32 兄の気持ち
それは、猫太朗の心からの言葉だ。疑う余地なんてどこにもない。だからこそ莉子も驚きを隠せない。
(兄さんも……こんな顔、するんだ……)
再会してからまだ二日という、短いにも程がある期間ながら、兄の人物像というのがなんとなく分かってきたような気はしていた。
穏やかな表情の裏は、意外と中身のない空っぽなのだと。
場を取り持つにはうってつけかもしれないが、本音を語るとなれば、薄っぺらいことこの上ない――それが兄という人間なのかもしれないと、莉子は勝手ながら思ってしまっていたのだ。
浅はかだったと、莉子は己を恥じる。
勝手に理解して気分になって、決めつけていただけだった。
妹である以前に、人としてどうなのか――身勝手な両親を越えるために、ちゃんとした大人になろうと決めたのではなかったのか。
自分の中に眠るもう一人の自分から、そう叱咤されたような気がしていた。
「なんやかんやで数ヶ月前か……初めてめいさんと会ったのは」
猫太朗は腕を組み、空を仰ぎながら懐かしそうに笑う。
「思えばあの時のめいさんも、そりゃあ疲れ切った顔してたっけ」
長い髪を無造作に後ろで縛っているだけ。メイクも最低限であり、スーツは完全によれよれ状態。まさに典型的な社畜キャリアウーマンを絵に描いた姿だと、改めてそう思えてならない。
きっかけはクロベエだった。
何かの拍子に店から抜け出してしまい、めいを見つけて連れてきたのだ。
彼女の顔を見た瞬間、猫太朗は不思議な感覚に陥っていた。気がついたら彼女を店の中へ招き入れ、コーヒーをサービスしていた。
普段は絶対にやらないようなことだった。
どうしてそんなことをしたのか、未だに自分でも分からない。ただ言えるのは、自分の淹れたコーヒーを飲んでホッと笑顔を見せる姿が、記憶にしっかりと焼き付いているということだけだ。
その後に差し出したナポリタンとサラダを、夢中で食べる姿も含めて。
「あんなに疲れていた人が元気を取り戻していく――見ていて心地良かった。お客さんに対してそう思ったのは、多分初めてのことだったね」
「……もうその時から、兄さんにとってめいさんは、特別だったんじゃ?」
「かもね」
猫太朗はあっさりと頷いた。照れることもなく見せてくるその表情は、まさに大人の笑みだと、莉子は思えてしまう。
「だからなのかな? マシロを預かると言ったのも、僕のほうからだったんだよ」
「え、そ、そうだったの?」
莉子は驚きの声を上げる。その旨の話はめいから聞いていたが、そこまでは話していなかったのだ。
何だかんだで兄は自ら動き出していたのかもしれない――莉子はそう思った。
「その後も顔を合わせてはいたけど、不安は尽きなくてね。とうとう嫌な予感が的中してしまったよ」
「めいさんが倒れて、救急車で運ばれたことだね?」
莉子の問いかけに猫太朗は頷く。
「ただまぁ、不謹慎を承知で言うけど……これで安心だとも思った」
「安心?」
「めいさんを休ませる、絶好の言い訳ができたからね」
もう少し上手い手があったのではと、そう思う日もあった。しかし赤の他人でしかない自分では、どうしてもできることは少ない。
「あの程度の入院で済んだのは、本当に運が良かった。これをチャンスとして逃してはならないと思った」
「それで、兄さんはめいさんを呼び込んだと?」
「そーゆーこと。我ながら、大胆なことを言ったもんだなぁとは思ってるよ」
流石に恥ずかしく思ったのか、猫太朗は苦笑する。しかしそこに、後悔の二文字は見られなかった。
「でも、呼び込んだ甲斐はあった。めいさんの表情はどんどん穏やかになって、この店に溶け込んでいった。そこにいるのが当たり前になってきた。これからもずっと続けばいいと……かなり本気で思ってるくらいにね」
そう語る猫太朗は、どこか誇らしげであった。莉子は思わず口を開けて、呆けたまま座って見上げている状態であった。
「兄さん……めいさんにずっとここに……『ねこみや』にいてほしいんだ?」
「端的に言えば、そーゆーことになるかな」
「ふーん」
莉子は感情のない声で相槌を打つ。そしてニヤリと笑いながら、カウンターの影に隠し持っていたスマホをスッと取り出した。
妹の行動に猫太朗がきょとんとする中、莉子はスマホを耳にあてる。
