実践言語現象学A
田中政宗
第一幕 喉を潰す
私は変身した。私の呼び声に応じて、私の身体は温かい光に包まれる。その一瞬の間に私の黒い長髪は複雑に編み込まれ、制服は絹と宝石を織り交ぜたドレスへと代わり、カバンに潜ませていたコンパクトはアクアマリンの意匠を凝らしたステッキへと形を変えた。
「深海よりも昏き青、さざなみよりもやわらかに、我がセイレーンの瞳に宿れ」
そう唱えれば、ステッキから五線譜をなぞる海水が湧き上がり、潮の香りと泡の跳ねる音が目の前の怪物をまたたくまに包み込む
━━はずだった。
ステッキに嵌めこまれた宝石はプラスチックで、ドレスはポリウレタン製で肌に張り付く。襟元のタグは私の首をくすぐって痒い。歪な三つ編みを引き留めているヘアピンは私の頭皮を引っ張って痛い。そしてどれだけ呪文を唱えようと、ステッキに仕込まれた発光ダイオードが点滅して、音の割れたスピーカーからくぐもった電子音──魔法少女セイレンの声(CV.山崎あいり)──が流れるだけだった。
幼い私は鏡へ視線を移していた。ふてぶてしくて可愛げのない少女が、プラゴミを持ちながら丈の合わない安物の布切れを被っているのが映った。
「唄子はかわいいね、本当にセイレンみたいだよ」
海より冷たい色の囁きが、そこにはあった。魔法は存在しなかった。そして、姿の見えない怪物に、私は呪われた。
*
私は今朝見た夢を思い出していた。あれは、いつからか繰り返し見ている夢だった。魔法少女セイレンになろうとする夢、もとい、なれない夢のこと。『魔法少女セイレン』は、私と同い年の女子なら、いや男子だって聞いたことくらいはあるほど有名なアニメだった。私が幼稚園だったか、小学生低学年の頃だったか、毎週日曜日の朝に放映されていた番組で、山崎あいりが演じる主人公の天海聖羅は当時の女の子たちの憧れだった。当時の私も、天海聖羅に夢見る少女のひとり。ただこの夢について、不可解な点がひとつある。それはセイレンの玩具を買ってもらった記憶が一度もないということ。つまるところ、天海聖羅になるために必要な販売希望小売価格六千八百円の衣装も、三千六百円のステッキも買ってもらった記憶がない。下宿先への引っ越し準備の時でさえ見つからなかったのだから、この夢の記憶は架空の記憶なんだと思う。フロイトが言うように、夢が私の無意識を引きずり出すものであるならば、私の幼少期に抑圧されたあの玩具への欲求が夢に現れている、と安易な結論にたどり着く。ただ、仮にそうだとしたら、わざわざ天海聖羅になりきれない私まで想像することもなかろうに……。
「あの、外間さん? だよね?」
私の襟足を、ふと柔らかな黄がかった声がかすめた。
「え? あっ、長谷川さん……?」
私の視界は夢の追想から、陽光が立ち込めるコンクリート造りの講堂へと引き戻された。声をかけて来たのは、先日の新入生ガイダンスで偶然隣の席になった長谷川ゆみさんだった。白いニットに明るいベージュのフレアスカートを合わせた格好で、いかにも女子大生らしい。少なくとも、数種類のパーカーとデニムを着回している私よりは。
「よかった、一瞬人違いだったらヤバいなって思って、ほら、名前も間違えてたら失礼だし」
他のガイダンスで同席した人のことは忘れてしまっていた私だが、不思議と彼女のことは覚えていた。彼女の明るい性格と、彼女のもつ春の黄色い陽光のような声が、妙に私の心を掴んでいたのだ。
「いやいや、あたしこそ……! あれだよね、ガイダンスで隣の席の」
とりあえず、認識のすり合わせをした。友達という名前をつけるに至らないが、友達という名前を付けたがる関係性であるという認識を、擦り合わせた。
「そうそう、覚えててくれてよかったぁ。えっと、次ウチのクラスの基礎ゼミだよね。一緒に行こ」
恐る恐る小さな呟きを交わした後、私たちは鉄筋に囲まれた廊下に二人分の靴音を響かせた。
*
大学生活初めての基礎ゼミは大学生活のガイダンスから始まった。指導教員は日本文学科における卒業までの大雑把なスケジュールや、それまでにやっておくと良いことなどを黒板を使って一通り喋り終え、最後に生徒たちに向き直って口を開いた。
「とまあ、説明事項はここまでとして……これは通年の授業ですから、皆さんには軽く自己紹介をしてもらいましょう」
教室内が少しどよめいて、様々な声色が、絵の具を水に溶かしたようにミックスされる。自己紹介があるとは予想してはいたものの、私にとっても、またこの教室の大半の学生にとってもこれが気乗りのしないイベントであることは確かだった。一方で先生はと言うと、こういった雰囲気には慣れっこな様子で、お構いなしに言葉を継いでいった。
「まあ、名前と出身と……あとは自分の好きなことでも軽く話してください。では、教室の左前から順に……えっと、神崎くんからかな」
