19 疲れ切ってしまいました
「……あの男が私の部署に配属されてきたのが、運の尽きでした」
典型的な親の七光り――成瀬川真彦。
彼が渡り歩いた部署の中で、一番大きな成果を出していたというめいの部署に、本人の希望も相まって部長職としての配属が決まった。
その成果も、全ては押し付けられためいのフォローがあってこそであった。
しかし成瀬川は、それら全てを自分の手柄としていたため、周り――特にトップである役員たちの耳に入ることは一切なかった。
「一時的な上司でしかなかったはずが、本当の上司になってしまったんです。私たちに受け入れる以外の選択肢なんてあるはずもなく、割と本気で、お先真っ暗とはこのことかと思っちゃいましたよ」
天井を見上げながら、めいは乾いた笑いを零す。それに対して猫太朗は、神妙な表情を浮かべたまま黙っていた。
「そしてその予想は……見事過ぎるくらいに的中してしまいました」
夢という名の目標ばかり大きく抱き、目の前の現場などまるで見えていない。無茶な要求を通して、後は部下である彼女たちに丸投げ。結果が出なければリーダーとして立てられためいをひたすら叱りつける。
そんな毎日が続けば、神経がすり減ってしまうのは必然であった。
――メインメンバーが逃げた? じゃあキミがメインで必ず成功させるように。
――もしこれでプロジェクトが心配したらキミの責任だからね。
――キミがもっと本気を出せば、すぐにでも解決する話さ。
――残業や休出しても、その時間は絶対付けないでね。僕の部署はクリーンをウリにしているからさ。
もはや『こき使われている』という言葉では済ませたくない――そんなレベルの毎日を送っていた。
ようやく終わっても、また同じような現場に行かされる。
ヘルプのはずがメインに仕立て上げられ、何かあれば責任を背負わされる。声を上げたところで笑って流されるだけ。それどころか『キミの実力なら』という精神論や根性論を、実に気持ち良さそうに述べてくるばかりであった。
「……もし私がちゃんと仕事をしていなかったのなら、文句は言えません。けれどそんなことはないと断言できます。私一人で三人……ともすれば五人分の仕事はこなしていましたから」
「五人……いくらなんでも、それは……」
その道のプロでもなんでもない猫太朗でさえ、それがいかに無茶であるかは、考えるまでもなかった。
しかもめいは、『していた』ではなく『こなしていた』と言っていた。
それだけ彼女の能力が凄いということなのだろう。無論、それを裏付ける証拠は何もないが、猫太朗はめいの言っていることが本当だと信じていた。
「成瀬川部長に相談したところで通らない――そう思った私は、他の役員の方々に直談判しました。けれど返事が変わることはなかった」
――キミが『あの』成瀬川君の下についてくれて、本当に助かってるよ。
――これからも頑張ってくれたまえ。
そう言われた瞬間、めいは気づいてしまった。
役員たちも心の中では、彼の本性に気づいているのだと。その上で自分に彼を押し付けたのだと。
役員たちの仮面のような笑顔が、そう語っているように感じたのだった。
もはや味方は誰もいない。本当に自分がなんとかするしかないと、めいは自然とそう思うようになった。
「……そりゃあ、倒れるのも無理はないってものでしょうね」
猫太朗は目を閉じながら、深いため息をつく。
「これはもう、然るべきところに訴えられる案件だと思いますよ?」
「私もそれは考えました。でもそれは無理に等しいです」
「どうして?」
「同僚が教えてくれたんですよ――過去にそれで握り潰された人がいるって」
「あぁ、なるほど……」
めいのその言葉だけで、猫太朗もなんとなく想像がついてしまった。
「七光りは伊達ではないと言ったところでしょうか」
「えぇ。なんかもう、ずっとこのままなのかなぁと思ってるんですよね」
「ずっとってことはないでしょう」
「え?」
軽く驚きを示すめいに対し、猫太朗は視線を窓の外に向ける。
「そーゆー人は大抵、親の力を自分の力と思い込み、過信するものです。放っておけばいつかは自滅するパターンですよ」
「……分かる気はしますけど」
「まぁ、あくまで僕の個人的な推測ですがね」
フッと小さく笑う猫太朗に釣られ、めいも笑みを浮かべる。しかしやはり、それに力は込められていなかった。
「なんかもう……疲れ果てちゃいました」
そして再び天井を向きながら、ため息交じりにそう言った。
