33 穏やかな二人の空間



「にぅっ!」

「おーよしよし、待たせちゃってごめんねー♪」


 帰ってくるなり飛びついてきたマシロを、めいが両手で受け止める。その表情はとてもスッキリしており、長年の胸のつかえが一気にとれたかのようであった。

 めいはマシロの背中を撫でながら、カウンター席に座る。

 まるでそれは、勝手知ったる我が家のようにリラックスした動きであり、猫太朗も思わず感心してしまうほどだった。


「お疲れさまでした。コーヒーでも淹れましょうか」

「えっ、お店の豆使うんですか?」

「ちょっとした整理整頓ってヤツですよ。適当過ぎるブレンドも同然なので、料金はタダになります」

「へぇー、それなら遠慮なくいただきます」

「かしこまりました」


 薄暗いカウンターの中で、猫太朗は手早くコーヒーの準備に取り掛かる。あっという間に淹れられた温かいコーヒーが、めいの前にコトンと置かれた。


「久々のご対面は、いかがでしたか?」

「まぁ、驚きましたねー」


 砂糖とミルクを入れながら、めいが答える。


「物凄いガリガリになっちゃってて……病気の怖さを思い知ったって感じです」

「そうですか。お母さんの反応がどうだったか、お聞きしても?」

「えぇ」


 スプーンでよくかき混ぜたそれを、ゆっくり一口飲む。これはこれで、十分に売り物になるんじゃないだろうかと思いつつ、めいは病院での出来事を思い出す。


「向こうも……まぁ、驚いてはいましたね。まさか私があっさりくるなんて、思ってもいなかったみたいで」

「藁にも縋る思い、といったところでしょうか」

「恐らくは。それで本当に娘が来てくれたのだと分かるなり、涙ボロボロでごめんなさいの連続ですよ」


 そう話すめいは、どこか呆れたように苦笑していた。嬉しさなどの特別な感情は見られず、むしろ他人事のように話しているとさえ思えてくる。


「……ホント不思議でした。お母さんの謝罪が、ちっとも響かなかったんです」


 めいの顔から笑みが消えていく。怒りや失望などを軽く飛び越しての『無』と化していくように。


「そのおかげでしょうかねぇ……溜め込んでたものを全部吐き出しました」

「おやおや。相当キツいことを言ったんじゃないですか?」

「えぇ。それはもう、バンバンと♪」


 よくぞ聞いてくれましたと言わんばかりに、めいは嬉しそうな表情を見せる。


「気がついたらお父さんもお母さんも、完全に憔悴しきってましたね。まぁ、言い過ぎたつもりはありませんし、後悔もしていませんが」

「それはそれは……さぞ凄まじい光景だったのでしょうね」

「見てみたかったですか?」

「いえ。むしろご遠慮願いたいです」

「それは残念」


 めいと猫太朗は、二人揃って笑い出してしまう。会話の内容よりも、こうして店のフロアで二人っきりで喋るというのが、楽しくて仕方がない。まるで凄く久しぶりにこうしている気分でもあった。

 お互いに笑いが落ち着いたところで、めいが軽く身を乗り出してくる。


「そうそう、聞いてくださいよ。お母さんの今の相手の人、結構酷いんですよ?」

「酷い? 確か、事実婚の相手でしたっけ?」

「えぇ。あくまで確証は得てないんですが……どうやらその人、先が長くないお母さんを私とお父さんに押し付けるつもりだったみたいで……」

「はぁ……それはそれは」


 猫太朗は素で驚いてしまった。少し前に妹がそんな予想を立てていたからだ。

 まさか本当に当たっていたのかと、少しばかり怖くなってくる。もっともめいはそんなこと露知らず、ため息交じりに話を続けた。


「けどまぁ、お母さんもそこらへんは予想していたみたいで……その人を逃がさないように証拠を色々と押さえてたらしく、それが見事効いたと言いますか……」

「へぇ、なかなかやりますね、そのお母さん」

「同感ですよ。まさかの不意打ちに、その人は対処しきれず、膝から見事に崩れ落ちてましたからね」


 呆れた口調で語るめいに、猫太朗の表情がわずかに強張った。


「……詳細は聞かなくてもいいですか?」

「はい。私もあまり話したくないところなので、願ってもないです」

「それは本当に良かった」

「全くです」


 世の中には触れなくていい話題というものがある――二人はそれを感じ取った。そこから先は立ち入り禁止だと、互いにそう心に定めながら。


「じゃあ、もうこの件は終わったってことですか?」

「そうなりますね。ご心配おかけしました」

「いえいえ」


 二人はにこやかに笑う。この話はここまで、という無言の合図であった。

 これでようやく落ち着いたと思った、その時であった。


「――にぅにぅ!」

「あらあら、どうしたのーマシロ?」


 マシロが鳴き声を上げ、めいの胸元にしがみつく。その突然の行動に戸惑う中、目の前にいる猫太朗はすぐに気づいていた。


「めいさんと一緒に遊びたいそうですよ」

「わ、私と?」

「ボールとか猫じゃらしとか、色々と相手してあげてください。この子もずっと、あなたのことを心配してましたからね」

「私を……」


 めいは思わず、縋りよる白い子猫を凝視する。そこまで自分のことを想ってくれていたのかと考えると、胸が熱くなって涙が出てきそうになる。

 情けない顔は絶対に見せない――そう思いながらめいは、強く笑った。


「ありがとうマシロ。たくさん遊びましょうか」

「――にぅっ♪」


 マシロも嬉しそうに鳴き声を上げ、めいの膝から飛び降りる。そしてめいも立ち上がったところで、猫太朗に視線を向けた。


「猫太朗さんも来ましょうよ。クロベエちゃんも一緒に、みんなで遊びましょう」

「みんなで……えぇ、いいですね」


 一瞬だけ驚きを見せるも、すぐに穏やかな笑みで猫太朗も頷いた。そして、めいが飲み終わったコーヒーのカップを、カウンターから手に取る。


「先にウチのほうへ戻っていてください。僕はこれを洗って、戸締り確認してから戻りますから」

「あ、フロアの確認は私がします。カウンター以外の電気は消しちゃっても?」

「はい。お願いします」


 そんなやり取りをしつつ、二人はテキパキと流れるように動く。チェックを完璧に終えたところで、それぞれ猫を一匹ずつ抱きかかえ、二人一緒にフロアを出ていく後ろ姿は、まるで夫婦のようであった。

 あくまで他人同士に過ぎない――それを言ったところで信じる者が、果たしてどれだけいることか。

 前に進もうとしていながらも、やはりまだまだ自覚がないと言わざるを得ない。



 そしてその夜、めいから猫太朗に、真剣な表情で決意が明かされた。

 私、今のお仕事を辞めることにしました――と。


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