたが、被験者の母語にかかわらず統計的に有意な結果が繰り返し得られた。もちろん結果は丸いものを「ブーバ」と名付けるものである。仮に音韻情報が意味判断に関わらないとするならば、丸い図形に連想される名前は「ブーバ」と「キキ」で半々になるだろう。裏を返せば、音韻情報は意味を持つと言えるのである。

 その後の音韻研究の結果、単語を構成する音素(例えば”real”ならばr/í/ː/lのそれぞれが音素である)のそれぞれを発音する際の口内運動と音象徴に相関があるとされている。例えば大量の呼気が放出され、唇も大きく開く音素「a」には「大きい」という音象徴があるのに対し、少量の呼気で唇を横に引き伸ばす音素「i」には「小さい」という音象徴があることが確認されている。また、これは実際に発話する場合でなくとも、発音を聞き取った場合や文字を読み取った場合でも音象徴による意味の解釈は作用する。なぜなら、リスニングの際に、口内運動で生じる神経細胞への電気的信号がシミュレーションされるからである。

 ②の問題の解決策として、この音象徴効果が有効である。従来の言語シミュレーションのような記号を用いた刺激ではなく、より身体に根ざした強力な音象徴の刺激を用いることによって、対象者の神経細胞を高いレベルで活性化させることが可能である。ただ、従来の音象徴では活性化させられる刺激の種類が少ない。そこで、言語現象学では音素の組み合わせによる単純な音韻情報だけではなく、音程、声調、また仮声帯を用いた発声方法を組み合わせることにより、対象者に促す刺激の種類を拡張する。


 ここまで読んだところで、私はレジュメを机の上に放り出した。何度か読んではいるものの、理解するのに時間がかかる。そもそも書いてある用語の意味がわからないという単純な問題もあるけれど、やはり書いてあることがどこか空を掴むような感じがして、理解が喉の奥に落ちてこない。ただ、こんな風にレジュメの内容を信じられないでいると、ふと先生が見せた消しゴムの「飛翔」を思い出すのだった。

 これは、中学の時に理科の授業で抱いたあの感覚に似ている。綿状に加工した鉄を加熱すると質量が増える。それは、加熱したことで鉄綿が空気中の酸素と結びつき、酸化鉄となるからだ、と教わった。教室の誰もが酸素が鉄と熱で結びつく光景を見たことがないにもかかわらず、増えた質量は酸素の分であると信じざるを得なかった。なぜなら、そうとしか考えられないからだ。でもどうだろう。これを中世ヨーロッパの広場で披露したのなら、きっと魔術の類だと思われたかもしれない。なんの変哲もない鉄をタダで重くすることができる。こう言って加熱した鉄を同量の鉄と天秤の上で比べたら、きっと裁判にかけられていただろう。そしてその法廷では晴れて魔女の名を冠することができ、私の体は燃焼によって質量を失うはずだ。やはりこういった科学的な試みは、それを認める時代、場所、聴衆によっていともたやすくインチキと解釈されてしまう。例えそれがどれだけ精巧な手順を踏んで、限りなく百パーセントに近い再現性を誇っていても、そこにいる人物が信じなければ、あるいは魔法だと信じ込んでしまえば、その人にとっての現実は書き換わってしまう。ガリレオが地動説を唱えても周囲に認められなかったように、ジーメンスの社長が先住民との握手に電流を流して神の力を演じたように、実際に起こったことにどんな理屈をつけようとも、結局はそれをどう解釈するかで人間にとっての現実のあり方はゆらぐ。

「存在は汝の信ずるところにあり……か」

 存在を変えたければ、その存在への信念に働きかける、実践言語現象学のレジュメには繰り返してそう書かれている。じゃあ、私の現実も単なる思いこみで、仮にその思いこみから抜け出すことができたなら、世界は自由になるのだろうか。そう思うと、なんだかそこはかとない不安が体を包み込んだ。本来、なんでも思い通りの世界が叶うなら、喜ぶべきものなのだろうけど、今の私にとって、叶えたい理想の世界がどういうものなのかが、てんで思いつかなかった。だから、もし私がこの世界を信じることをやめて、そして自分で現実を描いていくことになったら、世界は空白のまま、何もかもがなくなってしまいそうだった。


