34 謙一からの新たなる情報



 ――カラン、コロン。

 入り口のドアが開かれる。『ねこみや』の新たな常連となった青年が、会釈をしながらカウンター席へと歩いてきた。


「やぁ。いらっしゃい、謙一君」

「どうもです、マスター」


 我が物顔で席に座る彼氏を見た莉子が、お冷とおしぼりを片手に、ため息をつきながらやってくる。


「よくもまぁ、飽きずに来るもんだよねぇ――いらっしゃいませ、ご注文はお決まりですか?」

「そりゃ居心地がいいもんでな――カフェオレと日替わりのサンドイッチで」

「かしこまりました。少々お待ちくださいませ」


 雑談を織り交ぜながらも、客と店員の会話をちゃんとこなす二人の姿は、もはや新たな日常の光景と化していた。もっともそれは、当の本人たちが気づいているかどうかは定かではない。


「カフェオレと日替わりサンドイッチ入りましたー」

「あいよー」


 カウンター席のため、二人の会話も猫太朗の耳に届いてはいる。あくまで形式に倣っただけの話だ。莉子もまだ研修という扱いのため、接客の形をしっかりと叩き込む意味も兼ねていたりする。

 もっとも莉子は経験者でもあるため、そう長い話でもない。

 数日後には、更に自然と砕けた接客をする彼女の姿が見られるだろうと、常連の誰もが思っていた。

 無論、一番楽しみにしているのは、彼氏彼女らしい会話を聞くためである。

 年配の客からすれば、若いカップルのやり取りは目と耳の保養であり、元気の源でもあるのだ。むしろそれを楽しみに店に通う――そんな人たちも、最近ではチラホラと出てきていたりする。

 佐武夫婦――特に妻の江津子が、その代表的な存在と言えるだろう。


「莉子ちゃんも相変わらず、彼との仲はよろしいみたいね?」

「いえ……別にそれほどでもないですよ」

「ご謙遜なさらないで。異性とのお付き合いは、素晴らしい人生経験の一つだわ。今の時間を是非とも大切にね? 何かあったら私が相談にのるから」

「は、はぁ……」


 穏やかな口調で捲し立ててくる江津子に、莉子は戸惑いながら頷く。妻の隣に座る夫の義典が、それを見かねて大きなため息をついた。


「おい、江津子。仕事の邪魔をするんじゃない」

「あらら、珍しくあなたから正論を言われてしまったわ。ゴメンなさいね」

「珍しくは余計だよ」


 そして義典は、申し訳なさそうな表情で莉子を見上げる。


「済まなかったね。俺らはそろそろお暇するから」

「あらもう? まだ来てから一時間も経ってないわよ?」

「五十分もいりゃあ十分だろ。マスター、俺ら帰るから、お勘定頼んますわ」


 そう言って義典は、伝票を片手に立ち上がる。江津子もしょうがないわねぇと言わんばかりにため息をつきながらも、小さな笑みを浮かべていた。

 そして会計を済ませた夫婦は、カランコロンと音を立てて店を出ていく。

 窓ガラスを通して見えた二人の後ろ姿は、近くはないが決して離れることもない絶妙な距離を保っている。まさに長年連れ添ったベテラン夫婦の姿を、改めて垣間見たような気がした瞬間であった。


「――はい、カフェオレと日替わりサンドイッチ、お待ちどうさまです」

「どうもッス。佐武さんたちも、相変わらずッスね」

「まぁね。いつも店を賑やかにしてくれてるよ」


 苦笑しながら話す猫太朗と謙一も、この数日ですっかり打ち解けていた。妹の彼氏という点はもはや関係なく、常連客とマスターを越えた『友人』という枠にしっかりと収まっている。

 猫太朗の砕けた接客も、立派な証の一つと言えるだろう。

 彼がそうするようになった際に、最初は謙一も驚いてはいたが、すぐに嬉しそうな表情を浮かべ、懐くようになっていた。

 そんな二人の姿に莉子が驚きを示していたのは、ここだけの話である。


「ところで……めいさんは? あれから、連絡とかあったんですか?」

「いや」


 謙一の質問に、猫太朗は目を閉じながら首を左右に振る。


「決着をつけてくると言って復職して以来、何の音沙汰もないよ。けどまぁ、心配することもないんじゃないかな」

「……またえらくあっけらかんとしてるッスね?」

「まぁね」


 呆然とする健一に苦笑しながら、猫太朗は入り口のドアに視線を向ける。


「めいさんも覚悟を決めたみたいだから。僕たちも信じることにしたんだよ」


 もう一ヶ月ほど、めいは全く顔を見せに来ていない。しかし今までと違って、猫太朗たちの中に『不安』という二文字はなかった。

 彼らの元から出ていく際、彼女は強い表情を見せていた。

 実母との再会が彼女を変えたのだ。

 病室ではそれはもう、盛大に言いたいことを言っていたらしい。彼女の実父である宮原徹が、後にお礼がてら店を訪れた際、苦笑しながら明かしていた。

 ずっと目を背けてきた存在が、皮肉にも彼女を前に進ませるきっかけとなった。

 彼女の父親として、その事実を受けとめていくと、徹は話していた。

 無論、きっかけはそれだけではない。

 莉子の指摘もいい起爆剤として働いたのも確かであると、当の本人も笑顔でそれを打ち明かしていた。

 本当にありがとうと真摯に礼を言われ、莉子は本気で照れていた。

 それを話題に出すと本気で嫌がることについては、まだ彼氏である謙一は知らないままである。

 果たしてずっと、蓋をしたままでいけるのか。

 どこかのタイミングで漏れ出て、ちょっとした騒ぎに発展するのではと、猫太朗は思えてならないのだが、それこそ彼の中だけの話であった。


「ところで、謙一君のほうはどうなんだい? 就職活動の時期だと聞いたけど?」

「えぇ。なかなか上手くいかなくて、ホント大変ッスよ」


 参った参ったと、謙一は肩をすくめる。大学四年にもなれば、周りの声がそればかりとなるのも自然なことだ。

 説明会や面接など、本格的な就活スタートこそ新年度開始からだが、企業の情報収集などは、その前から自主的に行ってきていた。

 そうしないと内定を取れない――大学側から口うるさく言われていたのだ。

 最初はうざいと思っていたその言葉も、今となっては正解だったと、謙一も早くに思い知ってきたところである。


「――あ、そうそう、それで一つ思い出したんスけどね?」


 謙一が身を乗り出す姿勢を見せ、少しだけ声を落とす。あまり聞かれたくない話なのかと思い、猫太朗もカップを磨きつつ、彼に少し近づいていた。


「実はこないだ、大学のOBと話す機会があったんスけど、その人がなんと、めいさんの勤めてる会社だったんスよ」

「へぇー。そりゃあ、なんとも偶然なことだ」


 猫太朗は思わず驚きの笑みを浮かべる。それ自体は同感であり、謙一もでしょうと言わんばかりにニヤリと笑う。

 しかしそれはすぐに鳴りを潜め、神妙な表情で猫太朗に向き直る。


「ただその先輩から、ちょっとばかし気になることを聞きまして……」


 改めて周囲を見渡し、誰も聞いてない――というより他の客はいない――ことを確認した上で、謙一は言う。


「めいさんの勤めている会社――今すっごい、てんてこ舞いな状態らしいんスよ」


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