先生は座席表を横目にそう促した。
「えっ、オレすか!」
神崎くんと呼ばれた男子学生は、少しわざとらしいリアクションをして周りの、おそらく自身の顔なじみであろう男子学生たちに目配せをした。すると、彼の取り巻きの男子たちは「いいからやれよ~」とか「恥ずかしがんなよ」と彼をおだてる。そして、彼はこれもまたわざとらしく、気怠い感じを装って立ち上がった。
「えーと、神崎海斗です。出身は神奈川の横浜でぇ、趣味は映画っすね。週に二本くらい見てます、よろしくお願いします」
おちゃらけた雰囲気とは裏腹に、碧色の声でつつがなく自己紹介を終えて、彼は席についた。先生は次の学生の名前を呼ぶ前に神崎くんを見て言葉を継いだ。
「へー、週二ね。となるとかなり見てるね。神崎くんはどういうの見るの?」
すると神崎くんはまるで友達に返すように、言いよどみなく返す。
「んまあ、洋画っすねー。アクションとホラーを中心に見てます」
「へえ、いい趣味だねえ。一発目の自己紹介ありがとう。では次、横山さん」
先生は次の学生を促した。それを聞いて私はハッとした。席順から予測するに、自分の自己紹介は横山さんの次の次だった。つまり、それまでのわずかな時間の中で何を喋るか考えなければいけない。
「あ、えーと、横山愛梨です。出身は千葉です。好きなこと? ていうか、最近ハマってることなんですけど、ティラピスっていう、なんだろ、ヨガと筋トレを合わせたみたいな……なんかー、そういうのやってまぁす。あっ、よろしくお願いしまぁす」
そんなパステルピンクの声色を耳にかすめながら、私は自己紹介の作成に脳を使う。とりあえず、名前と出身はいいとして、好きなこと。なんかハマってること……。
「へえ、初めて聞いたよティラピス。どういうきっかけで始めたの?」
先生は白色の声で深堀をしていく。いや、そんなことはどうでもいい。あれ、私いつも何してたっけ。まあ、ゲームとか、動画見たり、あとは漫画読んだりとか?
「え~~、なんだろ、きっかけ? あ、確かYouTube見ててー、えっと、私YouTubeよく見るんですけどぉ、ダイエットYouTuberがやってるの見て私もやってみた……みたいな? ふふ、そんな感じです」
でも私、ゲームも動画も読書もそんなに力入れてないっていうか、人に話せるほどハマってるわけでもないんだよな……。何事も暇つぶしみたいな……。何か話題になるような珍しいことをやってるわけでもないし……。
「いやーなんかこういうのも変だけと、新入生の自己紹介を聞いていると最近のブームとかが分かって面白いですね。先生はもういい歳なので聞いていてもさっぱりなんですよ。はい、では鈴木さん」
先生は白々しく、本当は対して興味もないように自己紹介を進行していく。やばい、この人が終わったら次は私の番だ。何でもいい。私の好きなことってなんだ?
「はい、私は鈴木可奈です。出身は埼玉です。私の好きなことは観劇です。小さい頃から親がよく舞台に連れて行ってくれたのがきっかけで、月に一回くらいのペースで観に行っています。よろしくお願いします」
鈴木さんがワインレッドな声色ということだけが私の頭に残り、内容はもはや馬耳東風。私の好きなこと、とりあえず、読書でいいかな……。好きなことは、とりあえずで。
「へえ、舞台っていうとどんなのを観にいくの?」
「そうですね……宝塚が好きなので、宝塚を中心に観ています」
「あー、なんかね、鈴木さんね、そういう雰囲気があるよ。しっかりものそうだしね。えっとじゃあ次、外間さん」
自分の名前を呼ぶ白い声の矛先が私に向いた途端、それは銀の鉄槍になって、私の脊椎を割り穿つように刺さった。じっとりと熱を帯びる指先をそのままに、冷たく乾いた唇で私は喋り出した。
「あ……えと、外間唄子っていいます。えー、出身は山梨で……好きなことは、読書です……」
ここまで言い切ったところで、これに継ぐ言葉が頭の中のどこを探しても見当たらなかった。教室を見渡す余裕はなかったけれど、次の言葉を待つ視線の束が私の皮膚に浸食してくる感覚があった。この沈黙は数秒だっただろう。しかし、この長い長い一瞬の中で、言葉を発しようとギュッと力んで閉じた喉元と、まっさらになって応答をやめた脳細胞の間で、私の意識は行き場を無くしてしまっていた。
「……よろしくお願いします」
逡巡の中で私の空っぽな脳内を振り絞った結果、出てきた搾りカスはこれだけだった。私は糸の切れた人形のように座る。だが、先生は怪訝そうに私を見て尋ねた。
「へえ、どんな本を読むのかな?」
「えっ、」
またもや私は言葉に窮した。灰色の詰物がまた私の喉をすくめた。答えたくないからではない。自分がどのような本を読んでいるのかを考えたことがなかったのだ。自分はあまりにも自分のことを知らなかった。私は口を噤む。