「最近、世界が灰色に見えていたんです。周りの人たちも、歪んだ醜い悪魔のように見えてました。笑顔も貼り付いた仮面にしか……どうかしてますよね」
「…………」
猫太朗は無言を貫くことしかできなかった。
これまでの状況を聞く限り、そう思えてしまうのも無理はない気がする。それだけ彼女はもう、心の限界を超えてしまっているのだろう。
しかしとりあえず、これだけは聞いておこうと猫太朗は思った。
「僕は、どうなんですか?」
その問いかけに、めいはきょとんとしながら視線を向ける。それを確認しつつ、猫太朗は真剣な表情で続ける。
「今ここにいる僕は、歪んで見えますか? 仮面を被ってるように見えますか?」
「……いいえ」
めいは割とすぐに反応を示した。どこか安心したように小さな笑みを浮かべ、首を左右にする。
「猫太朗さんは、猫太朗さんとして見えていますよ。表情も仮面なんかじゃない、本当の笑顔だと分かります」
「そうですか……それなら良かったです」
「はい♪」
ここでようやく、めいの声に少しだけ力が戻ってきた。
そして、勢いも少しついたらしく――
「もう会社になんか行かず、ずっと傍で見ていたいくらいですよ♪」
そんなことを嬉しそうな笑顔で言い放つのだった。
猫太朗は思わず呆気に取られてしまい、めいを凝視してしまう。どうしたんだろうと思っていためいも、ようやく気付いて表情を赤く染めた。
「あ、すみません。急に変なことを言って……」
めいは掛布団に顔を埋める。もはや告白も同然の言葉ではないかと、急激に恥ずかしさがこみ上げてきてしまったのだ。
恋愛なんてする暇もなく、身を粉にして働いてきた彼女からしてみれば、この状況をどうすればいいのかまるで見当がつかない。
すると――
「じゃあしばらくの間、ずっと傍で見ているというのはどうでしょうか?」
猫太朗が突然、そんなことを言い出してきたのだった。
「……えっ?」
めいの思考が停止する。猫太朗が向けてきている表情は、紛れもなく真剣なそれであり、決してふざけているものではなかった。
「正直に言わせてもらいますが、今のめいさんを放ってはおけません。退院したらすぐ会社に戻るつもりだったんでしょう? 違いますか?」
「そ、それは、その……はい」
「やっぱり」
猫太朗は呆れたようにため息をつく。
「今回の件で、僕たちがどれだけ心配したと思ってるんですか? マシロもあなたのことでショックを受けて、朝からご飯も全然食べてなかったんですよ?」
「えっ、そんな……」
それを聞いためいは、流石に驚かずにはいられない様子を見せる。そんな彼女の反応に対し、猫太朗は改めて深いため息をついた。
「目の前でいきなり倒れたんですよ? あれを見て驚くなというほうが、どだい無理な話ってもんです。マシロだけじゃありません。僕やクロベエも、同じような気持ちでしたから」
ついでに言えば、とても店を営業できるような状態でもなかったため、今日は終日で臨時休業としてしまった。
それだけ猫太朗は、倒れためいのことが心配だったのだ。
もう二度と、こんなことをさせてはいけない――そのためには自分が一肌脱がなければならないだろうと思えるほどに。
「――めいさん。退院したら、ウチに来てください」
猫太朗が真剣な表情で、そう切り出した。
「会社も休職して、ウチの喫茶店でのんびりとした時間を過ごすんです。それが、今のあなたにもっとも必要なことだと、僕は思います」
「…………」
めいもまた、無に等しい表情で猫太朗を見上げている。妙に頭の中がスッキリしたような感覚であった。今では彼の言葉に驚き一つ示す様子もない。
ただ、冷静に考えていた。
疲れ切っているのは間違いない。今は辛うじて踏みとどまってはいるが、このまま無理を押したところで、最悪な末路を迎えるのは確かだろう。
どうなってもいい――それだけは駄目だ。
自暴自棄になることは許されない。猫太朗やクロベエ、そしてマシロを更に驚かせてしまい、悲しませることにもなってしまう。
ならばどうするべきなのか。今の自分にとって最前の策は何なのか。
考えれば考えるほど、答えは一つに絞られて来てしまう。
「……猫太朗さん」
ジッと彼を見上げながら、めいはポツリと呟くように言った。
「しばらく、お邪魔させてください」
「はい。歓迎しますよ」
ニッコリと優しい笑みを浮かべる猫太朗に、めいもようやく、穏やかな笑みを浮かべるようになった。
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