20 『ねこみや』の午後
それから数日後――退院しためいは、朝から喫茶店のカウンターにいた。
何もせず、ただボーッとするだけの時間を最後にしたのは、果たして何年前のことになるだろうか。
めいにとってはそれぐらい、今の状態が特殊過ぎて仕方がない。
スーツではなく私服を着ているから尚更であった。
(いつもなら今頃は会社……こんなにゆったりすることは、まずあり得ないわ)
休職の申請があっさり通ったのは、正直かなり以外に思っている。
あくまで『有休の消化』という形になったが、それでも結果としては上々だろうとめいは思っていた。
(まぁ、殆ど上司の点数稼ぎに利用されたようなもんだけど……)
表向きは、激務が続いたから有休を消化させてのんびりさせるという、優しい上司の心遣いということになっている。しかし裏の本音は、自分の部署から休職者を出して自分の評価を響かせたくないことは、めいもすぐ気づいた。
かと言って、有休を消化させない状態が続いても上司の評価は響く。だからちょうどいい機会だと思ったのだろう。
ここ数年、まともに有休を取っていないから尚更であった。
――大体ねぇ、ちゃんと有休を消化することは社会人にとって基本だよ? キミはそんな基本もできないなんて、少しは恥ずかしいと思うべきだね。
それでも最後には、ちゃんと嫌味を言ってきた。もはや怒りは湧かず、逆に感心してしまうほどであった。
よくもまぁ、ここまでペラペラと人を貶す言葉が出てくるものだと。
許可をいただきありがとうございます、と無表情で言い残し、さっさと会社を後にしてきた。その際に何人かの同僚とすれ違ったが、皆して気まずそうに視線を逸らされるばかりだった。
それも今のめいにとっては、どうでもいいことだった。
会社を出た瞬間、妙に晴れやかな気分を味わったことは、恐らく一生の思い出になりそうな気がしていた。
「平日の昼間に乗る電車って、なーんか不思議な感じだったなぁ……」
アイスカフェオレの氷を指先でつつきながら、めいはため息をつく。猫たちは他の客が連れてきたペットと遊んでおり、時折聞こえてくる楽しそうな鳴き声が、彼女の耳に入ってくる。
ゆったりとした平和な時間であった。
まるで別世界に来たようだと、めいはそう思えてならない。
(ホント……静かだわ)
最初はスマホの電源も切ろうかと思った。しかしそうしたらしたで、後からネチネチと文句を言われる気もしたので、仕方なく電源は入れておいた。
しかし今のところ、会社から連絡が来ることはない。
いつもなら必要以上に震えるスマホが、休職してからはしんと静まり返っている状態であった。
連絡がないということは、連絡をする必要がないということ。それが何を意味しているのか、流石に分からない彼女ではなかった。
「……私がいなくても、何の問題もないということなのね」
めいは自虐的な笑みを浮かべる。あれほど嫌だった会社からの電話も、鳴らなくなった瞬間、途轍もない淋しさに変わってしまう。
明らかにおかしいのだろう。しかしそう思えてしまうのだから仕方がない。
「めいさん」
唐突に声をかけられて、めいは軽く驚いた。目の前で猫太朗が、わざとらしく顔を近づけながら笑みを浮かべている。
「猫たちが離れていて、退屈してますか?」
「あ、いえ……そういうワケではないんですけどね……」
苦笑しながら答えると、猫太朗はすぐさま顔を離した。
「なら良かったです。なんか少し落ち込んでいるみたいでしたので」
「……あ」
その瞬間、めいは悟った。わざとらしいのではなく、わざとなのだと。
余計なことは考えなくていい。折角の休職なのだから少しはのんびりしろ――彼の笑顔がそう言っているように思えてしまった。
否――それを伝えるために、声をかけてきたのだろう。
そう思いながら視線を動かしてみると、佐武夫婦に撫でられているクロベエとマシロが、二匹揃ってジッとまっすぐ視線を向けてきていることに気づいた。
――またぼくたちをしんぱいさせるつもり?
――なんのために、あさからおみせでまったりしているの?