「ほら、例えばミステリーとか、ファンタジーとか」
先生の促しがあろうと、考えがまとまることはなかった。そもそも、考えたことがなかったから、まとめるものも何もないのだ。しかし、幸か不幸かこれ以上の沈黙に耐えかねた私の口が、勝手に「あ、自分は推理小説が多いと思います……」と返してくれた。
「そうか、いいね、読書。日文科っぽくていいと思うな。じゃあ次は長谷川さん」
先生は私の空虚な受け答えにも、長年の経験のおかげか慣れてしまっているようで、滞りなく自己紹介を進行していった。半覚半睡の安堵の中で、私は自分の後ろの席が長谷川さんであったことを思い出した。
「あっ、はい。えと。長谷川ゆみです。千葉出身です。私も……読書が趣味で、ファンタジーとか、学校が舞台のをよく読みます。よろしくお願いします」
不思議なもので、自分の緊張が切れると、私は他人の緊張を感じ取れるようになっていた。長谷川さんも辿々しい口調で、緊張しているのがわかった。水面に光がゆらぐように、彼女の陽光のような声が波打っているように感じた。それに、私と同じように読書が趣味と答えていたことに、私は小さく後ろめたい安心感を抱いた。
「へえ、ファンタジーね。指輪物語とかかな?」
先生は、私にもしたように質問の深掘りをしていった。対する長谷川さんは、自分と同じように答えが喉に詰まっているようだった。
「いや、なんていうか……あ、でもナルニア国物語とかは読んだりしました」
「へー、二人続いて読書家で先生は嬉しいです。ああいや、みなさんが読書をしていないといけないということではないですよ。では次、金田くん……」
先生は軽くコメントを残して、また次の自己紹介を促した。それからはちょうど春の気候さながらに、好きなことを堂々と話せる学生と、当たり障りのない趣味を答える学生の三寒四温が続いた。全員の自己紹介が済んだら、先生は来週の授業の案内をして、あっさりとその日の講義は終わった。心の乱された私をマヌケだと言わんばかりに、つつがなく終わった。
「ねね、外間さん。今日これで終わり?」
後ろの席から穏やかな光が聴こえる。
「あ、うん。もう帰るだけかな」
私の答えを聞いた長谷川さんは、筆記用具をかき集めてどさりとリュックに放り、どこか申し訳なさそうにこう言った。
「良かったら途中まで一緒に帰らない?」
*
「自己紹介するなんて聞いてないよ~」
電車の中で、最初に口を開いたのは長谷川さんだった。
「ね、ほんとそれ」
私も長谷川さんも横並びになって、吊革に体重を任せていた。長谷川さんも、どうやら自己紹介のことを気にかけているようで、私は少し安心した。彼女の声に身を委ねることで、講義を終えてから抱えていた胸の中のしこりが、少しだけ軽くなったように感じた。
「趣味って言っても答えづらくない? しかも大勢の前なんてさ」
なんとなく頭の中で思っていたことを長谷川さんが先に言って、私は驚いた。そして嬉しさというか、救われるような気持ちが私の中に灯った。だから、お互いの考えていることを確かめ合うように、私もこう返した。
「わかる、私とか人前で喋るの苦手だし」
すると、長谷川さんも表情を緩めて「私も~」と返してくれた。ちょうどその時、電車が駅に近づいてぐわりと慣性が働いた。どうやらもうすぐ秋葉原に停まるらしい。私以上に吊革に体を委ねていた長谷川さんは、電車の揺れに大きく振られる。ふと力んだ長谷川さんの手が視界に入った時、そこに小さな青色が輝いて見えた。そして、考えるより先に声が出た。
「長谷川さん、ネイルしてるんだ」
私がそう言うと、どこかバツが悪いように長谷川さんは愛想笑いをして、何も言わなかった。
「思うけど、長谷川さんってオシャレだよね。服とかも……」
言いかけて、長谷川さんは割って入る。
「いやーそんなことはないって。普通だよ普通。ネイルもなんて言うか……気まぐれだし」
「えーでもかわいいと思うけど……」
服のことを褒めようと私が長谷川さんを見た時、彼女の視線が電車の窓の外を向いていることに気づいた。私もなんとなくその視線の先を追ってみる。それから私と長谷川さんも、おそらく電車が停車して、人の流れがおさまるまでのしばらくの間、電車の外にあったそれ━━たった一枚の看板広告━━に釘付けになっていた。
「えっと、なんだっけ、ごめんちょっとボーッとしてた」
少しの沈黙の後、長谷川さんはごまかすように話題を戻そうとした。けれど、今朝見た夢のせいか、私は突拍子もないことを彼女に聞いた。
「長谷川さんも、セイレン好きなの?」
