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暦の変更を信長が武家伝奏の勧修寺晴豊を通じて朝廷に要請したのは一月の終わり頃の事。
この時代には朝廷が定める宣明暦と地方で使われている、いくつかの暦があった。
一つの国にいくつもの暦があったのだから今までにも問題になった筈だが、この年、特に大きな矛盾が生じ、濃尾の暦者が訴えた事が発端となったと云う。
天下統一に向け、国の統制を考えれば暦の問題はその儘にしておく訳にはいかないと信長は考えたのかもしれない。
現代は四年に一回、二月の日数を一日増やして調整するが、この時代は三年に一回同じ月を増やすという方法だったようだ。
朝廷が定める宣明暦に対して信長が勧めたのは、三島暦という東国で使用されていた暦だ。
この年に暦の問題が大きく取り上げられたのは、三島暦では今年の十二月の後に閏十二月を入れるのに対し、宣明暦では翌年一月の後に閏一月を入れるというもので、元日が一ヶ月もずれてしまうという理由からだ。
信長からの要請に朝廷は慌てふためいた。
暦を決めるのは長く続く朝廷の特権であり伝統である為、安土からの要請でも変える訳にはいかないとの考えが第一にある。
一方、信長の考えでは伝統だからではなく、先ずどちらの暦が理に叶っているかが優先される。
合理性を好み変化を厭わない信長は、朝廷を屈伏させたい訳でも権利を奪いたい訳でもなかった。
問題が提議され議論され、古い物が淘汰され、新しい方向に変化していく、それだけを当初は望んでいた。
「はてさて、公卿共は暦の事で大騒ぎよのぅ」
と最初は呑気に構えていたが、煮え切らぬ朝廷の態度で火が点き、近衛前久に都の暦仕者を招集して、糾明を行うようにと信長は命じた。
七名の暦仕者を召集し、糾明しても決着は付かなかった。
というより、朝廷側の答えが常に従来の宣明暦通りであるのに信長が納得がいかなかったというのが正しいのか。
変えたい信長と変えたくない朝廷。
時の基準がまちまちでは人の生活に支障をきたす場合もあるという事と、時を支配するという意外と重い権利を水面下で争っていただけなのかもしれない。
双方があれこれと正当性を主張した結果、勝負はもう少し先に持ち越される事になる。
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二月十二日、総大将として岐阜から信忠が出陣した。
十四日には岩村に到着し、先陣部隊の森長可、団平八と合流し布陣すると、信長から滝川一益、河尻秀隆、毛利河内守等が派遣された。
これらの者達は、軍隊の目付け役であると同時に若い総大将を補佐する役も担っている。
十四日に信州松尾城主、小笠原信嶺が寝返ると、森長可と団平八が先陣をきり、木曽峠を越えて進軍を開始。
甲斐の武田との戦いの火蓋がいよいよ切って落とされた。
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