「――だ、そうですよ、めいさん?」
そしてそう呼びかけるのだった。
猫太朗は完全に呆けており、何がなんだか分かっていない。腕を組んだまま、動きは完全にピシッと固まってしまっている。頭もまるで回っていなかった。
「良かったですねー、兄さんの『ホンネ』が聞けて♪ まぁそーゆーことなんで、後はお二人で話してくださいな。とゆーわけで……はいどーぞ♪」
一方的に話すだけ話して、莉子は通話中のスマホをスッと差し出してくる。猫太朗はそれを受け取り、ゆっくりと耳にあてた。
「も、もしもし?」
『どうも……お疲れさまです』
恐らくめいも混乱しているのだろう。完全に仕事のときと同じ反応をしてしまっていることに、本人も気づいている様子はなかった。
『その、えっと……今のお話は……』
「あー……」
猫太朗は言葉を詰まらせる。どう返答すればいいか分からなかった。
慌ててすっとぼけるのも一つの選択肢だろう。子供の時なら、間違いなくそうしていた気がする。
しかし、それだけは駄目だろうと、心の中で思った。
妹に嵌められたとはいえ、今しがた話したことが本心であることも確か。それを惚けるというのは、自分で自分の言葉を否定するということだ。
――猫太朗。
脳内に懐かしい声が蘇った。いつも優しく、そして厳しく育ててくれた祖父が、隣で佇み、ゆっくりと頷きながら微笑んでいる気がした。
(うん……そうだよな)
猫太朗の中から、戸惑いも焦りも消えた。ここにきて助けられるなんてと、そんな皮肉めいた気持ちを抱きながら、改めて電話の相手に向き合う。
「本当ですよ」
『えっ?』
「めいさんが聞こえた話は――僕の話したことは、全部本当のことですよ」
『そ、そう、ですか……』
「はい」
電話の向こうで、めいが戸惑っている。それを感じつつも、猫太朗はどこまでも冷静な口調で、そして改めてハッキリと告げた。
「めいさんにはいつまでも、この『ねこみや』にいてほしい――そう思ってます」
その瞬間、電話の向こうでも、そして目の前からも、息を飲む音が聞こえた。妹がどんな表情をしているのかは想像に難くない。だから視線を向けても、彼が驚くことはないのだった。
――スマホ戻そうか?
――いえいえ、そのまま続けてください。お気になさらずに。
そんな無言でジェスチャーのみのやり取りが、兄妹の間で交わされた。
折角なので、ここはお言葉に甘えようかと思いながら、猫太朗は再び電話の向こう側へ語り掛ける。
「ところで話は変わりますが、めいさんのほうは、もう大丈夫なんですか?」
『えっ? あ、はい、おかげさまで……とりあえず話すこと話して、さっさと病院から出てきちゃいました。もう電車も降りて、お店の近くまで来ています』
「そうでしたか。では、お気をつけて」
『は、はい、えっと……ありがとうございます。それでは』
そう言ってめいのほうから電話が切れた。それを確認した猫太朗は、スマホを莉子に手渡す。
「もう間もなく帰ってくるってさ」
「そうなんだ。じゃあ、私はそろそろ帰るね」
莉子は即座に立ち上がった。そんな妹の行動に、猫太朗はきょとんとする。
「えらい急だな。もう少しゆっくりしていけばいいのに……」
「私の役目はもう終わったからね。騙すようなマネをしちゃって、ゴメンなさい」
「いや、それはまぁ、別にいいけどさ」
苦笑する猫太朗。実際、全くと言っていいほど気にしていなかった。むしろ自分の気持ちを伝えられたという点では、良かったとすら言える。
ある意味で、妹に感謝するべきなのかもしれない――そう思えていた。
もっとも嵌められた悔しさもあるため、そこは口に出さないが。
「じゃあね、兄さん。コーヒーご馳走さまでした」
「あぁ。またな。明日は通常営業だから、遅れないように」
「はーい」
そして莉子は、裏口から出ていくべく去っていった。クロベエやマシロに、笑顔で手を振っていくことも忘れない。
「……我が妹ながら、やってくれるもんだな」
小さく笑いながら呟く猫太朗に、猫たちがコテンと首を傾げる。
めいが軽やかな足取りで『ねこみや』に戻ってくるのは、それから数分後のことであった。
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