秋葉原の看板広告に印刷されていたのは、『魔法少女セイレン』の天海聖羅だった。絵柄は今風になっていたけど、昔と変わらないコバルトブルーの瞳をした彼女の姿がそこにはあった。看板の情報では、どうやら『魔法少女セイレン』のリメイク版が今月から放送されるらしい。
今朝の夢は予知夢というか、このことの暗示だったのかもしれない。フロイトよりもスピリチュアルな結論だけれど、こっちの方が腑に落ちた。私の言葉を聞いた長谷川さんは、急に表情を変えた。笑みをたたえて、例えるなら天海聖羅のそれに匹敵するくらい、目を輝かせていた。
「えっ! 外間さんも好きなの!?」
「え、まあね。やっぱり子供の時の憧れだったし」
今も夢に見るくらいだし……とは言わないでおこう。
「なんだー、良かった。いやね、私セイレンめっちゃ好きなの」
長谷川さんの声が一段高くなって、喋る速度も速くなった。太陽の光が雲間を抜けて一層明るくなるような感じだった。しかし、私が彼女のその変身に驚くよりも先に、彼女は次の言葉を繰り出した。
「今回の『セイレン・リターンズ』はさ、作画と監督が変わっちゃっててちょっと残念なんだけど、原画は木崎さんのままだからめっっちゃ期待してる! 多分年齢的に木崎さんがリメイクやるにはギリギリだよなあとは思っててさ。ほら、十周年の時にはデジタルリマスター版のブルーレイBOX発売だけだったから、リメイクは望み薄かなとは思ってたんだけど、去年に制作発表あったのはホント嬉しいよね。受験乗り切れたのも聖羅ちゃんのおかげだと思う。主題歌も前作のアレンジだから、もう古参ファン殺しに来てるよね」
と、ここまで言い終えたところで長谷川さんは自分が喋りすぎていると感じたのか、私の言葉を待った。とはいえ、私のセイレンにまつわる遠い記憶で喋れることは限られていたから、仕方なく視線を彼女の手元へ向かわせた。
「え、じゃあさ、もしかして、そのネイルも……」
私が呟くと、先ほどとは裏腹に、長谷川さんは誇らしげに手の甲を私に向けた。
「そう! 推し色なの! まあ原作では聖羅ちゃんネイルしてないんだけどね。とはいえほら、聖羅ちゃんになるのは私みたいなものにとってはもうおこがましいというか、恐れ多いというか、私にとってはもう神だし……。あ、いやコスプレは別だよ? レイヤーさんはレイヤーさんでマジ尊いですいつも供給ありがとうございますって感じだし」
長谷川さんはとても生き生きしていた。自己紹介していた時や、ガイダンスで初めて声をかけてくれた時とは別人だった。今はさしずめ春ではなく夏の太陽のようだった。これが長谷川さんの素なのかなと思うと、私に心を開いてくれたみたいで嬉しかった。だけど、軽くなりつつあった私の心の中のしこりは倍の重みを持って帰ってきた。だから、私はこんなことを口走った。
「いいなあ、長谷川さんも好きなものがあって」
無意識のうちに言葉が出ていた。自分の言葉じゃないように思った。現に、そう言ってからそれが自分の言葉だと私は気づいたくらいだった。
「え?」
長谷川さんはあまりにも突飛な言葉に虚を突かれたような反応をしてみせた。
「ああいや、私もセイレン好きなんだけど、作画とか、そういうのあんまり詳しくなくって、そこまで好きになれるのすごいなあって」
すると長谷川さんの表情から笑みがうっすらと引いていった。
「あっ……ごめん。引いた?」
夏の日差しは、雲の中へと隠れていってしまったようだった。
「いや! そうじゃなくって。なんていうか、私もセイレン好きなんだけど、なんだろ、好きなのに行動が伴ってるっていうの? ただぼんやりと好きだなーって思ってる私よりも偉いというか、私なんかがセイレン好きっていうのはもしかしたら失礼なんじゃないかって……」
長谷川さんはほう、と一息ついて、それから声色を戻してこう答えた。
「なんだあ、大丈夫だよ。私よりもっと詳しい人いるし、オタクに偉いも失礼もないって! まあ一部の過激派のファンはそういう人嫌ってたりもするけど、私はそういうこと全然ないから!」
「そっか、ちょっと安心した。でも、長谷川さんほどだったら、自己紹介でセイレンのこと言っても良かったんじゃない?」
好きなものがあるなら、あんな風に、私みたいな「何もない人」のフリをしなくてもいいのに、なんて、思った。面と向かってそうとは言えないけど、そう思った。言えない理由はもちろん失礼だってこともあるけど、それよりも、そう言うことで自分の中にある何かを、いや、自分の中に何もないことを認めてしまうような気がしたから。すると、長谷川さんはおどけた風に返した。
「いや~、オタバレしたくないもん。さすがに悪目立ちしたくないしさ~。でも読書全然してないの先生にバレてないか心配。ナルニア国物語とか映画でしか見たことないし」
「オタバレかー、確かにそうだね……」
なぜか、喉奥から不快感がむかむかと膨張していく。どうして?