視線がそう語っている気がした。何故か幼い男の子と女の子の声で脳内再生されてきたから、余計に質が悪い。
(でも……今は余計なことを考えるべきじゃないのも、確かではあるわよね)
むしろそのために仕事を休んでいるのだ。今はとにかく、喫茶店の午後のひとときを楽しもうではないかと、そう思うことにした。
「すみません。コーヒーをもう一杯いただけますか?」
「かしこまりました」
気分を仕切り直す意味も兼ねて、コーヒーの追加注文を行う。そして数分後、湯気の立つコーヒーが目の前に置かれたところで、改めてめいは『ねこみや』の昼間の姿を見渡すのだった。
(……なーんかこう、新鮮な気分なのよねぇ)
コーヒーの苦みを味わいながら、ぼんやりとそんなことを思う。
いつもは日が暮れた後の時間帯にしか来ないため、自分以外の客は誰もいないというのが普通だった。
しかし今は――
「あーん、クロベエちゃんかわいーわぁ♪」
「マシロちゃんも、今日はなんだかご機嫌ねぇ♪」
「ホント癒されるわぁ……」
近所のおばさんグループが、猫目当てにボックス席でたむろしていたり。
「よぉ、マスター。いつものヤツ頼むわ」
「アイスカフェオレですね? 少々お待ちくださいませ」
作業着を着た大柄な男が、入店するなりカウンターへ向かい、座りながら気さくに話しかけていたり。
「おかーさん、ミカはレモンケーキにするー!」
「また? ホント好きなのねぇ」
隣の小さな自然公園で遊んだ帰りらしき母娘が、キャッキャと楽しそうにはしゃぎながらケーキを食べたり。
「あなた、今日はカフェオレ禁止ですからね?」
「わ、分かってるって。医者からも言われてるんだし、気を付けるっての」
「ハハッ! 佐武さんは相変わらず、奥さんの尻に敷かれてるな」
「ウチの嫁さんも、なかなかにおっかねぇもんでさぁ!」
佐武夫婦を筆頭とする常連客が、久しぶりに集まったらしくボックスへ移動し、雑談の花を咲かせている。
そこに猫太朗が歩いていき、お冷の追加がてら注文を受けていた。
常連客は当たり前のように彼にも雑談を持ちかけており、猫太朗も注文のメモを取りながら難なく話題に応えている。
これもまた、いつものことなのだとめいは思った。
(凄いわね……もう完全に人気のあるお店そのものじゃない)
いつも自分が見てきた『ねこみや』の姿とは、大きく違っていた。昼と夜とでは店の顔が違うというが、ここも決して例外ではなかったらしい。
(正直、経営は大丈夫なのかと思ってたけど……余計な心配だったみたいね)
むしろ偉そうなことを考えてしまっていたのだと、めいは軽く反省する。そこに何かが足元を小突いてきた。
何だろうと、めいが視線を下ろしてみると――
「にゃっ!」
「にぅ」
クロベエとマシロが、二匹揃ってめいの元へやってきていた。
「あら、私と遊んでほしいのかしら?」
「にぅ♪」
「おっと! コラコラ、急に飛びつかないの」
飛びついてきたマシロを軽く窘めながらも、めいの表情は緩んでいた。マシロもひたすらめいに甘えられることを嬉しそうにしており、それをクロベエはどこか冷めた様子で、ジッと見上げていた。
カウンターの隅っこで展開されていたその光景を、周りも注目している。
特に常連客グループは、こぞって物珍しそうな表情をしていた。
「こりゃすげぇなぁ。あの姉ちゃん、随分と懐かれてるじゃねぇの」
「えぇ。そうなんですよ」
注文の確認をしていた猫太朗も、少し遅れて気づきつつ、笑顔で応対する。
「特にマシロが気に入ってしまったみたいでして」
「私も最初見たときは、驚いてしまいましたわ……あっ、そうそうマスター。ちょっと気になることがあるんですのよ」
「――どうされました?」
猫太朗が尋ねると、江津子が声を潜めながら、ひっそりと告げてきた。
「なんでも、マスターを探しているという、女性の方がいるそうですわよ?」
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