第12章 十九戒


「ふぅむ、それは難儀であったな。で、その後一体どうなったのじゃ? 」


 馬揃えが終わった後も、暫く信長は本能寺に滞在していた。

 身を乗り出し興味深げに耳を傾けるのは、宣教師達の冒険談だ。

 豊後から都に上ってくるまでの間に、宣教師達は幾度となく命の危険に遭遇していた。

 塩飽の港で毛利に引き渡されるかもしれない恐怖に怯え一夜を明かした事。

 運良くやり過ごしたと思ったら、次は海賊に追跡された事。


「我等の船の船頭が追い付かれないように必死に漕ぎました。海賊の船は二艘で、凄い勢いで追いかけて来ました。もう、ほとんど追い付かれるという所で堺の港に辿り着けたのです」


 ルイス・フロイスは、その時の恐怖を思い出したかのように緊張の面持ちで臨場感たっぷりに語った。


 さて、信長の従者となった弥助はすっかり人気者で、特に若い馬廻り衆や小姓衆は暇さえあれば話したがり、武術の鍛練という名目で相撲を取りたがった。

 乱法師や坊丸や力丸も投げ飛ばされ、信長はそれを見て大笑いした。


 ───勅使が三月九日に本能寺を訪れた。


 目的は左大臣への推任。

 右大臣の官職を返上し散位となっている信長に、新たに任官を勧めてきたのだ。

 当然受けるものと乱法師は思っていた。


 多少の思惑と本音を隠した申し出は、すんなり受けたのでは意味がない。

 朝廷が大した切り札を持っていない事は承知している。


「今上帝(正親町天皇)が御譲位され、宮様(誠仁親王)が御即位されましたら、お受け致したく存ずる」


 信長の返答に朝廷は喜んだ。

 正親町天皇は今年で齢六十五歳の高齢である。

 以前から譲位を望んでいた。

 ところが出来ない事情があった。

 要は金がないのだ。   

 上手く描かれた紙の御殿に等しく、遠くから見れば典雅華麗であっても、一度強い風に吹かれれば忽ちひらりと飛んでいく。

 朝廷は自身の力で立てぬが故に、落ちぶれた美姫の如く時の権力者にすり寄るしかない。

 仙洞御所とは譲位した帝の住まう場所。

 造営には莫大な費用が掛かる。

 ならば建てなければ良い、という訳にいかないのは、伝統や格式を保ってこその権威だからだ。

 権威を持たぬ朝廷になぞ、地方の大名ですら目もくれなくなるだろう。


 信長は心の底では冷ややかに見ている。

 滅びる者はいずれ滅びる。

 同時にこのようにも考えていた。

 利用出来る限り利用する。

 譲位は此方の要求を呑ませる切り札としても使える、と。


 譲位に向けての朝廷の協議の結果を待たず、三月十日に信長は宣教師達を伴い帰城した。

 安土城の壮麗さに感動したルイス・フロイスは、堅固、華麗さ、財宝においてヨーロッパの最も壮大な城に比肩しうると後に記録している。

 高く聳え立つ天守閣の美しさは琵琶湖からも望めるが、それ以外にも妻妾達の住まう宮殿、信長の居住空間ともなる御殿に、帝を迎える為の御幸の間や、粋を尽くした庭園も含めれば実に語り尽くせない。

 宣教師達に安土城の拝観順序まで指示する念の入れようだった。


 あれこれと持て成し、異国の面白い話を聞いたりして過ごしている間、播磨の姫路城にいる羽柴秀吉から長谷川秀一宛てに文が届いた。


「何々?剥げ鼠(秀吉のあだ名)め!馬揃えに参加出来なかった事を随分悔しがっておるようじゃな。ははは、次こそは参加したい?ふん!少し憐れじゃのう。姫路城の普請は終わったらしいな。竹(長谷川秀一)!剥げ鼠に馬揃えの様子を詳しく書き送ってやるがよい」


 さも愉快そうに傍らにいる乱法師にも秀吉からの文を手渡した。

 何気なく宛名を見て、次に送り主の名に移りはっとした。

 宛名は『長竹』へとあり、長谷川秀一の略称である。

 送り主の名は『羽藤』とあった。

 その儘読めば『はとう』。

 少し前に聞いた『はとうが』という言葉は秀吉の事を指していたのだと漸く納得した。


 羽藤は羽柴藤吉郎秀吉の略であろう。

 日頃から長竹や羽藤などと気軽に呼び合うのは余程に仲が良い証拠。

 秀吉と気脈を通じているのが長谷川だけではない事を、乱法師は以前から知っていた。


 菅屋長頼、矢部家定、猪子兵介、堀秀政。

 信長の信頼篤く、その意見を覆せる程の力を持つ近習達は皆、秀吉と通じている。

 乱法師を除いて──


 秀吉と仲が悪いのではなく取り込む暇がなかったというだけだ。

 秀吉からすれば、乱法師まで取り込めれば信長対策は万全と考えている。


『はとう』が羽藤であると謎が解けてしまえば大した驚きはない。

 流石は後世まで『人たらし』と伝わるだけの事はある。

 彼等、近習達の秀吉に対する思い入れはかなりのもので、失態による処罰などの協議、或いや紛争対立があった際に、力を合わせて信長から庇うと約束しているのだ。

 秀吉は失敗しない方法を考え、更に失敗した時の事も考える男だった。

 能力に依って成り上がったからこそ、若者に追い抜かれ老いて疲弊し、今後地位を保つのは難しいと悟っている。

 秀吉と少なからず対立する武将がいたとしたら、長谷川宛てに馴れ馴れしく羽藤と記した文を見れば、心中穏やかではいられないであろう。


 乱法師にとっては特別な意味はなかった。

 能力も年も上の五人を敵にまわしても負けない程、彼は信長の心の奥深くに入り込んでいたのだから。



 

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