「それでね、聖羅ちゃんのキャラクターデザインについてなんだけどさ━━」
それから長谷川さんはまた先ほどのようにセイレンのリメイク版への思いを熱く語り始めた。ただ、会話が積み重なれば積み重なるほど、その不快感が心臓に根を張って、大きく、重く、硬くなっていくのがわかった。
自己紹介がぎこちなかった長谷川さんも、言いにくいってだけで、しっかり自分の好きを持っていた。それって、羨ましいけど、なんだか少しだけ卑怯なように感じた。私みたいな「何もない人」のふりをして、本当は「持っている」。とりあえずの好きなものとか、時間潰しのような熱中ではなくて、一本の軸になるような好きを持っているのが当たり前で、それを気分で隠したり見せたりできるのは、持っている人間にしかできない。そういうことをされると、私が持たざるものだってことが浮き彫りになる。自分をつらぬくような、私だけの何かがない。それじゃあ私は偽物の人間みたいじゃないか。セイレンの話だって、長谷川さんに合わせただけで、幼少期に見て以来一度も見返したことはないし、夢の中で見た天海聖羅が実はあやふやなイメージだったことをあの看板を見て気づいたくらいだ。私には何もない。自己紹介でも、この会話でも、思い知らされた。
私は自己紹介を呪った。自分に紹介するほどのことがないことを証明させられるみたいだから。
*
私は眠気と戦っていた。三限の哲学の授業はガイダンスを手短に済ませた後、そそくさと講義を始めてしまった。掴み所のないカタカナ用語を羅列するギリシャ哲学の読経は、もちろん眠気を誘うには十分ではあるものの、私の眠気の出どころはもっと別のところにあった。
長谷川さんと電車で別れた後、私の喉奥に引っかかっていた問いは和らぐどころか質量を増していった。そして、その呪いはベッドに横たわる私の頭の中を駆け巡り、ついにまぶたを閉じることさえも許してはくれなかった。加速度を増して膨張していく不安は私の体を焦がして、最後に時計を見たのは午前二時。その後もいたずらに枕へ顔を埋めていたことから推測するに、私は三時の手前に気絶するように眠りについたのだと思う。端的に言えば、ぼんやりとした不安が引き起こした私の寝不足が、ギリシャ哲学を拒んでいたのだ。
「……とまあ、このようにピタゴラスは世界を構成するものの根源を数学に求めたわけです。これを聞くと、当たらずも遠からずといった感覚を抱く方もいるでしょう。確かに、現代物理学は数学と密接に関係しており、かの有名なアインシュタインの相対性理論や、ボーアをはじめとする量子論も高度な数学理論によって支えられています。そう考えると、万物は数学の法則にしたがって機能しているように感じるでしょう。しかし、それは物理学的事実を数学という形式言語を用いて分節化しているにすぎません。すなわち、世界の振る舞いを数学で説明できるということが、必ずしも世界が数学に基づいて動いていることの裏づけではないという訳です。現実の事象とはあくまで形のないもの、いわばカオスであって、人間はそれを言語を通して理解可能な形に切り取っているにすぎないのです。人間が世界と対峙する時、人類は世界をありのままに理解することはできません。ただ人類にできることは、言語を用いて世界の切り取り方を選ぶことのみです。今も私は哲学の概念を思考するにも、伝達するにも、言語を通すことでしか実現できません。まあ寄り道をしましたが、ピタゴラスの最大の間違いは、本来真理の説明手段に過ぎなかった数学を、真理そのものとすげ替えてしまったことですね。詳しくは秋学期のウィトゲンシュタインの項で説明するとして…………」
レジュメの内容から離れて空中を飛び回り、釈然としない不時着を繰り返す講義を追いかけようにも、眠気の重しに轢き潰され、いつしか私は頭を垂れて……そしてまぶたを下げて、深い深い眠りの底へと意識を沈めていってしまったのだった。
*
目が覚めると、黄色い日差しが小教室を照らしていた。人の気配を丸ごと削除したように教室内は静まり返っていて、講義の声も鳴り止んでいた。哲学を取る知り合いが一人もいなかったのはまだしも、眠ったままの学生を一人置いて先生まで帰ってしまうというのは教員としていかがなものだろうと思いつつ、私は荷物を整えた。初回の授業を居眠りですっぽかしたのだから普通は焦るところではあるのだろうけれども、不足した睡眠を補うことができた満足感が勝ったのか、私は泰然自若としていた。すると、私の微睡みに釘を打ち付けるように教室のドアノブがガチャリと音を立てた。次の講義を受ける学生だろうか。私は慌てて時計を見やると、針は授業開始のちょうど一時間後を指していた。ただ、私がそれを訝しむ前に、その来訪者は語り出した。
「いやあ、初回授業に遅れてしまっては教師失格ですね。まあ、失格した私は退場ではなく入場している訳ですが」
独り言のようにそう言って、彼は教室内を見渡した。そして、私と目が合うとこう続けた。
「おや、一時間の遅刻に耐えかねたのか、あなた以外の学生は退場してしまったようですね」
彼は灰色のスラックスに茶色い千鳥模様のベストを身につけた男性━━30代くらい?━━だった。そして、教壇の上に百科事典並みの厚さをしたハードカバーの書籍と、指示棒? のような木の棒を置いて呟いた。
「とはいえ、私の授業を受けようという学生がいてくれて、胸を撫で下ろす気分ですよ。学生が残っていないだろうという私の胸算用は、虚しく無に返った訳ですから。帰っていなくて却って驚いた、というところです。ですが授業内容に関しては胸を貸すつもりでいてください。残ってくれた貸しがありますから、丁寧な指導を課します。過失はあっても教師の資質はあるつもりなんです、私」