 * 


 ゴールデンウィークがやってきて、しばらく学校は休みになった。とはいえ、私の場合はほとんど下宿先から出ることなく終わってしまった。帰省するには短い期間な感じもしたし、だからといって長期休暇に遊びに誘える友達がいるわけでもなく、また東京の地理もおぼつかないから、結局長い土日休みのように一週間を過ごしてしまった。ただ、それだけ暇な時間ができたことから実践言語現象学の課題曲は完璧にマスターしてしまった。あの胡乱な先生がどんな反応をするかどうかが気になるところだが、どうせ「驚いた、すばらしいですね」みたいな本当に驚いているのかどうかわからないリアクションを示すだろうと思って、考えるのをやめた。

「久しぶりだね」

 私の襟足を、小さな声が掠めた。

「あっ、長谷川さん、久しぶり」

 私の視界は追想の景色からコンクリート造りの講堂へと引き戻された。声をかけてきたのは少し疲れたような表情の長谷川さんだった。いや、マスクをつけているからだろうか、まあそれにしてもまぶたが重そうというか、全体的に気怠そうな雰囲気がある。

「ゴールデンウィークはどうだった?」

 私が尋ねると、彼女は「いやあ、疲れた。人混みは久しぶりだった」とため息を吐くように呟いた。

「どっか行ったの?」

「スパコミ、まあ、同人即売会でわかる?」

 スパコミ、違いはわからないけど、同人即売会と言うワードからコミケってやつのことかな、と思った。そういえば、毎年ちらほらニュースになっている記憶がある。コスプレをしてる人がいたり、同人誌という自作の漫画を売ったりするイベントのはず。なるほど、アニメのイベントではしゃいだから疲れているのか、と少し安心した。

「ああ、わかるよ。楽しかった?」

 すると、長谷川さんの目元が細まって、俯きがちになった。きっとマスクの奥の口元も苦虫を噛み潰したような形になっているに違いない。それほどあからさまだった。長谷川さんは、私が自分の表情が暗くなっているのに気づいてしまったと感じ取ったのか、とっさに顔を取り繕ってから口を開いた。

「ま、まあ、イベント自体は楽しかったよ?」

 嫌に高くて大きい声だった。同じ高い声でも長谷川さんがセイレンの話をするときのような、熱のこもった声の調子ではなくて、冷たい金属を擦り合わせたような声だった。

「何かあったの?」

「まあ、いろいろ。なんていうか、若干テンション低いんだよね。疲れてるのかも。とりあえず、歩こうよ」

 長谷川さんは私に歩くように促した。彼女の足取りは不規則なテンポで、なおかつ靴のかかとが擦れた泥色の音がした。つまり、「若干テンションが低い」という言葉で、ましてや疲れているなんてことで片付いてしまうような、そういう音の変化ではないことがわかってしまった。

「ねえ、今日も一緒に帰ろうよ。寄り道してもいいからさ」

 それは少し勇気のいる言葉だったけど、彼女から流れる音が冷たくなっていくのを私は見過ごせなかった。


 *


 駅ナカのチェーンカフェに二人で腰掛けてから、無言のまま数分がすぎた後、口を開いたのは長谷川さんだった。

「いやあ、別に大したことではないんだけどさ」

「いいよ。でも、なんか、元気ないし」

 まだ熱いであろうカフェモカを少しだけすすって、長谷川さんは話し出す。

「いやあ、どっから話そうかな。まあ、結論から言うと、今回はじめてオフ会行ったんだよね。Twitterで最近よく絡む人とイベント終わった後に会う約束してて。それでさ、いや、本当に大したことがあったわけじゃないんだけどね。なんていうか、まあ、その人は結構顔が広い人っぽくて、同人作家の人とも仲良くてさ。それで、ご飯食べにいくのもその作家の人も一緒に行くことになったんだよね」

