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「どうしてもか」


 今や明智光秀にとってなくてはならぬ重臣、斎藤利三の報告に愕然とする。


「こちらには上様から頂いた四国は切り取り次第とする、という朱印状があるのだと、その一点張りで……」

  

 七日の茶会で高揚した気持ちが、再び奈落の底に突き落とされたような心境だった。 

 四国の長宗我部に土佐と阿波半分の領有しか認めないという信長の決断を了承させる為に、石谷頼辰と斎藤利三の兄弟をして説得を試みているのだが、交渉決裂は最早決定的である。

 本来の領地、土佐と阿波の半国だけでは、力で切り取った領地は全て返せという事になってしまう。

 戦で勝ち獲って得たのだから断るとの一点張りらしいのだ。


「従わねば攻め滅ぼされると言ってもか?この儘では軍を進める事になるのじゃぞ──それでもか? 」


 光秀も乱世の武将、長宗我部の言い分も信長の言い分も、どちらの気持ちも理解出来る。

 約束を違えたと信長を責める事は出来ない。

 結局は強い者に従うしかないのだ。

 四国切り取りを認めさせるなど、毛利攻めを視野に入れれば、例え三好と秀吉を台頭させる結果になろうとも決して許せる事ではない。

 戦を回避する為には長宗我部が折れるしかないのだ。


 斎藤利三の実兄、石谷頼辰の姓が石谷なのは、長宗我部元親の家臣、石谷光政が母の再婚相手だからだ。

 兄弟二人は長宗我部元親の義兄であると同時に長宗我部元親の家臣の義理の息子でもあった。

 長く取り次ぎをしてきた兄弟の心境は複雑だが、どうしても交渉が上手くいかなければ戦もやむ無しと覚悟はしている筈だ。

 光秀は丹波平定後、大きな戦に携わっていない。

 長宗我部の討伐軍からは、明智は深く関わり過ぎた為、外される可能性は高い。

 家中一の軍団を従える身でありながら、戦働きをせずに馬揃えや茶会の手配など、近習のような仕事ばかりで、近頃身も心も腐りそうだった。

 怜悧な彼は吏僚としても優秀には違いないが、今の儘では無用の長物に成り下がるのではと危惧していた。

 毛利攻めでも四国攻めでも手柄を秀吉に掠め取られる上に、最も嫌いな相手の援軍としてのみしか用途がなく、駒として使われる屈辱を味わうかもしれない。

 定めた明智家軍法の最後に『上様から莫大な軍勢を任されているからには、軍律を正さなければ国家の殻つぶしで、公の物を掠め取るに等しい。きっと周りに嘲られる事になるだろう。』と記したにも関わらずだ。


「孫九郎(石谷頼辰)を四国に遣り、石谷光政を使って説得させよう。まだ諦めてはならぬ」


 光秀は拳を握り締めた。


 二十五日、伊勢神宮の上部大夫が、三百年来途絶えた式年遷宮を執り行いたい為、費用を援助して欲しいと信長に願い出た。


「如何程あれば足りるのか? 」


「千貫ございますれば、その他は勧進で賄えるかと」


 信長に直に費用の工面を依頼するのは恐ろしかったのか、遠慮がちに返答する。


「一昨年の石清水八幡宮の修繕も三百貫で済むかと思ったら千貫掛かった。此度もそうなって民の負担になってはいかん。三千貫寄進しよう」


 それ以上掛かるようなら申し出れば寄進してやるとの太っ腹な信長の言葉に感謝して、上部大夫は帰って行った。


 信長は翌日、乱法師に命じた。

 

「乱、岐阜へ発て!」


「はっ!!」


 色事と人の悪意には薄らぼんやりしたところがある彼だが、他の事では大人びた気働きと鋭い知性で反応が早い。


 彼は既に情報を得ていた。

 伴家の忍びから、武田の家臣木曾義昌が寝返ると知らされたのは昨夜。

 忍びの情報は何処よりも早かった。

 岐阜の信忠の元には知らされている筈だが、他の家臣にはまだ一切漏れていない。


 この時点で信長は二十八日の上洛を取り止めると決めていた。

 だから乱法師を岐阜に遣わす事にしたのだ。

 表向きは以下のような理由だ。


「岐阜城の土蔵に一万六千貫を入れておいた筈だが、綴った縄が腐ってしまうから綴り直して、遷宮に必要ならば、そこから銭を渡してやるように」


 真の目的を知らなければ、少し首を傾げてしまうような使者の役目だ。

 指示の内容は、銭の穴を綴る紐が腐らないうちに取り換えろという、ただそれだけ。

 土蔵にある銭から三千貫持って帰ってくる訳でも、遷宮の費用の担当奉行として銭を管理する訳でもない。


 書状一つで済む話だ。

 上洛を二日後に控えた今、乱法師を使者として派遣しても怪しむ者は誰もいなかった。


 ────時は一日遡る。


 二十五日、島井宗室が坂本城を訪れた。

 本能寺での茶会の打ち合わせを兼ねた楽しい場である筈なのに、光秀の頭は姫路城で催された秀吉の茶会の評判や四国の情勢の事で占められ、どこか気も漫ろであった。


「安土の御城とはまた違った趣で美しい。琵琶湖の眺めも素晴らしゅうございますな。お招き頂いた事もそうですが、上様へ御取り次ぎ頂けるとか。真に忝のう存じます。こちらが楢柴肩衝にございます。どうぞ御手に取って御覧あれ」


 白地に金襴、鉄線花と菱形の紋の袋の濃浅黄の紐を解き、楢柴肩衝を宗室が取り出す。

 目にした瞬間、鬱々とした気持ちは吹き飛び、震える手で楢柴肩衝を取り上げると、無我夢中で賞玩する。

 肩衝にしては撫で肩で、濃い飴色の釉が掛り、口付きには筋が二つ入っている。

 特に印象的なのは、肩と腰部に近い辺りに二箇所、釉の掛かりが薄いところが何かの形のように見えるところだ。

 茶入れなので大きな物ではなく、高さは三寸足らず。

 手に取るとすっかり魅了され、一瞬この名物を我が物にしたいという欲望が湧き起こり、馬鹿馬鹿しいと我に返る。


「このような名物を御手に取られたら、さぞや上様の宗室殿に対する御信頼は高まるでしょうな。では、床の四方盆に据えさせて頂きます」


 此度の茶会では風炉が置かれ、信長から拝領の平釜が掛けられていた。


「いや、これが上様から拝領された平釜でございますか?素晴らしい」


 一月七日の茶会の時と同じような賛辞に光秀は満面の笑みで応える。

 だが心は空虚で、何故か喜びが全く湧いてこない。


『儂の望みは一体何なのか?此処で真に披露したい物は平釜なのか?他に……と問われても何も思いつかぬ。上様が儂を深く信頼されている証ではないか。何故、心満たされないのか。城も茶器も手にし、様々な賞賛を受け、金も軍団もある。この世の春ではないか。何故こんなに……』


 言い様のない迷いが心に生じ、何に惑うているのか分からず不安で押し潰されそうになる。

 ──気を取り直し思った。


『京での茶会を成功させねばならぬ──』


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