02 癒しの空間
(……入っちゃった)
喫茶店『ねこみや』のカウンター席に座るも、めいはどこか居心地が悪そうに視線を動かす。
特に入りたいと思ったわけではなかった。
クロベエと呼ばれた黒猫の意思を汲み取ったらしい店主を務める青年が、にこやかな笑顔で「どうぞお入りください」などと言ってくれば、自ずと断る選択肢が消え失せてしまうというものだ。
諦めたとはいえ、自分もまだうら若き乙女なのだと、めいは思っていた。
若い――恐らく同年代――の男に優しい表情を向けられて、それを突っぱねるようなことは恥知らずもいいところだと。
しかしそれも、その場の勢いでしかなかった。
完全にいつもの自分じゃない。普段ならこんな誘われるがままの行動なんて、絶対にするはずがない。
全くどうかしている――そう思いながら、めいは店内を見渡してみる。
(ふーん……綺麗なお店じゃない。レトロな雰囲気もいいわね)
他の客が一人もいないということを抜きにしても、この店は『当たり』だとめいは改めて思った。
居心地が悪いだなんてとんでもない。むしろ最高に値するほどだ。
そんなお店が、自分の住んでいるアパートの近くにあったなんて――めいは新たな驚きに包まれていた。
「あ、あのっ!」
めいは緊張気味な口調で、コーヒー豆を挽いている青年に声をかける。
「ここでお店を始められてから、長いんですか?」
「んー、まぁ、数年になりますかね。それほどでもないですよ」
「そうですか……」
少なくとも十年以上ということはなさそうだと、めいは思った。大学時代からこの町に住んではいるが、この店がある場所には一度も来たことがなかったため、知らなかったとしても無理はない。
もう少し早く気づきたかったと、めいは軽く後悔する。
それでもこうして巡り会えただけラッキーであり、今日はそれを喜ぼうと、無理矢理にでも前向きに思うことにはしていたが。
「――どうぞ。当店自慢のコーヒーです」
「あ、ありがとうございます」
カチャッと目の前に置かれた小さなカップからは、ほのかな湯気が立っている。ふんわりとした苦みのある香りが、なんとも心地良い気持ちにさせた。
角砂糖一つとたっぷりめのミルクを注ぎ、それを丁寧に混ぜて一口飲む。
「……美味しい」
無意識に出た感想であった。甘党でブラックは一切飲めず、本当に疲れた時にしか飲まないコーヒーが、まさかこんなに美味しいとは。
めいはじんわりと感動していた。
これなら疲れてなくても、飲みに来たくなる――そんなコーヒーに、生まれて初めて出会えた気がした。
「お褒めに与り、光栄でございます♪」
やや芝居じみた口調で青年が言う。ここでめいは、ハッと反応を見せた。
「あの……本当にこれ、サービスでいいんですか?」
「構いませんよ。当店の味を知っていただく意味も兼ねてますので」
「は、はぁ……これは本当に、心が落ち着く味だと思います」
「ありがとうございます。次からは、なにとぞご贔屓に」
「はい」
――くうぅっ。
めいが返事をすると同時に、なんとも間抜けな低い音が鳴り響く。身を縮こませながら、みるみる表情を赤くする彼女の姿に、青年は思わず笑みを零す。
「フフッ、何か注文されますか?」
「……はい」
まさかこんなに早くご贔屓をすることになるとは――めいは恥ずかしさを少しでも隠すべく、開いたメニューで顔を隠すのだった。
◇ ◇ ◇
「にゃふ~♪」
テーブルの上で寝そべり、完全にリラックスしているクロベエ。めいに背中を優しく撫でられて、更に気持ちが良さそうであった。
「ヤバい……これマジで天国だわ」
ふにゃっと表情が柔らかくなるのを感じる。それぐらい、めいの心は急速に癒されていくのだった。
猫の喫茶店という名は伊達ではない。そして単なる猫カフェとも訳が違う。
「クロベエに初対面で気に入られるなんて、相当珍しいほうですよ」
パスタを茹でながら青年が笑う。しかしめいからすれば、誰にでも懐くような大人しい猫にしか見えなかった。
猫のほうから近づいてきただけでなく、好きに触っていいぞと言わんばかりに、めいの傍で寝そべる。むしろそんな猫がいていいのかと、めいはクロベエに対して真剣に尋ねたくなるほどであった。
しばらく撫で続けていても、嫌がる様子は全く見せない。
苦しうない――そんな声が聞こえてきそうなほどに。
『んふ~、もっとしてくれてもいいぞ?』
「あら、そうなの? じゃあ、遠慮なく……えっ?」
ほんわかとした気持ちが、一瞬にしてブレーキがかかってしまった。撫でていた手も完全に止まり、クロベエもそれに気づいて、どうしたのと言わんばかりにきょとんとした表情で見上げてきている。
めいは殆ど無に近い驚きの表情でクロベエを見つめていた。
(今……確かにこの子から……)
聞こえた気がした。聞こえたからこそ、自分は自然と反応してしまったのだ。とても気のせいとは思えない。
「まさか――」
くぅ。
その瞬間、またしても間抜けな音が鳴り響いてしまった。
「……あぅ」
思わず声に出しながら、めいはお腹を押さえる。原因は考えるまでもなかった。目の前にある簡易キッチンから漂ってくる、美味しそうな匂いだ。
子供なら大半が大好きであろう、ケチャップの炒められる香ばしい匂いが。
フライパンから白い皿に料理が盛り付けられ、めいの心が跳ねる。まるで幼い頃に感じたワクワクを思い出すかのように。
「――お待たせしました。ナポリタンとグリーンサラダでございます」
待ち侘びた瞬間がようやく訪れた。大好きでありながら、社会人になってから一度も食べてこなかったパスタ料理が目の前にある。これを嬉しく思わないでどうするというのか。
それでいてしっかりと健康にも気を遣う点は、褒めてほしいところでもあった。
「いただきます」
両手を合わせて、確かな力強さを込められた挨拶とともに、めいはフォークを手に取った。
ベーコンや玉ねぎ、そしてピーマンを上手くパスタに絡ませつつ巻き取り、それを口いっぱいに勢いよく頬張る。
普段なら絶対にやらないような行為も、今のめいは気にしない。
「ん~~♪」
ぷっくりと頬を膨ませつつ、幸せそうな声が出てくる。もはや止められない。やめることもできない。ただ夢中でフォークを動かし続けるだけだった。
「……にゃあ」
締まらない嬢ちゃんだなぁ――そう言わんばかりに、クロベエが寝そべりながら見上げてきていたが、料理に夢中なめいは全く気づかなかった。
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