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十一月になると、甲斐の武田家の人質となっていた信長の五男、織田勝長が信長の元へ送り返されてきた。
「御坊(勝長の幼名)を戻すじゃと? 」
信長は少し驚いた。
五男の勝長が武田の人質になった経緯も、今頃織田家に戻された経緯も些か複雑であった。
美濃の岩村城主は遠山景任という男だった。
遠山氏は立地上、元々は武田と織田の両家と敵対する事なく中立を保っていた。
信長は叔母のおつやの方を遠山景任に嫁がせていたのだが、景任が病死し跡継ぎがいなかった為、五男の勝長に継がせた。
未亡人おつやの方が城代を務め幼い勝長の後見人となったが、武田方の武将秋山信友の攻撃を受け元亀三年に落城した。
その時に、おつやの方は敵将秋山信友の妻にされ、幼い勝長は人質として武田信玄の元へ送られてしまったのだ。
三年後に織田軍が岩村城を奪還するのだが、信長は敵将秋山信友だけでなく、自分の叔母のおつやの方も姦婦として逆さ磔で処刑する程の苛烈さを見せた。
武田の人質となってから九年の時が経過している。
今頃になって武田が織田家に人質を返してきたのは、和睦、恭順を示す為。
信玄亡き後の長篠の戦いから徐々に勢いは弱まり、今年徳川軍に高天神城を包囲され援軍を送れずに見捨てた事で、武田勝頼の力無さを周囲が知るところとなり信用は失墜した。
甲斐の武田は水面下で綻びを見せ始めていた。
織田御坊勝長が父への挨拶の為に安土城を訪れた。
勝長は既に武田家で元服を済ませている。
故に勝頼の勝に信長の長で勝長と名乗っていた。
勝長は乱法師と同じ歳頃に見えた。
顔立ちは、確かに親子である事を如実に物語っている。
信長は、目の前の息子と名乗る者の記憶を辿った。
幼い時に岐阜にいた時ですら、殆んど言葉を交わす機会がなかったように思う。
九年の時は少年の面差しを変えるには十分な時間だ。
声は低く背丈は伸び、通常の親子ならば立派になったと抱き締め感涙に咽ぶ事だろう。
ところが信長は真っ先に思った。
『確かに御坊じゃ。偽者を寄越した訳ではなさそうじゃな。四郎(勝頼)もいよいよ虫の息。これで心置きなく武田討伐が出来る。甲州攻めには御坊を連れて行けば、敵地を良く知り得る上に首実検でも役に立つな』
非情な考えではあるが、情愛は無くとも血を分けた者同士、息子と認め、小袖や刀、鷹や馬や槍を勝長に贈り、犬山城の城主にすると申し渡した。
武田勝頼の苦肉の策は意味を成さなかった。
既に武田を討つ決意は固く、遠山友忠をして武田の家臣達に対する調略が進められていたのだ。
「無事に織田家に戻った事、真に目出度い限りじゃ。だが、この儂の倅であるのに諱が勝長では可笑しいのぅ。これより源三郎信房と名乗るが良い」
「はは! 」
親子の九年振りの再会は、終始淡々と親しげな会話も抱擁もなく終わった。
「乱!御坊をどう見た? 」
「さすがは親子。上様に良う似ておられました。源三郎様も我が家に漸く戻って来られたと安堵された事でございましょう」
我ながら、当たり障りのないつまらぬ答えと思った。
「本音を聞いておる。儂が聞きたいのはそのような事ではないと分かっておる癖に」
乱法師は仕方無いというように首を
「赤の他人の空似と御心配であれば、湯殿で身体の特徴まで調べさせる手もあるかと。長い間、離れておられたせいか、上様を御父上と実感される御気持ちは薄いと感じました。どう接してよいかというような……であるからこそ策を含んでいる風には見えませぬ。言い含められた刺客であれば泣いてみせた事でしょう」
「──さすがは乱じゃ!そなたも悪よのぅ」
「戯れ言を。それよりも、本物であっても長く武田にいたせいで、気持ちが未だ武田にあるやもと懸念されておられるのでは? 」
「多少はのう。いずれにせよ、そなたの申す通り織田に敵意あらば、親しげな素振りを見せた事であろう。暫く見張らせよう。中々、実の親子でも他所他所しい限りじゃ。それにしても──」
言葉を止め、乱法師を力強く引き寄せ膝の上に抱き抱える。
手が伸びて額に優しく置かれ、次に首筋に、最後に頬に触れる。
「何やら浮かぬ顔じゃな。心配事でもあるのか?それとも風邪か。熱はないようじゃが」
セミナリヨで演奏を聴いていた時、頭に浮かんだ白鷹の飛翔する情景が、その後もふとした拍子に度々彼の心を占めるようになっていた。
自由に空を飛ぶ鷹はどこまでも雄壮で心地良さそうなのに、それを地上から眺める自分は、時折胸が締め付けられ切ない気持ちになる。
鷹になりたいのだろうか。
鷹のように空を飛びたいのだろうか。
情景が心に浮かぶ度に自問自答するのだが、答えが出ない。
いや──答えを出すのが怖いのだ。
「武田を討伐される時には、中将様(信忠)を総大将にされるのでございますか? 」
咄嗟に思い付いた。
信長は首を傾げたが、即座に合点がいき溜め息混じりに言った。
「やれやれ、そなたまで!松姫の事か?どいつもこいつも甘っちょろいのぅ。ふん、何も松姫を討ち取れと申している訳ではあるまい」
「はい、確かに甘い考えとは存じますが、中将様の御気持ちを考えると、つい……」
「今の松姫には大した利用価値はない。が、腐っても名門武田の姫。女の身一つ。逃げるというなら逃げれば良い。追ったりはせぬ。軍勢が進む途上におれば容赦はせぬがな」
本心を誤魔化す為に松姫の話を出しただけだったが、出来る事なら命だけは助けたい。
父に似ず、純粋な信忠の思いが成就する事を心より祈っていた。
「それはそうと、そなたの一番下の弟は、確か仙、と申したか。今、何をしておる? 」
乱法師の唇を、顎を支えた手の親指で軽くなぞる。
「仙は今、金山の森家に縁ある寺に預け僧侶になるべく修行中にございます」
本願寺との和睦を信長が呑む条件として、仙千代が僧侶になるという約束を森家と交わしていた。
若年の為、未だ有髪で熱心に修行に励んでいると耳に入ってきている。
「その仙千代じゃが、そなたに異論なくば、来年小姓として召し出そうと考えておる」
信長の突然の言葉に耳を疑う。
「ですが仙千代は、本願寺との和睦の証として──無論、有り難いお話ですが、森家の者ばかり小姓に取り立てられ……いえ、それよりも仙を僧侶にする事は上様との約束でございます。良いのですか? 」
「ふ、後一人くらいどうという事もない。来年、早いうちに召し出してやりたいが、髪は剃っておるのか? 」
「いえ、有髪の儘でございます。兄と母にも伝えねばなりませぬ。本人は喜ぶかと存じますが、末っ子の甘ったれでお役に立てるかが心配です」
信長の気持ちが心底有り難かった。
心配なのは母の複雑な思いだけだ。
息子達の手柄話や出世が嬉しくない訳がない。
なれど、武士として出世するとは即ち人を殺め、また己の命も失う可能性があるという事。
僧侶としての生き方に華やかさはなくとも命の危険は少ない。
母は此度の話をどう受け止めるのか。
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