私はこの胡乱な口上に聞き入ってしまっていた。まず、私が居眠りして教室に留まっていただけという旨を伝えなければいけない。
「あの、実は……」
「あっ、もしかして君は私の授業を受ける気はなくて、居眠りで居残りを決め込んでいただけとか?」
「えっ、」
不意を突かれた。
「どうしてそれを……」
「額に赤い跡がある、こうもあからさまに抜かっているの見せつけられればわかります。深い眠りの後に眠りの痕を指摘されるのは不快でしたか?」
私はハッとして顔を俯かせた。それもそうだ、人が寝起きかどうかなんて一目でわかるものだろう。しかし、バツが悪いのか、どうにも「ではそういうことで」と席を立てるほど私の面の皮は厚くなかった。まあ、その面の皮に痕がついているのだけれど。
「まあ、予定が合うならば……どうです? ガイダンスだけでも聞いていきますか? 正直なところ、たった一人の受講生をみすみす逃したくはないので」
「ええ、じゃあ……」
私に反してその先生は面の皮が厚いのか、私に講義を聞くよう促してきた。ただ、私も私で抵抗することなく、ただぼんやりと受け入れてしまったのだった。というのも、先ほどの哲学の授業についていく気概がなんとなく薄れてしまっていたからだ。要するに、この授業が面白そうだったならば、履修する授業をこちらに変えてもいいだろうという甘い算段が私の脳裏をよぎったのだ。
「良かった。では実践言語現象学のガイダンスを始めたいと思います。私は実践言語現象学Aを担当させていただく大野文雄と申します。この授業は講義形式ですが、まあ、文科省からのお達しを受け入れてアクティブラーニングとやらを主軸にやっていこうと思うので、特にノートを取る必要はないかと思います。いや、ノートを取ることが能動的ではないという訳ではありませんよ。ノート的授業であっても能動的授業は成立すると思います。まあ適宜プリントなどを配布する予定ではありますが、期末考査を行う予定もないですし、レポートを提出してもらうこともないかと思います。代わりと言ってはなんですが、成績評価は毎週の出席と、学期末に行う『口頭試験』をもって行いたいと思います。まあ、試験の詳細については追ってアナウンスするので、それまで少々お待ちください。ここまでで何か質問はありますか?」
「いえ特には……」
口頭試験の内容にもよるけれども、筆記試験とレポートがないのはありがたいと思った。この時点ですでに私の履修変更計画は実行に傾いていた。
「それは良かった。さて、講義の内容についてですが、当授業の目標は言語現象学を実践的に活用できる能力を獲得することです。まあ、リベラルアーツ科目なので、言語現象学の基礎から丁寧に解説していこうと思います。初学者でもご安心ください。予備知識は必要ありません。なにせこれは実践的な授業です。必要なのは予備の知識ではなくて本命の知識ですからね。とまあ、これからは言語現象学についての説明に移りたいと思いますが、ここまでで何か質問はありますか?」
「えっと……一年生でも受講できますか?」
聞くだけ聞いていた話が、どうにも受講を前提とした話に移ってきたのを感じ取って、私は質問をした。
「おお、みすみす逃したくない学生が、みずみずしい一年生だったとは。濁りなく答えましょう。大丈夫です。リベラルアーツの第一群、まあ平たく言えば、人文学系に属するので単位との兼ね合いさえ良ければ誰でも受講できます」
つまり、先ほどまでの好きでもない哲学の授業とちょうど取り替えることができる……?
「良かったです。私でも一応受けられます」
「それはそれは。では、言語現象学の込み入った説明をする前に、ちょっとした質問をさせてもらいます。あなた、お名前は?」
急に名前を聞かれて私の体は強張った。どうにも、自己紹介の時の感覚が頭をよぎる。
「外間唄子です」
「外間さんね。では外間さん━━」
この授業でも自己紹介じみた尋問が行われるのかと体が強張った。しかし、その先生が発した言葉はあまりにも予想外な質問だった。
「あなたは魔法を信じますか?」
「魔法……ですか?」
思わず聞き返す。先生はほうける私をお構いなしに続ける。
「ええ。魔法です。魔法使い、なんでもいいです。アニメでも映画でも小説でも、イメージするのはなんでもいいです」
「いえ……さすがに信じてはいないです……」
「どうして?」
私をおちょくっているのかと思って先生を見たが、真剣な面持ちだった。ので、私も真面目に返す。
「えっそれは、実現不可能だからです」
「実現不可能ならば、信じないのですか?」
「え、そうじゃないんですか。現実に起こらないことは存在しませんし、存在しないことを信じることはできないと思います」
間髪入れずに先生は返す。
「では神はどうでしょうか? 存在していなくても信じる人がいる。神じゃなくても良い。芸能人の噂話だってそうです。嘘に騙される人もそう。人間は、物事の存在の如何に関わらず、信じてしまう生き物のはずです。外間さんだって本当は知っているはずかと思います。存在しないものを信じてしまう者がいたり、存在しないものを信じる者に振り回されたりを。つまり、信じることに、実現可能か、あるいは存在するかは関係ありません。私が聞いているのは、魔法があるのかどうかではなく、外間さんが『どうして魔法を信じない人間なのか』ということですよ」
「そんなことを言われても……わかりません。自分がどうして今の自分になったかなんて」
問いが、自分の内側に投げかけられた途端に、門を閉めてしまう自分の喉が少し悔しかった。
「そこで、この授業です」
先生は、そういって人差し指を立てた。
「えっ」