 私の不安そうな表情を読み取ったのか、長谷川さんは慌てて付け足しながら語り出す。

「あ、一応みんな女の人だから、別に変なことされたわけじゃないよ。みんな普通の人だったし、いい人なんだけどさ。特に嫌なこと言われたわけでもないし、セイレン語りもできる人たちだったから蚊帳の外にされるわけでもないのよ。むしろ二人とも私に話題振ってくれたりするしさ。ただなんか、私さ、こういうのも変なんだけどさ、セイレンの考察とか二次創作妄想みたいなのも普段タイムラインに垂れ流しにしてるわけ。それで、二人とも私のそのツイート見てたらしくて、『二次創作始めてみないか』って言われたの。それで、私なんて答えたらいいのかわかんなくてさ」

 長谷川さんはカフェモカを所在ないように持ち続けていた。その指先には青色が所々剥がれたマニキュアの痕跡があった。

「そう言えば、長谷川さんってセイレンかなり好きだけど、二次創作やったりしてないよね」

 いまだ長谷川さんの回答からは要領がつかめなかった私は、とりあえず会話を促すことに専念した。すると、長谷川さんはカフェモカを飲んだ時より苦そうな表情をみせた。

「うん。なんかその二人にもそんな感じのこと言われた。もったいないって。私一応ファンアートとかもたまーに書いたりするし、自分で言うのもあれだけど、文才ないわけでもないからさ。宝の持ち腐れなんじゃないかって。原作への理解があるなら、絶対二次創作も伸びるって。確かにセイレンクラスタの中で考察がバズることもあったりするから……いや、なんか自慢みたいでキモいね。ごめん」

 長谷川さん、多分気づいていないだろうけど、声が低くなっている。また、長谷川さんの声に暗雲が立ち込めているようだった。

「いや、全然いいよ。普通にすごいと思うし、それは」

「うん。でさ、同人作家の人に同人誌の原作書いてみないかって言われたの」

 ここまで聞くと、私と長谷川さんが比較されているみたいで、少し、嫌な気分になった。だって、少なくとも、私は誰かを必要としたことはあったかもしれないけれど、誰かに必要とされたことはなかったから。

「すごいじゃん」

「でも、断っちゃった」

「え、どうして?」

「……普通に初対面だったからってのもあったけどさ、なんか違うなって」

 なんか違うな、って何? と思った。私は、そんな理由で断れるほど贅沢に自分を持っていないから。

「そっか、まあでも、なんかそういうのトラブルありそうだし、別にいいんじゃない?」

 私がフォローすると、長谷川さんは「違うんだよ」と、私の言ったことが不正解だと言わんばかりに返した。

「いや、うん。まあそれもあるんだけどさ。私別に二次創作やりたい人じゃないじゃん。まあその、セイレン界隈が過疎ってたときもずっと推し続けてたからかもしれないけど、もうセイレンがこの世に存在してるだけで満足だったのよね。でも、なんかさ、ひどいんだよ」

「何が?」

 同人活動を長谷川さんがしたくないのはいいとして、ひどいって何だろう? どちらかと言うと断られた側がひどいと思うはずだと思うけど。

「『セイレンが伸びるのは今がチャンスだから、二次創作やるなら今が一番いい』って。まあわかるよ。だって流行りに乗ってる方がP V数稼げるし、コメントももらえるから。でもやっぱ、流行りとか関係なく推してたわけだからさ、今更そんなこと言われてもって感じでさ。でも『言ってることはわかるけど、もうリメイクやって正真正銘この先供給がなく無くなるから、今がセイレンを盛り上げる最後のチャンスなんだよ』って。いやね、別にその人たちは善意で言ってるんだと思う。正直言ってることは正しいと思うし、ストーリーは完全な形で完結してるし映画化あっても総集編だと思う。ストーリー原案の八代さんはもう何にも作ってないし、体調もよくないみたいだから。正直わかんないんだよね。当時セイレン終わった頃はファンは自分一人だったし、ネットやってなかったからファン全体としての流れとかよく分かんなかったし。でも、たぶん今回のリメイク終わったらセイレン界隈の人のほとんどが居なくなるだろうし、いや別にだからって私がセイレン好きじゃなくなることは絶対ないとは思うんだけどさ。たださ、いままでずっと好きだったけどさ、大学卒業して社会人になっても供給がないセイレンを今みたいに推し続けてるとは思えないんだよね、私自身。これから私どうするんだろって。今みたいじゃなくなったら私何すればいいのかわかんないし、かといって別のアニメ推してもいままでとは絶対変わるわけだし、セイレンよりも熱中できる自信ないしさ。

