僕のおうち時間

三木 和

第1話 僕のおうち時間

「はい、終わったよ。とても頑張ったね」


まるで世界の終わりかと思う程泣いていた五歳の女の子がピタリと泣き止んだ。


「先生、本当にありがとうございます。夜中に起きて遊び回るからよくないのよ!ほら、彩も先生にお礼言って!」

「ありがとう!」

「いえいえ、この時期の子供は肘内障と言って、腕が抜けやすいのですよ。腕を引っ張っぱる時は気をつけて下さいね」

「先生バイバーイ!!」

「彩ちゃんバイバイ、お大事にしてください」



真っ白な壁に大きな硝子の自動ドア。

"清潔感が漂う建物"を造ろうとすればこの様な見た目になるのだろうか。暖かみと静寂が漂うこの建物の外とは裏腹に、病院の中は心電図のアラームと看護師の走る音で夜にも関わらず騒がしい。

総合病院の夜間当直は、内科だろうが外科はたまた美容整形外科医になろうと志している形成の医者でも関係なしに担当が回ってくる。患者からしたらただのロシアンルーレットにしか感じないだろうが日本の医療体勢ではこれが限界なので仕方がない。

当直残り二時間…。ようやく患者が途切れたところでスマートフォンのバイブが鳴った。


(夜間当直お疲れ様です!!いそがしくないことを願ってるよー♡あんちゃん、今日も元気に動いてます♡)


どうしても記念に残したいからと、いそがしい中、合間をぬって撮りに行ったマタニティーフォトをアイコンにしている可愛らしい僕の妻からのLINEだ。絵文字が文末に必ずついている。あんちゃんはお腹の子供につけた胎児ネームだそうだ。

なぜ耳鼻科医である私が子供の肘内障を治せるかというと、小児科医である妻が治しかたを手取り足取り教えてくれたからである。今は産休中で家にいるので時々こうやって励ましのLINEをくれるのだ。

彼女と出会った時、彼女は車に引かれた子猫を抱えて墓を作っていた。今の時代にこんな天使がいるのかと僕から猛アタックして一緒になってもらった。小児科医として働いている時も付き合っている時も、彼女はずっと天使の様な存在であった。優しくて仕事は的確。可愛くフワフワしていて、話し方もおっとりとしていた。


(ありがとう、早く会…)


♪ピーピロリラリーラッラー


文字を打っている最中にコールが鳴った。

なぜだか病院で使っている携帯の着信音はクラシックやら元から入っているよく分からない音楽であることばかりで気が抜ける。

後二時間で当直が終わるというのに、嫌な予感がよぎる。


「…もしもし」

「救急隊です。呼吸苦の患者、かなり重症です。例のウイルスかもしれないのですが受け入れ可能でしょうか」

…予感的中だ。

「佐藤さん、104号室ってまだ空いてましたか?」

呼び掛けた看護師の顔がひきつった。104号室は陰圧室なので、例のウイルス患者のために残してある部屋だ。そこを空いてるか確認すると言うことはそういう事である。

「…空いてます、準備行ってきます…」


ああ、きっとあの看護師には同僚に「あいつは引きが強いから一緒に夜勤したくない」とか言われるのだろうな、なんて考えながら、僕も準備を急いだ。


完全防護服に身を包み、部屋の準備やら医療機器の準備をしていたら患者が到着した。今日の当直が耳鼻科医でよかったね、なんて考えながらすぐさま挿管して人工呼吸を取り付けた。PCRの検体をとり、レントゲン撮影をした。

処置が一通り終わり、104号室に無事に患者が入った。

いまだに僕の地域のPCR検査には時間が必要であったので、陽性か陰性かはすぐにでないのだが…。

レントゲンをみて絶望感しか出てこなかった。

僕の後ろで一緒にパソコンの画面を見ていた看護師の、あの何ともいえない、この世の終わりの様な表情を僕は一ヶ月くらいは忘れないだろう。

例のウイルスは肺炎になるのだが、その肺炎は普通の肺炎のレントゲン画像と異なり特徴的なものであるために、見たらすぐにそれだとわかってしまうからだ。

すぐに呼吸器の医者にコンサルトして主治医を変わってもらった。


(ああ、終わったな…)


僕は絶望していた。医療従事者だって人間だ。

心の底から

"社会貢献のために、患者様のために、自分の時間を犠牲にして、自分が皆様をお助けします"

なんて考えている僕の妻の様な天使みたいな人間なんて一握りしかいないのが実情だ。医療従事者は確かに貢献心が強い人が多い。多いけれど、お金のため、家族のために働くと考えているのは一般人と何ら変わらない。


はぁーー


僕は大きなため息をついた。記録を書いて引き継いで、自分の病棟の回診をして、消毒してシャワーを浴びてと一通りしなければならない事をやり終えた時には時計の針は既にお昼の12時になろうとしていた。


(最後の患者が例のウイルスの人かもしれない。僕が陰性かどうか、数日検査して、無事なら帰ります。お腹辛いのに支えてあげられなくてごめん。)

僕の帰りを待っているであろう愛する妻にLINEを送った。僕は仮眠室で力尽きて眠りについた。



結局、帰宅できたのは3回のPCR検査ですべて陰性が確認できた四日後だった。

当直前からあわせるとほぼ一週間病院に居たことになる。


「お帰りお帰りお帰りーーーーお疲れ様でした!!頑張りましたね!!」


この世で一番愛する妻が走って出迎えてくれた。こんな幸せな事は無いだろう。


「ただいま、帰りましたよ。」


こんなウイルスが蔓延している世の中でも、もしも、もし神様とやらがいるのであれば、この愛する妻とこれから誕生する小さな命を抱き締めている、この五秒、いや、出来れば十秒、僕のおうち時間を病院からのコールなんかで邪魔しないように見守っていて。

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