「では、仙の事。母上に御異存はないのでございますね」


 自邸で乱法師は仙千代を小姓に取り立てるという信長の申し出を母に伝えた。

 火鉢の中で炭が赤く燃え、妙向尼は手を翳しながら言った。

 

「上様の御心遣い、異存など。確かに仙千代殿だけは僧侶にと一度は思いはしましたが、兄弟四人までも御近習にとは嬉しい申されよう。真に御心の大きな御方。ただ、本願寺との和睦の条件とした事をいくら上様からの仰せとはいえ、その儘受けるのは心苦しゅうございます」


 翳していた手は直ぐに温まり、部屋の冷気も和らいでいた。


「確かに、それは私も……上様の御優しさに甘えてばかりはいられませぬ。やはり約束は約束。仙の話は御断りすべきではないでしょうか? 」


 温まった手を頬に当て妙向尼は暫し思案した。


「上様の御恩に報いるのは私達の務め。仙千代殿を小姓にと望まれておられるのです。従いましょう。ただ、森家として上様との約束を守る事も勤め。なれば仙千代殿以外の者を僧籍に入れれば、約束を違えた事にはならないでしょう」


「ですが、我等兄弟の中に僧籍に入れられる者など一人もおりませぬ。姉上達の子等の中からという事でしょうか? 」


「他家にはなりますが、森家に縁のある者に違いはありませぬ。関家に頼んで見ようかと思っています」


 長女は織田信忠の家臣、関成正に嫁していた。


「ふふ……」


「母上、どうされたのですか? 」


 先程まで二人で、申し出を受けるか受けないか真剣な顔で悩んでいたというのに、突然妙向尼が笑い出した。

 

「つくづく、贅沢な悩み事じゃと思ったのです。上様は約束はもうどうでも良いと仰せなのですものね。こちらがあくまでも守りたいと頑なに悩んでいるだけの事」


「真に心より感謝せねばなりませぬ。私は思うのです。上様が例え過酷な処罰を下され、世間から鬼と謗られる事があっても、森家だけは常に上様を御助けし、どのような事があろうとも決して、決して裏切るような事があってはならないと」


「はい、母もそのように思います。息子達、五人も上様にお仕えし、天下平定の為に力を貸す事が出来るなど母の誇りです。誠心誠意御奉公致さねば罸が当たりましょう」


「今年も、もう後僅かでございますね。一年があっという間に過ぎていく気が致しまする。色々ありましたが、来年も良い年になると良うございますね」


「ええ、必ず良い年になるでしょう」


 母子は顔を見合わせて楽しそうに笑った。


 ────天正十年、元旦


 昨年も一昨年も在陣中の武将が多かった為、年始の挨拶に来る者は少なかったのだが、今年は人が多過ぎて死人まで出る始末だった。

 まさか年始から挨拶に来て、死ぬ羽目になるとは思わなかったであろう者達の死因は、総見寺まで登る山裾に積み上げてあった石垣が多人数の重みで崩れ、落ちた事に因る。


 此度信長は、挨拶に来る者大名小名問わず、祝い金百文を持参しろと堀秀政と長谷川秀一に触れを出させていた。

 天守閣の白州に控えさせて、織田家一門、諸国の大名小名、安土在勤の者達と順に挨拶を受けていたが、「白州では寒いだろう。」と、訪れた者達を座敷に招き入れ、新しく造った江雲寺御殿を見せると言い出した。


