昨年から兵糧攻めを行っていた甲斐の武田の居城、高天神城が漸く落城したとの報せが徳川家康から齎された頃、再び朝廷からの使者が安土を訪れた。

 勅使は、帝が譲位し誠仁親王に帝位を譲るとの決定を信長に伝えた。

 相互の思惑に食い違いは無いように思えた。

 信長の望み通りに事が運び、譲位後に左大臣の官職を受ければ良いだけ──


「今年は金神の年でございますので、譲位は別の年に延期されるのが宜しいかと存ずる」


 金神とは方位の神で、金神がいる方角は大凶とされる。

 金神のいる方角は年によって変わるものらしく、この年の御所の方角が、どうやらそれに当たってしまったようだ。

 朝廷が以前から譲位を望んでいるのを知っていて数日前には承諾しておきながら、悪女が突然男を袖にするかのような信長の惨い気の変わりようではある。

 陰陽道、神道における吉兆の診断で、宮中の大きな行事が執り行われるのは古よりの習わしである。

 譲位を協議し、勅使を遣わした時点で『金神』の事は既に把握していた筈だ。

 方角の吉兆は『方違え』で解決出来るのだから、譲位を延期するのには深い理由があるのだと乱法師は考えた。


 常に側にいれば思いは伝わる。

 彼も朝廷という『権威』が、既に権力を持たぬ脱け殻である事に気付いていた。


 ────


 光秀は連歌の師である里村紹巴と、茶道の師、津田宗及と共に丹後宮津城への長閑な旅路の途上にあった。

 丹後の宮津城は立場上光秀の与力であるが、親友とも呼ぶべき細川藤孝父子の居城である。 

 春の景色を楽しみ、道々連歌を詠みつつ旅をする風流な連歌興行。

 鳥が羽ばたき春風そよぎ、道に咲く鮮やかな花々に目を留めれば、次々と句が浮かんでくる。


『咲にけりかへりまうしの花の種』


 発句を光秀が詠んだ。

 連歌には百韻、その百韻を十回重ねる千句興行がある。 

 文字通り、参加者一人一人が句を読み連ねて展開させる長い長い歌だ。

 前句の情景を踏まえながら句を連ね、時に単調にならないように転換させ、自然に変化を持たせる技量が必要となる。

 即興性の高い遊戯である為、千句も連ねていくには余程の機転と教養が無ければ無理というものだ。

 馬を歩ませぽくぽくと、気心知れた友と楽しく話らいながら進んで行けば、ささやかな憂慮の種も疲労も何処かに吹き飛んでしまう。

 今の光秀は誰の目から見ても順風満帆だった。

 憂慮すべき事があるとすれば、取り次ぎとして深く関わってきた四国の情勢が変化してきた事かもしれない。

 明智家重臣である斎藤利三とその実兄の石谷頼辰(石谷氏の養子となっている為)が四国の大名、長宗我部元親と縁戚関係を結んでおり、その調略や取り次ぎ役を担ってきたのが明智光秀だった。


 四国の領土を争う勢力は、大きく分けて三つ。

 毛利、長宗我部、三好。

 毛利氏は織田家の紛れもない敵である。


 問題となるのは他の二つの勢力、長宗我部と三好が、どちらも織田に臣従しているという点だ。

 信長が長宗我部元親に四国の領土を切り取り次第と認めたのは、三好康長が、まだ織田家に入り込む前の事だった。

 三好康長は臣従後、上手く信長に取り入り、居城とする河内の高屋城から安土にやってくる度に、長宗我部を貶める讒言を行っているようなのだ。


 このような複雑な事情により、信長も発言を撤回せざるを得なくなった。

 長宗我部に四国全土の支配を認めれば、臣従を誓う三好氏を敵に回す事になる。

 両家の均衡を保つのが大事だが、天秤に掛けた場合、近頃発言権を増しているのは三好氏の方だった。

 三好康長は四国に強い地盤を持つ事から、攻略担当として河内から度々四国に渡り調略を行っている。


 厄介なのは、信長の気持ちが三好氏に傾きかけている事だけではない。

 中国攻めを行う羽柴秀吉と連携して、三好氏が四国の攻略に当たっていた。

 毛利の情勢を気にしながら中国に在陣する秀吉が、阿波に地盤を持つ三好氏と組むのは自然な成り行きだった。


 光秀が不快に感じるのは秀吉の腹黒さだ。

 彼は秀吉を蔑んでいた。

 教養を磨き知性と品格を身につけ、朝廷からも一目置かれる存在となった彼には、大身となった今も下賎な雰囲気が抜けない秀吉など愚かしいばかりだ。 


 腹が立つのは剽げた雰囲気が却って警戒心を抱かせないからか、人の心を取り込む術に異常に長けている点だった。

 近習衆にばかり胡麻を擂る卑屈な態度が気に食わなかった。

 愛嬌のある笑顔や態度の裏で、力の動きに敏感な秀吉は、間違いなく今、三好と手を組む事が毛利対策だけでなく織田家中での地位向上にも役立つと気付いている筈だ。

 

 つまりは家中一の与力を持つ光秀を追い落とす事も可能だ、と。


「十兵衛はん……どないしはりました? 」


 険しい表情で眉根を寄せる光秀の様子を、同行した二人が案じた。

 はっと我に返る。

 辺りを見回せば、鳥の囀ずりに爽やかな新緑の若葉繁る街道にいて、丹後の宮津城は目の前にあった。

 今は考えまい。

 

 細川父子の茶会で手厚い持て成しを受けた後は、船を浮かべて天橋立見物となった。


 天橋立は言わずとしれた日本三景の一つ。

 長く縦に伸びる砂州に、八千本もの松が生い繁る圧巻の眺めは、自然が創り上げた奇跡の美だ。

 神の手に依るかのような風光明媚な絶景に、光秀は言葉も忘れ暫し見惚れた。


 天に架かる橋のようだから天橋立。

 砂州を渡って往けば、真に天に辿り着けそうだった。


 壮大な景色が、個として限りある己を忘れさせてくれる。


『植ふるてふ松は千年のさなえ哉』


 光秀の発句。


『夏山うつす水のみなかみ』


  細川藤孝が後を続ける。


『夕立のあとさりげなき月見へて』


 紹巴が第三の句を付け歌は続き、真に優雅な一時が過ぎていった。



 

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