03 めいと猫太朗



 具だくさんのナポリタン。そしてドレッシングをかけたグリーンサラダ。

 どちらも素晴らしい味で大満足だった。めいは夢中になって、ひたすらフォークを動かし続ける。


「んー、んん、んんぅ♪」


 頬を抑えながら幸せそうに微笑む。一心不乱という言葉がピッタリなほど、口と手が止まることはない。

 普段の彼女からは想像もつかない姿であった。

 ここまで周りを気にせず、何かに夢中になることはなかった。『ねこみや』の暖かな雰囲気がそうさせているのか、それとも他に不思議な何かがあるのか。

 いずれにせよ、言えることはただ一つ。

 めいは今、途轍もなく幸せということだけであった。


「あーもう最高だわ♪」

『嬢ちゃん、いい食べっぷりかましてんなぁ……』

「うん。子供の頃から、好き嫌いなくしっかり食べるのが自慢――えっ?」


 めいはフォークの手をピタッと止める。そして顔を上げて周囲を見渡した。

 また同じ声がした。青年とは明らかに違う声が耳元で。


「…………」


 自然と視線が、テーブルの上から見上げてくるクロベエに向けられる。


「――にゃあ?」

「いや、まさかねぇ……ハハッ」


 どうしたの、と言わんばかりに首をかしげながら見上げてきている黒猫に、めいは表情を綻ばせる。

 黒猫が言葉を喋ったのかもしれない――割と本気でそう考えてしまった自分が、少しだけ恥ずかしくなった。

 そんなファンタジーなことなんてあるはずがないと。


(でも……それなら今の声は、一体誰が……)


 めいはチラリと視線を動かしてみる。

 青年は少し離れた位置で、コーヒー豆のチェックをしていた。ナポリタンを出してから目の前に近づく気配はしていなかったし、なにより声が明らかに違っていたから恐らく違う。

 となると必然的に、青年以外の誰かということになる。

 ここでそれがいるとしたら――


「にゃっ」


 再びめいが視線を向けた瞬間、クロベエがテーブルの上から飛び降りた。彼女の相手をするのに飽きたのか、再び店内をウロウロと動き始める。他に客が一人もいないせいか、のびのびとしている様子であった。


「……どうかなさいましたか?」

「えっ? あ、いえ、別になんでも!」


 急に青年に話しかけられためいは、慌てて手を振りながら視線を動かしていく。するとそこで、壁に掲示してある営業許可証に目が留まった。

 当たり前ではあるが、そこには店主である青年の名前が記載されている。

 神坂猫太朗――と。


「かみさか……ねこたろう?」


 無意識に口に出して読んだめいは、首をかしげてしまう。なんとも不思議な名前だなぁと思ったのだ。

 すると青年が、苦笑しながら近づいてくる。


「それ、『ねこたろう』じゃなくて『みょうたろう』って読むんですよ」

「――えっ?」


 めいは思わず硬直する。そして急激に、さぁっ――と血の気が引いていった。

 とんでもないことをしてしまった。相手の名前を読み間違えるなど、彼女からすればご法度も同然。仕事で客先と話すことも多く、正しく名前を認識するのは当たり前のことだ。

 間違えるなどあってはいけない――いつしかそう心に刻み込まれていた。


「す、すみません! 私ったらとんでもなく失礼なことを――っ!」


 それ故に、土下座をする勢いで頭を下げ、大きな声で謝ってしまうのも、致し方ないと言えるだろう。

 そんなめいに対する青年こと猫太朗の表情は、優しい笑顔のままであった。


「気にしないでください。今みたいに間違える人のほうが多いですから。てゆーか僕の名前を見た人は、必ず一回はそう読んできますからね」

「しかし……あ、そっ、そうだ!」


 納得しきれないめいは、ここで思いついた反応を示す。ただし酷く慌てており、猫太朗もどことなく不安を覚えていた。

 そしてその結果は――


「わ、私の名前は、西園寺めいと言いますっ!」

「いや、別にあなたが僕に自己紹介する必要はないと思うんですが……」


 やはり暴走していたかという形となり、猫太朗は苦笑する。そんな彼のやんわりとしたツッコミで我に返ったのか、めいは再び恥ずかしそうに顔を背けた。


「はうぅ~、私ったらまたぁ~!」


 両手で顔を覆い、左右に振る。まさに『いやいや』という擬音が聞こえてくるかのようなその素振りに、猫太朗は呆気に取られていた。

 また随分と可愛いことをする人だな、と。

 しかしそれを口に出せば、めいは間違いなく更に暴走を加速させるだろう。故にこれ以上ややこしくしないためにも、下手なことは言わないと決めた。


「ひとまず……西園寺さんとお呼びすればいいですかね?」


 だから猫太朗は、話を逸らす意味も兼ねて、めいにそう提案した。

 すると――


「あ、できれば名前でお願いします」


 めいがあっさりとそう言ってきたのだった。流石に予想外な反応であり、猫太朗は素直にポカンと呆けてしまう。


「……最近の女性は、男に対して簡単に名前呼びを許すものなんですかね?」

「へっ? あ、いえその……そーゆーワケじゃないんですけど……」


 ここでまたしても暴走していたのかと気づき、めいは再び顔を赤らめる。しかし先ほどのおかげか、ダメージはそれほどでもなかった。

 故に軽い恥ずかしさを感じる程度で済み、そのまま理由も話せた。


「ここに来てまで苗字で呼ばれるのは、ちょっと……仕事を思い出しちゃって」

「あぁ、なるほど……」


 猫太朗はなんとなく察した。ここは彼女の好きにさせたほうがいいと判断し、素直に頷く。


「分かりました。じゃあ『めいさん』と呼ばせてもらいますね?」

「はい。私も『猫太朗さん』と呼んでもいいですか?」

「ご自由に」


 かくして二人は名前で呼び合う関係となった。

 出会ってまだ数十分しか経ってない間柄だというのに、接近するスピードが速いということを、果たして当の二人は気づいているのだろうか。


「にゃあぁ~」


 それを見透かしているかのように、クロベエが呆れたような鳴き声を上げた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る