 御殿の座敷は全て金で装飾され、襖にはお気に入りの絵師狩野永徳により様々な風景が描かれている。

 金がふんだんに使われ、次々に上がる感嘆の声に信長は実に満足気だ。

 すっかり気を良くして帝を迎える御幸の間にも案内する。

 全て檜皮葺でしつらえられ、四方にはこれまた金箔を貼り付け、絵の具を厚く塗り、盛り上げる事で立体的に見える障壁画が格段に豪奢な造りである。

 金具には唐草が彫られ、組み入れ天井に、帝の御座所には御簾が下がり芳香が立ち込め、やはり金尽くしだった。


 一通り見終わると元の白州に戻り、今度は「台所口の方に参れ」と命じられる。


 皆でぞろぞろと行くと、信長がにこにこ笑いながら厩に向かう入り口に立っていた。

 そこで自ら持参を命じた百文を受け取り、後ろに賽銭箱があるかのように投げ入れていく。

 差し詰め先程の御殿と御幸の間の拝観料といったところだろうか。


「ははは!愉快愉快! 」


 終始にこやかで、かなり上機嫌な信長だった。

 この日、出仕した者の中には、畿内を掌握する大名明智光秀もいたし、その与力で大和の郡山城主の筒井順慶もいた。


 参賀に訪れたのは武将だけではない。

 堺の豪商で茶人の今井宗久、千宗易、山上宗二、津田宗及等、名だたる者達が我も我もと献上品を携え、安土に集っていた。


 明智光秀は秀吉への不信感を募らせ鬱々としていたが、この日の信長の己に対する態度に溜飲が下がる思いだった。

 家臣の中では一番に御幸の間に通る事を許された上、鷹狩りで捕らえた生きた鶴まで賜った。

 勿論、このような栄誉は光秀と他数名の者達だけだ。


『やはり上様の儂に対する御信頼は篤い。あのような小狡い鼠がちょろちょろと小細工したところで見え透いておるのじゃ。いくら献上品を長く連ねたとて、その場限りの猿芝居。上様とて、その時には興じられても、お手にしてしまえば常日頃献上される品と何ら変わらぬ在り来たりの物ばかり。量より質なのじゃと思い知らせてくれるわ 』


 と、信長の態度に気が大きくなる。

 四国の事は四国の事。

 己に対する信頼は変わらない。

 だが、やはり光秀は失敗を厭い、常に念には念を入れておきたい用心深い質だった。


 織田家一門、日頃話す機会のない大名達に堺の豪商まで、ずらりと勢揃いしたこの機会を利用しない手はない。

 光秀が狙いを定めたのは堺の茶人。


「これは宗易殿ではござらぬか。何月振りでござろうか?そちらに居られる津田宗及殿や山上宗二殿には、我が城での茶会に何度も足を御運び頂いておりますが、宗易殿とは近頃お会い出来ず残念に思っておりました」


 堺の豪商で茶人、後に千利休の名で知られる宗易に先ず話し掛けた。


「日向守殿、貴方様の茶会の御持て成しの風雅な事、耳にしてます。また、茶会の御予定ありますか?是非、次回は参加させて貰いまひょ」


 以前にも茶会で同席し、打ち解けた間柄である。


「是非!──そういえば博多の島井宗室殿が今、堺におられるとか。御一緒に御招きしたい。上様は毛利を攻め取られ、次は九州もというお考えでおられる。島井宗室殿が堺におられると知れば喜ばれ、会いたいと思われる筈。お目通りの取り次ぎを某が致しましょうと宗室殿にお伝え頂きたい。茶会は正月の七日を予定しておりますが如何がでこざるか?上様から拝領した八角釜を用いるつもりでおります」


 所有する名物茶器の披露を兼ねて茶会が開かれるのは良くある事だった。


「ああ、あきまへん。正月は用事が偉い詰まっとります。一月終わり頃か二月なら空いてるんやけど、そやかてええでっか?宗室殿には聞いてみーへん事には分かりまへんが喜ぶやろうな」


 島井宗室は博多の豪商、光秀と親交深い津田宗及、千宗易とは、商人の顔と数奇者としての両面で昵懇の仲だ。

 光秀は堺の商人達を通して宗室と繋がっている。

 実は信長に取り次ぐという餌をちらつかせるのは、宗室の立場を知っての事だ。

 島井家は日朝貿易で財を成し、九州の大名、大友宗麟に軍資金を調達し、その見返りとして商売における様々な利権を得てきた。

 ところが天正六年の耳川の戦いで大友氏が島津氏に大敗してしまった。

 大友氏の庇護下で利権を貪ってきた島井家には、実に雲行きが怪しい展開となってしまった訳だ。

 今、島井家は大友氏に代わる庇護者を求めている。

 同じ庇護なら、より強い者が良いに決まっていた。



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