 なんか、この先私にはなんにもなくなっちゃうんじゃないかって思って。

 いや、変な悩みなのは自分でもよくわかるんだけどさ」

 私には何にもなくなる、その言葉だけ、音叉と音叉が共鳴するように、私の琴線に触れた。

「いや、わかるよ。私も、なんか、そういう時ある」

「そうなの?」

 恐る恐る、私は長谷川さんの言葉に追いやられていた自分の言葉を切り出していった。

「私、正直長谷川さんほどセイレン熱中出来てないと思うし、自信持って趣味って言えるもの、何にもないしさ。私、何が好きで、何がしたいのかずっと分かんないんだよね。その時々で面白いと思ったり、楽しいことはあるから、ずっと苦しい訳じゃないんだけどさ。でも、立ち止まってみると、私だけが誇れるものみたいなの、長谷川さんよりも、何にもない」

 長谷川さんよりも、と答えた自分に少し嫌悪感を抱いた。けれど、訂正するほどのものではないと思っている自分もいた。

「でもさ、外間さんは、ずっとその状態だったから慣れみたいのあるじゃん。私はなまじ熱中してたものがある分反動が大きいみたいな━━」

「そんなことない」

 思いの外大きい声が出た。でも、それを気にする気持ちを私は勢いに任せて端に追いやった。

「え、」

「別に、何もないことに慣れることなんてないよ。ずっと苦しいし、私の人生、何にもないまま積み上げてきちゃんたんだよ。どこを探しても、偽物なんだよ? だから、そんなことない」

 そう言うと、長谷川さんは私のことをじっと見ていた。いつしか、カフェモカをテーブルの上に戻していた。

「いや、そういうつもりじゃないっていうか……え、これ私が悪いの?」

 長谷川さんは、私に突き刺すように語尾の調子を上げた。

「あっ、いや、そういうわけじゃないけど……ごめん」

 そこでようやく私は我に返って、飲み頃になったホットココアを口に含んだ。長谷川さんの目を、私は見れなかった。それを見かねたのか、長谷川さんは呟く。

「……まあ、私も軽率だったとは思う。でもさ、それって本当なの?」

「私が嘘ついてるってこと?」

 また、反抗的な言葉が出た。無意識だけど、それは本心から出てきてしまった言葉のようにも思えた。しかし、長谷川さんは反論した。

「違う。なんていうか、うまく言えないけど、外間さん自体が何もないって、私はそうは思わない。確かに自信を持って好きって言えることはないのかもしれないけどさ、でも、私からみたら外間さんは外間さんとして一人の人間として映ってる。こうして話してる内容も、別に偽物だとは思えないけど……」

 勢いのあった言葉は、終わりが近づくにつれて弱くなった。私はそこに漬け込むように返す。

「それはわかんないよ。でも、多分、私はずっと私のことをうまく見つけられない」

「……今の私もそうだよ。わかんないもん、私のこと」

 長谷川さんは優しい言葉を作って返す。でも、この時の私はどうしてか、歯止めが効かなくなっていた。

「長谷川さんは違うよ、だって━━」

「違わないよ。確かに今までどうだったかは違うけど、外間さんにとって私が偽物じゃないなら、外間さん自身だって私にとっては偽物じゃないじゃん」

 長谷川さんは、堰を切る私を塞ぐようにそう言った。でも、モヤモヤする。そんなのは詭弁だ、と私の奥底がそう告げている。

「じゃあ、結局どうしたらいいの?」

 私は自分でも取り扱えない問いを彼女に投げつけてしまっていた。すると、長谷川さんは黙った。私はまた、彼女の顔が見れなくなった。しばらくして、声を上げたのはまた彼女の方だった。