「この授業で外間さんは、自分が『どうして魔法を信じない人間なのか』を知ることができます。それが、実践言語現象学です」
「それって━━」
そう口を開こうとした途端、チャイムの音が割って入った。いくら授業開始予定から一時間経過していたとはいえ、こんなにもわずかなやりとりで使い果たすほどではなかったはずだ。しかし、時計に目線をやると、きっかり授業時間の終了時刻を指していた。
「すいません、今日はここまでのようですね。では、また来週」
先生はそのまま本と棒切れをかき集めて、教室を出てしまった。赤には至らない、薄橙な春の陽光だけが教室を満たしていた。
*
大学生活二週目の月曜日、私は昨日見た夢を思い出していた。二週連続で見ることは久しぶりだったが、例に漏れず、私がセイレンになれない夢だった。ただ、この前と異なるところもあった。変身したと途中まで信じていたところまでは同じだったのだが、その後が違った。変身で身につけていた衣服がきれいさっぱりなくなる夢だった。裸になったと思ったが、不思議と恥ずかしいとは思わなかった。ただ、恥ずかしさの代わりに、自分を甘く優しく包むものが喪失したような恐怖が、私の喉奥から込み上げた。何も着ていないことへの羞恥より、何も着ていないことの不安が勝っているようだった。
「あ、外間さん。久しぶり」
私の襟足を、ふと明るげな声が掠めた。
「あ、長谷川さん。久しぶり」
私の視界は追想の景色からコンクリート造りの講堂へと引き戻された。声をかけてきたのは先週と同じく長谷川さんだった。今日はレザージャケットと灰色のスカンツだった。ちょっと治安が悪い。それはさておき、来週からは一緒に講義に行く約束でも立てた方がいいかなと私は思案し始めた。
「履修決まった?」
「まあ、一応は」
ある一点の問題を除けば、私の履修登録は済んでいた。長谷川さんの方も聞こうとしたが、こちらから聞く前に「私もなんとか決まったけど、これでちゃんと登録されてるか不安」と彼女はこぼした。
「それよりさ、セイレン始まったよね。見た?」
それから長谷川さんは目を輝かせて語り出した。セイレン、夢では見たものの、そういえば先週の金曜日から始まったリメイク版は見ていなかった。別に興味がなかった訳ではないが、長谷川さんがあれだけ語っていたというのに、この話題になるまでそのことをすっかり忘れてしまっていた。放送時間が深夜だったからかもしれない。
「ごめん、先週はちょっと慌ただしくて見てなくて……」
すると、長谷川さんは喉に詰め物をされたように、次に出そうとしていた言葉を抑えて、代わりに慎重な声色でこう続けた。
「そ、そっか。大学始まったばっかだもんね、いや、でも、見て欲しい。正直今めっちゃ感想言いたいから……あ、そうだ、ライン交換しようよ。ね、見たら一言ちょうだい。大学で語れそうな人外間さんくらいしかいないからさ!」
「あ、うん。いいよ」
なんとなく、流れでラインを交換してしまった。これは見ないといけないってことだな、と思った。まあ、アニメ一本見るくらいどうということでもないし、正直昔好きたっだアニメでもあるから負担という訳ではないけれど、今の私にとってセイレンを見ることが、どうしてか学校の課題が一つ増やされたのと同じように感じられた。
*
それから数日が過ぎ、言語現象学の教室へと足を踏み入れると、今日は大野先生が教壇に据えられた椅子に腰掛けていた。相変わらず教壇の上にはハードカバーの本と例の指示棒が乗っていた。
「こんにちは、どうやら今日は遅刻も居眠りもないようでよかったです。じゃあ、誰かを待つ必要もないので始めましょうか」
「えっ、いいんですか」
そそくさと授業を始めようとする先生は、私の声に不思議そうな顔で答えた。
「そうですね。大学のデータベースの履修状況を見るに受講者は外間さんだけのようですし。まあ、それこそ外間さんのペースに合わせられるので、もう少し休み時間でも構いませんが。構わないので、お構いなくといったところです」
「いや、そのことなんですけど……」
おかしいと思った。なぜなら私は言語現象学の履修登録をしていないからだ。否、できなかったのだ。大学の履修登録システム上に、いや、シラバスにだって「言語現象学」の文字はなかったはずなのに。今日だって、どうやって登録するのかを聞きに来たというのに、大学のデータベース上にあるというのは不思議というか不可解というか……。
「ひょっとして、授業を受けない旨を伝えに来たのでしょうか」
「いえ、そういう訳ではないんですけど、私、なぜか履修登録システムでこの授業を見つけられなかったんです。だからどうしようか質問しようと思ってたんですけど……」
すると、先生は顎に手を当てて、少しだけ宙を仰いだ。
「ふーむ……実習授業だから、そういうこともあるかもしれないですね。つまり、第一回授業の出席に合わせて自動登録されるということが。まあ、外間さんは授業を受けたくて、私は外間さんに授業をしても良いと思っている。これ以上に授業を始めるための理由があるとは思えません。どうでしょう? どのように登録されたかを事務に問い合わせてみましょうか。出来れば学者を単なる労働者としてしか見なさない方々に頭を下げるのは御免被りたいのですが」
こんな風に言われては、返す言葉は思い浮かばなかった。まあ、キチンと履修登録されているようなので、ひとまずあの眠たい哲学の授業をもう二度と受けなくてもいいと安心できる。
「いえ、じゃあ、始めてください」
「よし、じゃあ始めよう。ではまず、外間さん。あなたは『魔法は存在しない』と言いましたね。だから今日は『魔法が存在するとはどういうことか』についての説明をします。つまり、存在とは何かということです」
