12

 安土城に呼び出され、光秀は気が重かった。

 信長の周りに誰もいない事を訝しんだが、その方が気が楽だった。


『お人払いをされているのは、長宗我部とは別の用件であろう』


 とは、当然考えた。


「喜べ!木曾義昌が寝返った」


「おぉ、それは」


 光秀にとっても、それは朗報に違いなかった。

 

「では?いよいよ、武田の征伐に──」


 言いかけ、上洛はどうなるのだと不安になったところ、信長が告げた。


「二十八日の上洛は取り止めじゃ!楢柴肩衝は武田が滅びるまで御預けじゃな」


 常であれば素直に喜び、予定が変わった事など気にも止めなかっただろう。

 だが言いづらい事を腹に抱え、信長の機嫌を取る為の餌を無くし妙に心細くなる。

 逆にこうも考えた。

 今、信長の頭の中は武田征伐で一杯だ。

 ならば四国の件は後回しになり、まだまだ交渉を続けさせるか政策を転換させる機会もあり得るのではないか。


 甘い考えを巡らしていたところに鋭い問いが発っせられた。


「長宗我部の件はどうなっておる? 」


 まだ肌寒いというのに額に汗が滲む。


「……それが……中々……その……」


 光秀の覚悟の無さが返答を歯切れの悪いものにした。

 覚悟が無いというのは、己は悪くないという思いと、悪くないのであれば誰が悪いと言う事の出来ない中途半端な心持ちの事だ。


 案の定、歯切れの悪さを嫌う信長は苛立った。


「貴様!中々とは何じゃ。長宗我部が要求を呑むか呑まぬか、どっちじゃと申しておる! 」


 怒りの牙は光秀に容赦無く向けられた。


「はっ!それは……朱印状があり、上様に賜ったものではなく、己の力で切り取ったものを何故返さねばならぬのかと、頑固に言い張り……」


「たわけがーー!!欲張るのも大概に致せ!淡路も平定され、三好が味方に付いた今、長宗我部は用済みなのじゃ!方々から悪い話ばかり耳にするのを聞き流してやっておればいい気になりおって──」


 今度は歯切れ良く正直に言い過ぎて怒りに火を点けてしまったようだ。

 手近にあった梨地金蒔絵漆塗りで仕上げた豪華な高杯を、荒々しく蹴飛ばす。

 高杯は音を立て、光秀の傍らに転がった。


「申し訳──申し訳ございませぬ。今、石谷と斎藤の兄弟で説得しておりますれば、今少しの御猶予を」


 頭を床に擦り付けながら思った。


『儂は悪くないのに何故謝らねばならぬ。約束を違えたのは上様。儂には交渉を命じておきながら、筑前が阿波の三好を助けるのを平気でお許しになる──敵対する三好を積極的に支援するわ、約束を反故にするわ、そんな織田に従う気になる訳がなかろうが──』


 交渉を邪魔し讒言している者の存在は棚に上げ、己ばかりを責める理不尽さに歯を食い縛る。

 度々讒言を繰返すのは四国の大名達で間違いないが、裏で糸を引いているのが秀吉と知ったところで、下手に悪く言えない悔しさが込み上げた。

 秀吉は中国で粉骨砕身し毛利勢と戦う健気な家臣として信長の目には映るのだろう。


 現状、戦に従事している者は明らかに有利だ。 

 吏僚に比べ働きを派手に誇示し易い。

 それに有力な側近衆を味方に付けているのだから、表でも裏でも秀吉を貶める発言は危険である。

 歳暮の行列は見え透いているが確かに効果はあったと認めざるを得ない。


 多くの家臣の中に埋もれるだけなら良いが、失態を犯した場合は大きな武功を上げるか、別の形で償うしかない。

 

 楢柴肩衝──


 茶会が武田討伐の後になったとて、己の立場を少しは有利にしてくれる道具とはなろう。

 だが、それは己の望む本来の形ではない。


「日向よ。石谷に伝えよ。儂が支配を認めるのは土佐一国だけじゃとな」


 非情な声が上から降ってきた。

 最初は土佐と阿波半国だったのを更に減らしたのだ。


「しかし──それでは更に──」


「黙れ!最後の猶予じゃ。木曾が寝返って良かったのぅ。そうでなくば、とっくに兵を進めているところじゃ。三好を四国に出陣させる」

 