「……それは、わかんないよ」

 それは、潤んだ声だった。先ほどまでの暗雲のような声から、今にも雨が降りそうな具合だった。

「……ごめん」

 雨の気配を感じ取ってようやく私は、「長谷川さんの悩みを聞くため」にここにきていたことを思い出した。

「いや、私もよくわかんないこと言ってると思う」

 長谷川さんはすかさず私にフォローを入れる。これじゃあ、悩みを打ち明けているのは私の方みたいだった。

「ううん、その、長谷川さんの話聞こうと思ってたのに」

「……まあ、確かに」

 長谷川さんは顔を逸らして、そのまま会計の後に開けっぱなしにしていたカバンのチャックを閉めた。

「ほんとごめん……」

 先ほどまで勢い任せで饒舌だったはずの私は、謝ることしかできなくなっていた。

「まあさ、話せただけすっきりしたし、別にいいよ。それに、」

 そう言いかけて、長谷川さんは立ち上がって私を見下ろした。

「それに?」

「私だけが何にもないわけじゃなかったし」

 そうとだけ吐いて、彼女は店を後にした。

「うん……」

 私は、空になった向かいの席を見つめながら、そう呟いた。その言葉は、始めて一緒に電車で帰った時に聞いていれば、意味は違ったんだろうけど、今そう聞くと、私には何もないことを、改めて宣言されたようにしか感じられなかった。


 *


 「驚いた、すばらしいですね」

 先生は予想通りのリアクションをした。褒められることは今まであったけど、初めて自分一人でやってやろうと意気込んだことで報われることができた。

「外間さん、本当に歌が得意なんですね」

「いえ……多分、上には上がいるでしょうし……」

 答えに窮した。謙遜ではなくて、私は何かが得意だと認めたくはなかった。だってそれができるのは、自分は歌がうまくて、歌うことが自分自身だと言い張れるほどの傲慢さがないとできないから。自分を歌で評価される人間にしてしまえるほどの度胸は、私にはない。

「それは勘違いです」

「えっ」

 思いがけない言葉に、私は驚いた。というか、ただの謙遜に対してそこまで突っかかってくるとは思ってもいなかった。

「何かが得意であるかどうかは、まるで一方向へ伸びる数直線のように、一つの共通な物差しで測るもののように扱われますが、実際はそんなことはないんです。ただの誤謬です」

「どういうことですか」

「実際の人間の評価というものは数値化できるものではないんです。つまり、それぞれが持つ様々な能力にそれぞれパラメータがあって、例えば歌唱力を比較したければ各個人にある歌唱力のパラメータの大小を比較すれば良い、なんてことはないんです。人間の評価というものはそこまで公平じゃないし、絶対的なものではないんです。自分の評価は個人に内在する能力パラメータの比較ではなく、ただ単に、他人と自分を比べた時にどう思うか、どう受け止めるか、どう現実を信じるかでしかないんです」

 とどのつまり、ゲームのキャラクターのように、攻撃力を比較したい時は攻撃力の数値を見比べれば良い、みたいな、そういう考え方は現実には間違いということ?

「じゃあ、私が自分の歌唱力がそれほどまでではないと思っているのは、単に私がそう思い込んでいるだけということですか?」

「まあ、概ねそういうことですね」

 じゃあ、学校の試験は? スポーツの順位は? 世の中には大抵のものにランキングがつく。それが全て誤りなのは、どうにもおかしい気がする。

「でも、井の中の蛙でいるよりは、現実を見れている方が私はいいと思うんですけど。だって、私より歌の上手い人がいたら、私は歌が上手いとはいえないはずです」

 すると、先生は微笑む。もちろん、不敵な笑みだ。

「外間さん、あなたは循環論に陥っていますよ。外間さんは、自分より歌唱力の優れている人間を想定し、その仮想の人間に敵わないから自分は歌がそれほど上手くはないと結論づけているに過ぎない。でもそれはトートロジーです。自分より歌が上手い人がいるから自分はそれほどでもない。自分はそれほどでもないから自分より歌が上手い人がいる。これでは原因と結果がループするだけです。それに、外間さん、あなたはそれが現実だと言っていたけれど、一つ現実について見落としがあることに気づいていますか?」