私は先生が何をしようとしているのかがさっぱりだったけれど、とりあえず頷いておいた。
「魔法が存在するとはどういうことかというのは、魔法を信じるかどうかという話と一緒です。このことを説明するために科学を例に取りましょう。
天動説を信じる人にとって、太陽とは地球を周回するものとして存在していたし、ニュートンの運動方程式を信じる人にとっては時間が絶対的なものとして存在している。現代人は、目に見えない酸素の存在を信じることによって呼吸の仕組みを想像したり、重力という得体の知れない不思議な力を信じることで物体の動きを計算したりしている。そしてこれらは科学と呼ばれる。加えて、これらは日常の中ではあたかも存在するものとして扱われている。目に見えないものを信じるという点においては魔法も科学も変わらないというのに。
そこである一つの洞察が我々の中に浮かびます。それは、科学と魔法にある唯一の違いとは、信用の眼差しを受けるか、疑いの目を向けられるかの違いでしかない、ということ。
科学は信頼できる空想で、魔法は疑わしい空想というわけです。そして、人は信頼できるから存在すると考え、疑わしいから存在しないと考える。これが科学の存在する所以で、またこれが魔法の存在しない所以なのです。要するに、信用ができるか、信用できないかで魔法と科学の線引きが行われていると考えていいでしょう。だからこそ、もしあなたが魔法だと信じているものを存在させたいならば答えは簡単です。ただ、信じればいい。差し詰め、
『believing is existing(存在は汝の信じるところにあり)』というわけです」
確かに……そう言われれば、そういう気もしてきたけれど……。いや、科学が魔法なんかとごっちゃにされるようなものではないような気がする。科学のほうが正しいというか、確からしいはず。
「でも……信じることができないものは、信じられないから信じられないものなわけで、最初から信じられない魔法はやはり信じられなくて、存在もしないと思うんですけど」
「それはその通りですけれど、僕が言いたいのは、それが魔法だとして存在が認められていなかったのを、もし仮に信じることができれば、それはもう存在しているということなんです」
最初から信じられないようなものを、信じる? どういうこと?
「でもそれは……存在すると信じてしまったら魔法ではないのではないですか?」
「じゃあ、外間さん。あなたが思う魔法とはどういうものですか?」
「えっ……例えば、ものを宙に浮かせる、とか」
とりあえず、頭に浮かんだ魔法のイメージを言葉にしてみる。すると、先生は真剣な面持ちでうなずいた。
「わかった。では外間さん。消しゴムを貸してくれませんか」
「え、まあ、はい。どうぞ」
先生は消しゴムを受け取ると、空いている机の上にそれを乗せて、それからあの指示棒のようなタクトをふわりとふるって、
「zhikfuhier」
と唱えた。唱えたというよりは、歌った? 聞いたことのないアクセントと聞き覚えのない音階に乗せて、今まで聞いたことのあるどの言語とも似つかない音の羅列を発声した。けれど突然、私の脳裏になぜか「飛翔」のイメージが浮かんだ。そしてそのイメージが固まると同時に、目の前の私の消しゴムはそのイメージ通りに「飛翔」した。つまり━━
「消しゴムが……浮いた……?」
もう一度瞬きをすると、消しゴムは何事もなかったかのように机の上に静置されていた。まるで先ほどまでの光景が白昼夢だったとばかりに、最初に置いた場所から寸分の狂いもなく、消しゴムはそこにあった。けれど、私が確かに先ほどまで「飛翔」する消しゴムを見ていた記憶は、しっかりと脳内に刻まれていた。
「おそらく外間さんは今、自分は『飛翔』する消しゴムを見た、と信じている」
「えっ、いや、まあ、そうですけど……」
信じている、というよりは、信じ込まされた、に近い。信じるか信じないかの話ではなく、どちらかというと、認識をジャックされているような、そんな心地だ。
「外間さんが先ほどまで『魔法』だと思っていたこと、つまり、信じることができなかった現象は、たった今信じるに足る現象へと変わった。少し前の外間さんにとっての『魔法』は、これで存在することになった」
「でも、どうやって? こんなこと、今まで見たことがない」
私が素直な感想を漏らすと、先生はなにを当たり前のことを言っているんだとばかりに答える。
「今まで見たことがないものが存在しないわけではない。卵生の哺乳類は、今までそんなものを見たことがなくてもカモノハシの存在を一度知れば存在するとわかる。今まで存在しなかった黒人アメリカ大統領も、一度当選すれば現実になる。過去にどうであるかは関係ない。大切なのは、今を信じられるかどうかにかかっている」
「そう……なんですかね。でも、」
「ほう」
「私が信じていた『魔法』がもう存在しているとして、じゃあ存在してしまった魔法のことはどう呼べばいいのでしょうか。魔法は、存在しないと信じるから魔法なんですよね」
だって、信じられないものと定義されている魔法が、信じられてしまったら、そこには矛盾が生じる。『変わらないもの』が変わってしまったら、それは元から『変わりうるもの』だったとわかるように。
「そうだね。いい質問だ。さっき見せたような、魔法のような現象を引き起こす技術のことを、私は━━
『言語現象学』と呼んでいる。
現実に起こりそうにないもの、つまり『従来の魔法』は、言語現象学上では再現可能なものとなるんです」
先生は、まるでこの世の真理の底を掴んだような声色でそう言い放った。
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