「そんな...…では私も四国に……」


 三好に長宗我部を討伐させるのかと慌てて嘆願した。


「案ずるな!まだ猶予はやると申した。三好を遣るのは阿波を守らせる為じゃ。貴様は武田討伐の戦支度をせよ」


「はっ……では石谷には、そのように伝えまする。陣容はどのように? 」


「畿内の軍勢は儂と共に出陣じゃ!此度は城之助(信忠)が総大将を務める。先陣は尾張や美濃の若い奴等になるじゃろう!若者に手柄を立てさせてやらねばな 」


 甲斐や信濃からの距離を考えれば、尾張美濃の軍勢が主力になるのは当然である。


『武田討伐でも武功は期待出来ず、四国を討伐する際も軍から外され、九州にしか力を発揮する場がないとなったら己はまるで大宰府に左遷された菅原道真のようではないか』


 従五位の下という官位と共に、惟任これとうという九州の名家の姓まで賜った時には誇らしかった。

 今となっては運命を暗示していたのかと悪い方に考えてしまう。

 戦いで平定した者が、その領地を賜り治めるのが自然な流れ。

 光秀が畿内を掌握しているのは丹波丹後を平定した功績に因る。

 帝や信長の御膝元から近い丹波丹後、大和など国の中心地で大軍団を任されている事が誇りでもあった。

 国替えは良くある事で、本領安堵の上、遠国の支配を任されるか、完全に転封となる場合もある。

 いずれにせよ、手柄を立てた上での事であれば加増が常であるから、一国一城の主になれた者には喜ばしいだろう。

 同じ遠国でも任されるのと飛ばされるのとでは気持ちに大きな開きがある。

 最悪九州に転封となっても、心血注ぎ込んで普請した美しい坂本城だけは畿内の拠点として安堵して欲しいと願った。


 ────


 二月一日に苗木城主遠山友忠は軍勢を差し向け、木曾義昌から弟の義豊を人質として受け取った。

 裏切りはすぐに知れ、木曾義昌の長男千太郎、十三歳、長女岩姫、十七歳 母七十歳が新府城で磔に架けられ処刑された。


 勝頼父子、勝頼の従兄の信豊は一万五千の兵を率いて新府城から出陣すると諏訪上原に陣を敷いた。

 この動きに対して信長は、駿河の徳川家康、関東の北条氏政、飛騨の金山長近に出陣命令を出した。

 織田信忠軍は先陣として森長可と団平八が尾張美濃の軍勢を率い、木曾と岩村の両方面に軍を進めて行く事となった。


 それ以外の陣容は二月九日に朱印状で、畿内の軍勢は遠路であるから、少数精鋭で挑み兵糧が持つようにと発令した。

 

 ────

 

 さて、信長は己も出馬するつもりではいたが、それは少し先の事になる。


「はっは──そんなに慌てておったのか。銭はそっくりその儘あったのじゃな。やはり追加の費用の依頼があらば、岐阜から出させよう。岐阜城は特に変わっていなかったか? 」


 軽く問いかけたが、乱法師はそもそも岐阜城を良く知らないだろう事に思い至った。

 これが亡き父の可成であれば思い出は沢山あっただろうが。


「岐阜城の事は幼き日の記憶にて、細かな変化には気付きませなんだが、御殿の美しさがこれ程であったかと、安土に参ります時に通った道は以前よりも整い、人の数も多いと感じました。道々この者達は安土の城下町を目指しているのかと思うと楽しくなり、それに金山から参った時を思い出し、懐かしくなりました」


 優しげな瞳と、天真爛漫な笑みに気持ちが和らぐ。

 乱法師を通して見れば、同じ景色も彩り豊かで、何処か楽しげなのだろうかと目を細めた。


「そうか、金山から来て、もう五年になるのか。早いものだ──」


 つい触れたくなり、艶やかな前髪に手を伸ばす。


「金山に帰りたいと思う事はあるのか? 」

 

 我ながら聞いても仕方がない事を訊ねているとは思った。

 彼を金山に返すつもりはないのに──

 

「安土に来たばかりの頃は懐かしく思い出す事はありましたが、今は文で様子を聞き、頭の内で思い描いて満足しておりまする。安土がすっかり私の故郷のようで、最初の頃は上様は恐ろしい方じゃと方々から聞き、斯様に御情けが深い御方と知れば益々御側を離れたくないと存じまする」


 健気過ぎる言葉の中には、本音が穏やかに散りばめられていた。 

 やはり、生まれ育った城が懐かしいのだ。


「そなたから見て、どんなところじゃ。金山は? 」


 何気なく口にした言葉だった。

 話では聞いているが、信長も実際には行った事がなかった。


「安土の御城や岐阜の御城を御覧になられた後では格段に見劣りは致しますが、木曽川が近くを流れておりますので、物にはあまり不自由せず、海で捕れた魚なども食しておりました。堺や都の商人から、各地の噂話も良く耳に入り──」


 話の途中で信長に鼻を摘ままれた。


「それで、儂の恐ろしい噂ばかりを耳にしておったのじゃな! 」


 鼻を摘ままれた儘、困った顔で首を竦める。

 そんな様子を見て、彼の髪を弄びながら呟いた。


「見てみたいのぅ。そなたの生まれ育った城を──」


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