05 白い子猫と喫茶店



(首輪……ついてないわね)


 つまり野良であると判断できる。ならば放っておくのがベストだろう。親猫が傍にいるかもしれないからだ。人間が無暗に関与すべきではない。

 それくらいは、めいも分かっているつもりであった。

 しかし――


「にぅー」


 白い子猫は立ち上がり、そのままトコトコとめいの元へ歩いてくる。そしてめいの足元で立ち止まり、また見上げてきた。


「……お母さんとかはいないの?」

「にぅっ」


 その鳴き声はたまたま発せられたものだろうか。それとも今の問いかけに答えたのだろうか。

 めいにそれを判断することはできない。

 ただ、今この白い子猫は言ったような気がしたのだ。

 そうだよ――と。


「……っ」


 唇をきゅっと結びつつ、めいはしゃがみ、手を差し伸べてみた。すると白い子猫は更に近づき――飛びついてきた。


「わっ!」


 目は驚きながらも、白い子猫を両腕で受け止める。そのまますっぽりとめいの腕の中に納まった。


「にぅ――」


 漏れ出る鳴き声とともに、スリスリと顔を動かしてくる。着ているスーツが汚れてしまったが、もはやそんなことはどうでもいい。


(これ、どうしよう?)


 問題はそこだ。とりあえずそっと地面に降ろしてみるが――


「にぃっ!」

「わっ、と……」


 再び飛びついてしまい、めいの腕の中にすっぽりと収まる。地面に降ろしたところで同じことが繰り返されてしまうのは、目に見えていた。

 見たところ一匹だけのようであり、親や兄弟らしき姿は確認できない。

 このまま連れて帰りたい気持ちに駆られるが、めいにはそれがしたくてもできない理由があった。


(参ったなぁ。ウチのアパート、ペット禁止なんだよねぇ)


 つまり連れて帰るのは不可能ということだ。しかしこのまま放っておけない。子猫自身も、しっかりと爪を立ててしがみついており、まるで離さないぞと訴えているように感じてならなかった。

 めいは立ち上がり、おもむろに周囲を見渡す。


「せめて、猫を飼っている知り合いでもいれ、ば……」


 そう呟いた瞬間、めいの頭の中に一人の青年が思い浮かんだ。つい先ほど出会ったばかりの、喫茶店のマスターを務める彼の姿が。


(厚かましいことは承知だけど――)


 他に取れる手段はない。そう思っためいは、白い子猫を抱きかかえたまま、来た道を引き返した。

 何年振りかの暖かさを感じた、喫茶店『ねこみや』へ向かって。



 ◇ ◇ ◇



「――行ってきます」


 誰もいない部屋に背を向け、独り言のように呟きながら、めいは外へ出る。

 いつもより一時間は早い時間帯であった。静かな朝の住宅街が、いつも以上に清々しさを感じさせる。

 昨日の今頃は、まだベッドの中だっただろうか――普段はギリギリに起きて、朝食を食べることもなく家を飛び出す。この数年でメイクの完璧な早さに磨きがかけられたのは、自慢に値することだと思っている。

 会社近くのカフェに入り、サンドイッチとコーヒーをテイクアウトして、それをオフィスでひっそりと食べながら始業の準備をするのだ。

 部長から急ぎの頼まれごとをされて、食べられない日も少なくない。

 その度に機嫌が悪くなるのは、流石に致し方ないだろうと、めいの中で妙な自信を持っていた。

 とまぁ、そんな毎日を送っていためいが、今日に限っては早くに家を出た。

 流石にちゃんとメイクはしたが、朝食は相変わらず取っていない。というより食べる時間も勿体ないと思っていたほどだ。

 それだけ彼女は、早く『会いたい』という気持ちが溢れ出ていたのだ。


(ここを曲がれば――)


 急ぎながらも車や人に気を付けつつ、路地の角を曲がると、それはあった。住宅街の端っこに位置する、猫が住み着く喫茶店が。


「いたっ!」


 思わず声に出してしまった。箒と塵取りを持ち、店先の掃除に出ている青年も、彼女の存在に気づく。


「あぁ、めいさん。おはようございます」

「お、おはようございます!」


 マイペースに挨拶してくる猫太朗に対し、めいは少し緊張してしまい、声が上ずってしまった。それを気にも留めず、彼はにこやかに笑う。


「昨日の子猫なら元気ですよ。クロベエともすぐに打ち解けたみたいですし」

「そうですか……」


 ひとまずの安心を得て、めいは表情を綻ばせる。そしてすぐさまそれを引き締め直したうえで、改めて彼女は姿勢を正す。


「猫太朗さん。昨日は突然のお願いを聞いてくださって、本当に……本当にありがとうございました!」


 九十度近い角度でお辞儀をするめいに、猫太朗はやんわりと手をかざす。


「いえいえ。確かに驚きましたが、猫を放っておきたくない気持ちは、僕もよく分かりますからね」


 そして振り返ると、扉の奥からじっと見つめてくる『二匹』の猫たちの姿。クロベエの隣にいる白い子猫――その視線は、めいに向けられていた。

 めいは笑顔を見せつつ手を振ると、白い子猫の口が開く。恐らく『にぅ』と鳴いているのだろうと思い、駆け寄りたくなってくる。

 しかし、残念ながらそれはできない。

 これから仕事なのだ。猫の毛でスーツを汚すわけにはいかない。


「拾った子猫を預かってほしい……いくら猫好きの僕でも、無茶な願いに等しいものではありましたが、何故か昨日は拒めませんでした」

「……ですよね」

「あぁいえ、咎めているワケではありません。受け入れたのは僕の意志ですから」


 軽く落ち込みを見せるめいに、猫太朗も軽く慌てる。そしてすぐに落ち着きを取り戻して、視線を後ろから覗き見ている小さな二匹に向けた。


「しかし今となっては、受け入れて正解だったと思ってます。クロベエにも妹のような存在ができて、喜んでいるみたいですし」

「妹……」

「えぇ。あの白い子猫はメスですから」

「なるほど」


 昨日はそこまで確認する余裕はなかった。それだけ必死だったのだと、めいは改めて気づかされる。


「ところで、その……あの子の容体はどうでした?」

「来たときは少し弱弱しかったですが、今は普通な感じですよ」


 少し不安そうなめいに、猫太朗は安心させる意味も込めて優しく言った。


「あの様子なら恐らく大丈夫だとは思いますが、念のため今日は、僕があの子を動物病院に連れて行きますので」

「はい。何から何まですみません。後で診察代は払いますから」

「別にそれは……」

「お世話になりっぱなしで、私の気が済まないんです!」

「えっと……はい、分かりました」


 急に発生しためいの押しの強さに、猫太朗は思わずたじろいでしまう。しかしそれも一瞬のことであり、すぐに元の落ち着いた表情に戻る。


「でしたら後で、領収書込みでお知らせしますね」

「よろしくお願いします――すみません、そろそろ私、会社へ行かないと」

「えぇ、お気を付けて」


 めいはペコリとお辞儀をして、速足で歩き出していく。その姿を白い子猫が、寂しそうに見送り――声を上げて鳴く仕草を見せる。


「――っ!」


 めいが立ち止まり、振り向こうとしたが、そのまま再び歩き出す。そんな彼女の様子に、猫太朗は見送りながらも軽く驚いていた。

 まるで彼女が、そのような反応をするとは思わなかったと言わんばかりに。


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