「現実についての、見落とし?」

 現実を見ていると思っている私を嘲笑うかのように、先生は私が現実を見落としていると言った。

「外間さんは、自分より歌が上手い人の存在、あるいは、自分の歌唱力が大したことないということを、信じ込んでいる。そして、それが外間さんにとっての現実らしい」

「えっと、つまり、私は、私の作った現実を信じ込んでいるに過ぎない……?」

「正解です。外間さんにとっての現実とは、外間さんが信じる現実でしかない。でも、これは人の評価の話と緻密につながっているんです。人によって現実が違うということは、その人の行う比較もその人だけのものである。そして人の評価というもの……いや、自分は何者かということは、無数にあるうちの一つの現実が見せた姿でしかない。比較とは、常に他者の存在からでしか発生しない。他人がいることで初めて自己と外の境界ができる。そして、境界が自己を包むことによって、初めて自分を見る視点が生まれる。けれど、自分を外側から見ることは人が思うよりも崇高で、客観的で、正しいものではないのかもしれないですよ。自分が外側を見るときは、その外側はあくまで自分の現実における外側でしかない。とても危うげなものです。自分が外側から見られるのも同様に、あくまで外側のあなたが外側の現実の中から自分をのぞいているに過ぎない。つまり、自分を外側から見つめてみようとしても、自分が外側を眺めるのと同様に曖昧で、主観的で、偏ったものなんです。つまり、自分で評価することが主観的であるなら、他人で評価することも、あなたが他人の視点を借りている以上、また主観的でしかないんです。私が外間さんより歌が上手いと言い張っても、きっと外間さんはそんなことはないだろうと思うはずですし、世界的オペラ歌手が自分より外間さんの方がすごいと言っても、外間さんは同様にそんなことはないだろうと思うわけです。他者との比較がどうであれ、外間さんという主体が他人を参考にする限り、最初から外間さんの現実しか評価のうちに入らないわけです」

 相変わらず、先生は現実という話題に対して雄弁だ。まるで現実は語り尽くせるものであるかのように、そして、まるで現実はとるに足らないものであるかのように、自信過剰に語る。

「じゃあ、自分がどんな存在であるかは、自分次第ということなんですか? 自分で決めなきゃいけないんですか?」

「その通りでもあり、そうでもない。自分がどんな存在かは自分次第だけれど、決める必要はない。いや、決まるようなものではない」

 妙に歯切れの悪い返答が返ってくる。自分の現実が自分次第なら、自分だって自分次第のはずだ。そうじゃないの?

「どうしてですか?」

「自分という存在なんて、その場しのぎの曖昧なもので、決まり決まったものじゃないからですよ。自分がこうなりたいと思ってそうなろうと思う時もあるし、そうなれない時もあるように、自分がこうなりたいなんてそもそも思わないことだってある。水に決まった形を求めるようなものですよ、自らに決まった形を求めるということは。それはまあ、周りの環境や、自分の勝手な判断によって自分の形が決まっているように錯覚するように思うかもしれませんけれど、それは単に水が偶然何かの容器に入って一つの形に定まっているようなものです」

「じゃあ、自分がどうであるかを考えるかは、無意味ということですか?」

「いいえ。本当は曖昧で不定形なものを、それでも形あるものだと私たちが考えようとすることにこそ意味がある。そこにこそ人生があるし、そこにこそ実践言語現象学の付け入る隙があるわけですから」

「付け入る隙?」

「自分も、現実も、本当は形の定まらないもので、その切り取り方によって、人々はそれに形があると錯覚する。その錯覚を自分の意思で介入していくことが実践言語現象学です。ということで……」

 先生の声が少し和らいだように聞こえる。

「ということで?」

「話の流れ的にも、期末考査の内容をお知らせしてもいいかなと思いました」

 話の腰を折られたというのもあったが、私がこの講義にテストがあることを失念していたということに驚いた。なんというか、講義という感じがしなかったから。それにしても、五月にテストの話が振られるのはなんとも憂鬱な気分になってしまう。

「はあ、えっと、考査の内容……?」

 私が問うと、先生は勿体ぶるように一呼吸置いてから語り出した。

「実践言語現象学を用いて、自分のなりたい姿に変身して見せてください」

 このお題を聞いた私は、見て見ぬ振りを続けて提出した空白の回答欄に、赤ペンで印をつけられてしまったような気分だった。

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