11
乱法師は中仙道を通り、岐阜城に向かっていた。
安土から岐阜城までは往復四十里はある為、勿論一日で戻っては来れない。
金山城から安土に向かった時に通ったくらいで、久しぶりに故郷美濃の方角に向かう為、気分は高揚していた。
道は多くの人が行き交い、商人が多いように思われた。
道を通るだけで銭を支払うのでは物や人の往来が滞ってしまうと考え、織田家支配の領土の関所は撤廃されている。
安土の城下町は楽市楽座で新参の商売人達が多く集まってくる。
人も商品も銭も、関所の撤廃と座の廃止で潤滑に流れる様子が己が目で見て良く理解出来た。
道を行く人々の顔は活気に溢れ、締め付けられた不満も、道々の治安に対する不安も感じられなかった。
「戦のない暮らしとは、こういうものであろうか? 」
今、目にしている光景は日の本の一部だが、人々の顔に信長の治世の正しさを見出だし、天下が
関所が撤廃されたとはいえ、怪しい者が入り込まぬようにと検問くらいはある。
もっとも、信長の書状を携え森家の鶴丸紋の入った羽織り姿の乱法師が、咎められる事は一切無かった。
岐阜城を目にすると幼い日の記憶が甦えった。
末弟の仙千代のように長く人質となった経験はないが、父が亡くなり兄が家督を継ぐにあたり、家族総出で信長に謁見した。
その時に頭を撫でて貰い、顔を上げると優しい瞳が見つめていた。
今も自分に向けられる瞳は変わらず温かい──
急峻な山に聳え立つ岐阜城は難攻不落であると同時に、嘗ての信長の居城らしく、魅せる城でもあった。
特徴は山頂にも天守、山麓にも天主があり、音で聞くとややこしいが、字を変える事で目的を明確にしていたのかもしれない。
山頂の天守はその名の通り軍事の為、山麓の天主は住まう場所である。
信長自身は山頂の天守に住んでいたと仙千代が言っていた。
信忠は山麓の天守にいる筈だ。
人の背丈程もある巨石を脇に見ながら進むと、夢のように美しい御殿に辿り着いた。
それは四層でありながら四階建てではない御殿だった。
急な斜面に平坦な地を互い違いの階段上に作り、そこに御殿が四つ建っている。
城下から見れば四階建てに見えるが、実際は四層に切り分けられ廊下で繋がる斬新な構造であった。
庭園と池、それに小川が脇を流れ、建物の背後の岩盤から滝のように流れ落ちると水飛沫が上がり、真に目を楽しませる工夫が成されている。
来訪を告げると即座に最も格式の高い広間の上座に通された。
通常の使者である為心苦しいと、下座に移動しようとしたところに信忠が飛ぶような勢いで入って来た。
余程父親が怖いのであろう。
格式張り、乱法師の前に平伏する。
「中将様、此度は名代としてではなく、ただの使者として参りました。どうか御顔をお上げ下さいませ」
乱法師に言われ、顔を上げる。
「おお、そうであったか。して父上は何と? 」
乱法師は式遷宮の費用の依頼があった件をかいつまんで話し、岐阜城の土蔵の銭の縄を綴り直すようにという信長の指示をその儘伝えた。
「それで……つまり、今は結局──綴り直すだけで良いのか? 」
「はい!左様にございます」
信忠は少し首を傾げた。
「父上は他には何か申されておられなかったか? 」
「いいえ!それだけでございます」
「銭の縄を綴り直せという、ただそれだけを伝える為に、岐阜まで、わざわざそなたを遣わせたのか? 」
一瞬、父に試されているのかと不安がよぎる。
『銭をこっそり使い込んでいると疑われているのであろうか?それとも家中の者の不正の噂でもお耳にされたのか? 』
信忠の深読みは益々進んでいく。
「良し!そなたの前で銭を数えて縄を綴り直そう。父上にしっかりと報告を頼む」
表向きの使者の役目も果たしているところを他の家臣達にも見せた方が良いと考え、素直に従った。
銭の数は帳簿と正しく一致し、信忠は安堵した様子だ。
すっかり乱法師の事を監査役か何かと勘違いしている。
銭の数と帳簿が合っていた事と縄が綴り直された事は、一応報告しようと思いながら信忠に囁いた。
「中将様にだけ御話ししたき儀があります」
二人は書院で密談を交わした。
「父上にはもう御存じでいらっしゃったという訳か。これから使者を送り御指示を仰ごうと思っていたところじゃ」
木曾義昌の調略に当たっていた苗木城主、遠山友忠から寝返る意思は昨日伝えられたばかりで、信長が知ったのと殆ど変わらない。
木曾義昌は武田勝頼の義弟であり、武田勝頼の正室は遠山氏の血縁の娘を信長の養女として嫁がせ、更に信長の姪は遠山友忠の正室である。
三家の縁戚関係は複雑に
「上様は二十八日に御上洛される御予定でしたが取り止めると仰せです」
「御出馬されるのじゃな。して、それはいつを御考えじゃ」
「総大将と先陣については中将様にお任せすると。上様の御出馬は後にございます。出陣は、まず木曾義昌の内通の意思をもっとはっきりさせてからとの事です」
「はっきりとは? 」
沈鬱な面持ちで微かに瞼を伏せる。
「一つは木曾義昌に人質を出させる事。もう一つは、木曾義昌の人質が処刑される事」
臣従の証として家族を人質に出すのは戦国の習い。
木曾義昌は勝頼に長男、長女、母を人質として預けている。
裏切りが知れれば処刑される上に、織田方からは新たな人質を要求される。
寝返りは朗報だが、謀であった場合は挟み撃ちになる危険性もある。
「戦支度をしておけと。但し木曾の裏切りが武田に知られるのは遅ければ遅い方が良いので、目立たぬようにとの事です。主力は尾張と美濃の軍勢。上様の陣備えは後日、留守居役も含めて全ては二月になってからと仰せでした。敵の動き次第ですが、木曾義昌から人質を取るのは二月一日、遠山の軍勢を向かわせ人質を受け取れと既に伝えてあります。遠山の軍勢の動きは直ぐ知れるところとなるでしょうから、人質はそれまでに救い出せねば処刑されます」
最後の言葉は、やや感傷的だったかと思った。
人質は処刑されても救い出されても裏切りの決意を強固にする。
武田勝頼に裏切りが知れる前の時間は織田にとっては戦支度、木曾にとっては人質を救い出す為の猶予になる。
「先陣は、そなたの兄と団平八に申し付けるつもりじゃ。いよいよ武田征伐か」
「兄も平八も、先陣と聞けばさぞかし奮い立ち、お役に立ちましょうぞ」
そう言いながら、血の気の多い二人の事だから、役に立つどころか足を引っ張るような真似をしないか不安になった。
武田討伐の総大将として闘志を湧き立たせながら、信忠の顔が一瞬曇ったのは、勝頼の妹の松姫の身を案じたからかもしれない。
それぞれが心に複雑な思いを秘めた儘、大きな戦が始まろうとしていた。
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